第3章 東京ウォーカー<佐伯 比未子>
夜行バスのドアが開くと、
冷たい空気が流れ込んできた。
窓の外にはまだ
街は白く
わたしはぼんやりとした頭のまま、
足を地面につけた。
誰に言われたわけでもないのに、
体が自然と動いていた。
――誰でもいい。
わたしは、「悪くない」って言ってほしかった。
バッグの中には最低限の荷物と、
昨夜コンビニで買ったペットボトルの水。
行くあてもなく、ただ歩いた。
朝5時に東京駅でバスを降りてから、
どこをどう歩いたのか覚えていない。
気がつけば、東京ドームの近くまで来ていた。
あの日、あの場所で――彼と出会った場所。
立ち止まり、スマホを取り出して開く。
かじかむ指が勝手に動いて、
いつも見ていた
アカウントを検索していた。更新のないSNS。
「そう都合よく助けてなんてくれないよね」
会った時の印象は最悪のはず。
ましてや一度話しただけの得体の知れない女を
わざわざ助ける義理なんてどこにもない。
でもなぜかどこかで、届くような気がした。
そう信じたかった。
10分くらい東京ドームを見つめていただろうか。その時、背後から声がした。
「あんた、こんなとこで何してんだよ」
聞き覚えのある声。
振り返ると、緋山さんが立っていた。
「…緋山さん…どうしてここに?」
「…その…朝の日課のジョギングをだな…」
――ほんと、嘘の下手な人だ。
きっとあの“助けて”を受け取ってくれたのだと、鈍感なわたしでもすぐにわかった。
「…泣いてんのか?」
「泣いてません」
「嘘つけって。どう見ても泣いてるだろ」
「泣いてないもん!」
緋山さんは少し面倒くさそうに頭をかき、
深く大きなため息をついた。
「いったいどうしたんだよ、こんな時間に」
「…なんかね、全部捨てたくなっちゃった」
彼の眼はまっすぐわたしを見ている。
言葉の代わりに、ポケットから
缶コーヒーを一本取り出して差し出してくれた。
「ほら、冷めたくなってるけど」
「…ありがとう」
「さ、風邪ひくし帰るぞ」
「やだ!帰りたくないです!一緒にいて!」
彼は驚いた表情を隠せない様子だった。
ふしだらな女だと思われたかもしれない。
少し間を置いて、困ったように笑う。
「女が自分からそんな軽いこと言うなよ」
「緋山さんは、そんな人じゃないでしょ?」
「…うち、ボロいし汚いぞ」
「うん」
「…マジで来る気?」
「うん」
「バカだな」
「知ってます」
緋山さんは頭をがしがしと掻いて、
わたしから目を逸らしぼそりと呟いた。
「…ゴキブリとか出ても、でかい声出すなよ」
わたしは驚いた。
驚いたのはゴキブリの話じゃない。
こんな得体のしれない女に向き合ってくれる――その人の心の温かさに、だった。
「…ほんとに? いいの?」
「居場所、他にねえんだろ?」
その言葉を聞いた瞬間、
わたしの中で何かがほどけた。
冷たい空気の中で、
東京の朝が少しだけ優しく見えた。
朝日を浴びながら歩く彼の背中に、
太陽のようなものを感じていた。
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