4.予兆

 完全に暗くなるまえに士官学校へ戻ろうと、早足で通りを歩いた。そのせいか弾んだ声で、アルフレッドが「楽しかったですね」と言う。

「また来たいですね……次も、よろしければ一緒に」

 本当はうなずきたかったけれど、どう答えるのが正しいかわからずにキースは黙っていた。

 隣を歩いているアルフレッドの足が、徐々に遅くなる。やがて立ち止まった。

 返事をしなかったことで傷つけてしまったのだろうかと自分でも驚くほど慌てて、キースは後ろを振り向く。名前を呼んだ。

「アルフレッド?」

 彼はこちらを見ていた。けれど視線は交わらず、どこかぼんやりとしている。一瞬後、まなざしを鋭くして背後を振り返った。黙ったまま、なにかを探して首を巡らせている。様子がおかしい。

 近づくと、羽音のようなあの音がして、彼が同胞の声を聞きつけたのだとわかった。

「……」

 ぎゅっとどこが痛むように眉根を寄せ、アルフレッドはふたたびキースのほうを向くと、「行きましょう」と言った。腕を取られる。大股で、先ほど向かっていた街の外へと歩き出そうとする。

「待て、なにがあった」

 そのとき、「きゃあ」という悲鳴をキースの耳が捉えた。人間の――女性の声だった。咄嗟にそちらへ駆け出そうとするキースの腕を、アルフレッドが強く引く。

「いけません」

「離せ」

「今は逃げたほうがいい。俺たちは丸腰ですし……」

「離せと言っているだろう!」

 大きな声を出すと、腕を掴む力が緩んだ。その隙に振り払う。

 アルフレッドは、今にも走り出そうとするキースを引き留めるように、苦しげな声で言った。

「……状況が、よくわからない。ただ、大勢の蟲たちの怒っている声と苦しんでいる声が同時に聞こえます。近づくのは危険です」

「助けを求める声もあるだろう」

「え?」

 アルフレッドはハッとした顔をする。それを肯定と受け取って、キースはぐっと手を握った。

「助けを求める声を無視できない。わたしは軍人で、王族なのだから」

 そうして今やはっきりと聞こえる、悲鳴のほうへ向かって走り出した。

 少し前までなら、こうすることをためらっていたような気がする。アルフレッドの言うとおり、「丸腰でできることは何もない」と耳を塞いで逃げ帰っていたかもしれない。そうしたところで、責める者もいないだろう。

 けれど、助けるのが当然だと感じて身体が動いたのは――先ほど話に聞いた幼いころの自分と、それから「ああ、もう!」と叫んで、それでも後を追ってきてくれるアルフレッドのためだ。彼らを失望させたくなかった。

 近づくにつれて、ふたりとは反対へ向かう人たちと多くすれ違う。逃げるような早足で、後ろを気にしながら。

 騒ぎが起きていたのは、街のはずれだった。

 もう日暮れだというのに、街路を埋め尽くすほどの人間が集まっている。ランタンを掲げている者も複数いて、そこだけが煌々と明るい。彼らはこちらに背を向けて、一方向をじっと見ている。全員、黙ったままなのが不気味だった。

「離せよ!」

「死ね! 死んじまえ!」

 人垣の奥から、悲鳴と怒号が聞こえる。

 キースは覚悟を決めると、「失礼」と言いながら多少強引に、目の前を塞ぐ人間たちの肩を掴んで押しのけていった。舌打ち、「なんだ!?」という文句、押し返してくる肘。すべて無視して、向こう側に出る。

 そこには、複数の蟲たちが倒れていた。うめき声が聞こえるので、生きてはいるようだ。瘦せ細って、着ている服は泥と垢にまみれ、独特の臭気がする。どこかから逃げてきた浮浪者だろう。辺りには彼らが物乞いをして集めたらしい小銭が散らばっている。

 その先で、どこにでもいるような人間の男たちが、まだ意識のある蟲に暴行を加えている。

 人間も、蟲も、いずれも数は十人ちょっと。

 男たちには、若いのもいれば、歳を取ったのもいる。ほとんどの者が武器を持っている。

 彼らと素手で取っ組み合い、棒で殴られ、うずくまったところを蹴られている蟲たちは、痩せて、身なりも貧しい――この街で働いている労働者のようだった。

 事情はわからない。事情はわからないが……推察するに、人間と浮浪者の蟲のあいだに揉め事があり、暴力沙汰となった。そこにそれぞれ仲間たちが加勢に入り、ここまでの大きな騒ぎに発展したようだ。

 しかし、日々奴隷のようにこき使われている蟲たちが、人間相手に互角に闘えるはずもない。もはや、彼らが一方的に痛めつけられている。

 キースは今も暴力を振るう手を止めない男たちに「やめろ!」と叫ぶが、頭に血がのぼった彼らには届かなかった。

 すう、と息を吸い込む。

 剣技の訓練からは、しばらく遠ざかっているが――やるしかないだろう。

 すぐそばで、力尽きてくずおれた蟲の身体に一人の男が跨り、手に持った木槌を振りかざした。キースはその木槌の頭を掴み、無理な方向へ捩じ曲げた。男はうめき声をあげて手を離す。そのまま、その場にうずくまった。

 手に入れた木槌の柄を、確かめるように握りしめた。これは剣ではない。手触りも重さもまったく違う。だから、問題ない。そう自分に言い聞かせる。

 目の前で包丁を振り回している男に歩み寄る。男は対峙する蟲を威嚇しているようだったが、キースの姿に気づくと、さらに闇雲に包丁をぶんぶんと振った。

 「すまない」とだけ言って、男の動きを見切って、木槌で手の甲を思い切り横殴りにした。男が「ぎゃっ」と叫んでうずくまる。包丁が石畳に落ちて、高い音を立てる。

「なんだ、てめえ」

 複数の男がキースの存在に気づく。暴行を加えていた、息も絶え絶えの蟲たちを放り出すと、群れをなしてこちらへ向かってくる。

 そのとき、背後から「公爵!」と声がした。どこから拾ったのか木刀を持って、アルフレッドが駆けてくる。

「公爵だと?」

 わずかでも頭に冷静な部分の残っている者たちは、動きを止めた。

 しかし、アルフレッドの背後から、事態を静観していた群衆のひとりが飛び出してきた。その手のなかで、なにかがギラリと光を反射する。

 ナイフだ。

「アル!」

 キースが叫ぶよりも早く、アルフレッドは身をひるがえして木刀を振るった。下から上へ、払うように。

 アルフレッドを切りつけようとした男は、「うわっ」と声をあげる。弾かれた手からナイフが飛び出し、群衆が叫び声をあげて避けようとする。人と人とがぶつかり、足を踏み合い、騒然となる。しかし、アルフレッドを含め、怪我をした者はないようだ。

 キースは周囲をぐるりと見まわしてから、騒ぎに乗じて逃げようとしている男たちの前に出た。皆、興奮が冷めたように一様に卑屈な目をして、こちらを見る。媚びるような半笑いを唇に浮かべている者すらいる。そこに反省の色はなく、ただ、どうすればこの場を言い逃れられるのか、必死に頭を回転させているようだ。

 キースは朗々たる声で言った。

「わたしは、キース・ホーリーランド公爵である。きみたちの顔は覚えた。この場から逃れた者には、すでに犯した罪に対していっそう重い罰が課されることになるだろう。愚かな考えは捨てなさい」

 アルフレッドが隣に立つ。きらきらとしたまなざしでこちらを見つめているのがわかる。

 遠くから、馬のひづめと警笛の音が聞こえてくる。街に駐在する憲兵隊だ。

 キースはひそかに安堵の息を吐いた。



 その日は憲兵隊の馬を借りて寮へと戻り、明くる日曜日、事情聴取を受けがてら馬を返しに行った。

 キースが騒動の鎮圧に関わったことは知られていて、事情を聞きに寮まで憲兵隊長が足を運んできたのだが、その際、アルフレッドには詰め所に出頭しろと告げたことを知り、どうせならと全員で街にある詰め所まで戻った。キースの前で、憲兵隊長は終始恐縮していた。

 キースはすぐに解放された。自分よりも遅れて騒ぎを止めに入ったアルフレッドの聴取も、同様にすぐ終わると期待していたが、しばらく待っても彼は取り調べを受けている部屋から出てこなかった。若い憲兵が「もう少しかかるかと思います」と腰を低くして謝るので、先に戻っていると言伝を頼んで、寮に帰った。

 食堂を覗いて遅めの昼食を出してもらい、自室に戻る。ベッドに横たわり、あれこれ物思いにふけっていると、次第に瞼が重くなってくる。いつのまにか、キースは眠りに落ちていた。

 ひさしぶりに悪くない夢を見た。

 キースは屋敷の東屋のしたに座っていた。けれど季節は秋で、ひんやりとした風が頬を撫でる。隣には、キースの領地を訪ねたことなどないはずのアルフレッドがいる。彼も秋風を味わうために、おとがいを上向けて瞼を伏せた。

 目を閉じたまま、『いい天気ですね』とアルフレッドが歌うように言う。それから、ゆっくりと目を開いて、『このまま、どこか遠くへ行きませんか』と微笑んだ。

 差し出された手を、キースはためらいなく掴んだ。あたたかな体温。一緒に立ち上がって、東屋から出る。常緑樹ばかりが植えられたはずの屋敷の庭は、どういうわけか紅葉していて、ふたりは落ち葉を踏みながら歩いた。さく、さく、と音がする。

 コンコン、とノックの音がして、キースは目を覚ました。

 ハッとして窓の外を見る。すっかり日は落ちていた。時計は午後八時過ぎを指している。ずいぶんと長く眠ってしまったようだ。開け放したままだった窓を閉めて、冷えた身体を擦りながら扉を開いた。

 アルフレッドがいた。憔悴しきった顔で、しかし無理に笑みを張り付けている。

 「今終わったのか」と尋ねると、アルフレッドはうなずいた。それから「これ」と言って、包みを差し出した。首を傾げると、アルフレッドは今度は自然な笑みを浮かべた。

「忘れてしまったんですか? あなたの本ですよ」

 ああ、と思い出して、羞恥に頬が熱くなる。いくら知られているといっても、恥ずかしいものは恥ずかしかった。自分の隠した欲望まで知られているようで。

 「ありがとう」と言って、代金を渡すとアルフレッドは素直に受け取った。いつもならもっと会話を続けようとするだろうに、「それじゃあ、おやすみなさい」と言って彼は立ち去ろうとする。疲れたのだろう、無理もない。

 普段はぴんと伸びている背筋が丸まっていて、その背中になにか声をかけたかった。でもなにを言えばいいのかわからなくて、けれど迷っているうちに彼は隣の部屋のドアを開けて、今にも見えなくなってしまいそうだ。

「アルフレッド」

 呼びかけると足を止めて、不思議そうにこちらを見た。

「その……ありがとう。本のことだけじゃなくて、いろいろと」

 アルフレッドは、目を細めて笑った。

「あなたにお礼を言わなくちゃいけないのは、ずっと、俺のほうなんですよ」

 その言葉を聞いて、なぜだか少し泣きそうになった。それをごまかすように、キースは顔を反らして早口で「じゃあ、おやすみ」と言う。アルフレッドは、はにかんで「はい、おやすみなさい」と応えた。

 別れの挨拶をしたのは自分なのに、なんだか名残惜しいような気分になって、キースは余計なことを口走る。

「ゆっくり休みなさい」

 あはは、と明るい笑い声が返ってきて、安堵する。

「あなたにそう命令されたら、もう、めちゃくちゃ安眠できそうです」

 命令じゃない、と口のなかでもごもごつぶやくキースに、アルフレッドは笑った。もう一度、「おやすみ」と囁いて、ゆっくりと扉が閉まる。

 その優しくて、どこか甘い声が、いつまでも耳の奥に残っていた。



 変な時間に長い昼寝をしてしまったせいだろう。

 慌てて食堂へ夕飯を食べに行き、風呂に入り、明日の準備をし、寝支度を整え、ベッドに入っても――先ほどと違ってなかなか睡魔は訪れない。

 何度も寝返りを打ち、細い眠りの糸を掴もうと努力したけれど、やがてキースは諦めて目を開いた。枕元のランプをつけ、ベッドから降りる。

 手に取ったのは、先ほどアルフレッドから渡された本だった。一度ページを開いたら最後まで夢中で読み終えてしまうのがわかっていたから、ゆっくり時間が取れるときに読もうと思っていたけれど。

 本をぎゅっと胸に押しつけた。「おやすみ」と囁いたアルフレッドの声が、また耳の奥に蘇ってくる。反芻するうちに、次第に記憶が曖昧になっている。こんなふうに、いつもよりも低く、熱を帯びた声だっただろうか?

 大きく首を振った。妙なことを考えてしまうぐらいなら、物語に没頭したほうがマシだ。あれだけ寝たのだから、ちょっとくらい夜更かしをしても平気だろう……自分に言い訳しながら、行儀悪くベッドに寝転がったまま本を開いた。

 すでに古本屋で少しだけ読んでいたが、すぐにまた物語に引き込まれる。

 戦乱で夫を失った貴婦人の元へ、戦場で彼のために戦ったという見知らぬ騎士が訪ねてくる。夫への恩義を返すため、貴婦人に仕えたいという騎士の申し出を彼女は渋々受け入れる。なにもかも正反対のふたりは、主従であるにもかかわらず、さまざまな場面で反目しあう。しかし、やがて互いに惹かれてゆき……。

 屋敷の庭園。ほかの使用人からは見えないふたりだけの花陰で、騎士は狂おしい愛を告白する。『なりません』と貴婦人が拒絶の言葉を口にする。『夫を裏切るわけには』と走り去ろうとする。しかし、それが口だけの拒絶であることは互いに知っていて、騎士は貴婦人を背後から抱きすくめる。彼女は息をすることも声を出すことも忘れてしまう。『離せとおっしゃってください』と騎士は懇願する。貴婦人は黙っている。

 うっとりと情景を頭に浮かべながら、しかしキースの指先は、近ごろ知ったばかりの体温を恋しがって疼いた。

 己の前髪を掻き分け、そのまま、かすかにこめかみに触れていた指先。アクシデントから手の甲に重ねられ、けれど、しばらく重なっていた手のひら。背中に触れていた、広く厚い胸。

 ハッとして、貴婦人と騎士の恋物語に意識を集中させようとする。

 騎士がきつい抱擁を解いて、『こちらを向いてください』と言う。貴婦人が振り向くと、彼はひざまずく。彼女の手の甲にうやうやしく口づけを落とす。しかし、その口づけは手を裏返して手首の皮膚の薄い部分へ。そして、袖口を飾る可憐なレース越し。その次は、第二の肌のごとくぴったりした絹越しに、腕をじりじり上へ上へとのぼっていく。まるで、どこまでが許される敬愛のキスで、どこからは許されざる恋慕のキスなのか、試すように。

 ぞくぞくぞく、とキースの皮膚を痺れるような感覚が走った。この感覚には覚えがあった――アルフレッドに触れられるたび、湧き上がるもの。

 「は」と思わず熱い吐息を漏らした。いつのまにか想像のなかで口づけられているのは自分自身になっていた。そして、口づけているのは……。

 裸の肘の内側を、薄い唇がちゅうと吸いあげる。くすぐったくて、けれどたしかに心地がよくて、キースは小さな声を漏らす。その声をからかうように、喜ぶように、いたずらっぽい色を滲ませた紅い瞳がこちらを上目遣いに見上げる。

「アル……」

 自分でも聞いたことのない、自分の声だった。うっとりと陶酔した、甘ったるい鼻声に驚く。とんでもない想像をしてしまっていたことに気がついて、キースは勢いよく本を閉じた。あまりの勢いに、パタン! と音がして、風が起こって前髪が浮いた。

「……」

 キースは目を見開いたまま、しばらく天井を見上げていた。心臓が、ばくばくと激しい鼓動を打っている。その音が耳の奥で響いて、ひどくうるさい。

 最悪だ。友人を使って、はしたない想像をしてしまうなんて。

 そう考えて、ふと気づく。

 「友人」? 自分は彼のことを、いつのまに友人だと認めてしまったのか?  さらには、それに飽き足らず……?

 興奮と罪悪感の入り混じった、疼くような熱が身体を去るまで、キースは自分のことをじっと抱きしめていた。



 会いたいのか、会いたくないのか、わからなかった。

 朝の点呼のあと、アルフレッドは「一緒に食堂へ行きましょう」と、また声をかけてきた。けれど、昨夜考えごとで頭がいっぱいになってほとんど眠れなかったキースは、めずらしく起床の鐘と同時に目を覚ましていた。「身支度が終わっていないから」と断ることができて、ほっとした。

 とはいえ、今日は伝令訓練がある。

 憂鬱な気分でキースは訓練室へと向かった。入口脇の黒板で、小部屋の割り当てを確認する。自分の名前を見つけたあとも、中へ入るのを先延ばしにしたい一心で隅から隅まで表を眺めていた。

 そうしていると、見当たらない名前があることに気づく。マイルズをはじめとする、数名の監督生の名前が抜けている。

 とはいえ全員ではない。以前アルフレッドに「新しいバディにどうか」と提案したアーサーは、監督生だが訓練に参加するようだ。

 マイルズたちが揃って休む理由を考えてみたが、特に思い当たらなかった。単なる偶然だろうか。

 そうこうしているうちに、訓練室へ入っていく学生の数が増えてきた。もうすぐ訓練開始の時間だ。キースは小さくため息をつくと、覚悟を決めて小部屋へ向かった。

 指定の小部屋の扉を開くと、やはりアルフレッドは先に着いていた。こちらを振り向くと、嬉しそうに笑う。

「朝ごはん、きちんと食べられました? あなたが寝坊なんてめずらしいですね」

 むにゃむにゃと口のなかで答えて、彼の隣に腰を下ろした――言えるわけがなかった。きみのことを考えていたから、ろくに眠れなかった、なんて。

 早く訓練が始まればいいのにと願いながら、キースは俯いてチェス盤を見つめる。隣から視線を感じる。まるでまなざしに灼かれるように、頬が熱を帯びていく。

「ホーリーランド公」

 アルフレッドが心配そうな声を出した。

「顔が赤いですよ」

「なんでもない」

 キースが硬い声で被せると、ますますアルフレッドは心配になったようで、「熱があるのでは……」と顔を近づけてくる。大きな手のひらが額に触れかけて、咄嗟に払いのけた。

 パン、と音がして、思わず顔を上げると、アルフレッドが驚いた顔をしている。キースは慌てた。

「すまない、おまえはなにも悪くない」

「? ……はい」

 アルフレッドはちょっと困った表情で微笑んだ。

「これは、体調が悪いのではなくて……」

 どう伝えたらいいのか、うまく言葉が見つからない。動揺を逃がすために自身の長い前髪を指先で梳きながら、キースは小さな声で言った。

「おまえがあまり見るから、赤くなっただけだ……」

 沈黙が落ちた。キースは生まれて初めて悪態をつきたいような気持ちになる。墓穴を掘った。

「あの、それって……」

「違う、おまえの想像しているような意味じゃない」

 早口で否定すると、アルフレッドは「ふふ」と含み笑いをこぼした。睨むキースに、「すみません」と謝りながらも堪えきれないようで、「あはは!」とやがて声をあげて笑いだす。

「俺の想像しているような意味じゃないって……俺がどんな想像をしていると思っているんですか?」

「……うるさい」

 キースがむくれればむくれるほど、アルフレッドは愉快そうに笑う。なんてやつだと腹立たしいような、なんだか考えすぎていた自分が馬鹿馬鹿しいような気分になって、キースもやがて微笑んだ。

 その表情を見て、アルフレッドは一瞬目を丸くしたあと、少しいたずらっぽい顔をする。まるで、昨夜キースが妄想したのと同じように、どこかあでやかな空気をまとって。

「実は、あの本……あなたにお渡しするまえに、少し気になって読んじゃいました。想像していたよりも過激なんですね?」

 引きかけていた熱が、ぶり返す。全身がカァッと熱くなる。

 アルフレッドが、ふたりのあいだのわずかな距離を詰めた。吐息がかかるほど近くから、大きな紅い瞳が見つめている。初めて見る、熱っぽい陶酔を帯びて。

「俺はさっき、あなたがあの本に書かれているようなことを俺にしてほしいのかなって想像しました。……ちがう?」

「……ちが……」

 違わない。違わないけれど、そんなことを訊くな。

 言いかけて、声が掠れて、唾を飲んだ。無意識に舌先で唇を湿らせる。――ああ、早く訓練が始まってくれないだろうか。今日に限ってウォーターズ教官が遅刻しているのか? いや、でも、せっかくならあと少し遅れてほしいような……もう少しだけ、この距離でアルフレッドの顔を見つめていたいような……なんだかもう、よくわからない。

 キースを混乱させている当人だというのに、アルフレッドは自分こそ当惑したように、キュッと眉根を寄せた。

「どうしよう。俺、今、あなたにキスしたいと思っています。どうしたらいいですか?」

「だから、僕にそんなことを訊くな……!」

 そんなふうに言われたら、じいっと唇を見つめてしまう。白い肌のなかでひと際赤く見える薄い唇。それがうっすらと開いて、近づいてくる。

「ちょっ、ちょっと待ってくれ、僕は……」

「あなたって、動揺すると少し言葉が幼くなりますよね。かわいい」

 甘ったるく囁かれて、頭がどうにかなりそうだった。心臓が早鐘を打っていて、息が苦しい。でも、もっと。もっと言ってほしい。ここがどこかも忘れて、そんなことを思う。

 だけど。

 キースは、ぱっと両手を掲げた。近づくアルフレッドを制して。アルフレッドは、それに気がつくと、よく躾けられた犬のように動きを止めた。

「……待ってくれ。雰囲気に流される前に、確認しておかなければならないことがある」

 アルフレッドはもどかしそうに眉をひそめたが、「はい」と応えた。

「おまえは、僕とどうなりたいんだ。ただの副官? あるいは友人? それとも……」

 答えは明白だと思った。キースが言葉に出せなかった、最後の選択肢。だって、彼は「あなたにキスしたい」と言ったのだ。

 けれど、これは最後の一線だ。ここを越えてしまったら、今度こそ引き返せなくなってしまうだろう――キースは視界の端に、きらめく夏の幻影を見た。

 が死を選んだのは、これ以上、ホーリーランドの名に傷をつけないためだった。

 「蟲めずる君」と最初に呼ばれていたのは、母だ。権力に物を言わせて蟲たちと乱倫を極める姫君。それが蟲たちに融和的であった母に対する、根拠のない陰口であると今のキースなら信じられるが、いずれにせよ自分の父が何者であったのかを知るすべはない。

 母はひょっとしたら、どこかの蟲と恋に落ちて、キースを身ごもったのかもしれない。けれど、そんなことを世間は気にしない。世間にとって重要なのは、蟲と交わるなどという恥ずべきことを王族が為したという、それだけだ。

 もし、自分がアルフレッドと結ばれてしまったら。そして、それを世間に知られてしまったら。ほら見たことかと言われるだろう。あの母にして、この子ありと。

 すでに不名誉なあだ名で呼ばれている身だ。今さら、自分がなにを言われたって気にはしない。けれど、アルフレッドの将来に傷をつけるのは嫌だった。そして、今は衝動に流されている彼が、やがてあの人と同じく、自分の存在こそがホーリーランドの名を汚してしまうのではないかと思い詰め……同じ結末を選んでしまったとしたら。

 キースは突然、なにもかもが恐ろしくなった。

 予期せぬ問いだったのか、アルフレッドはしばらく考え込んでいた。それから、ためらいがちに、しかし嘘のないまっすぐな声で答えた。

「俺は……名前や形なんて、なんだって構いません。あなたのそばにいられて、あなたをお守りできるのなら」

 キースは、全身の力が抜けるような感覚に襲われた。答えになっていない。

 けれど、これがアルフレッドの本心なのだろう。「あなたのそばにいたい」という言葉は、何度も繰り返し聞いていた。それこそが、彼の望みなのだ。

 途方に暮れたような気持ちで、しかし心のどこかでは安堵して、「そうか」とつぶやく。それから、ふと気づく。

「守る……?」

 そのようなことは、これまで言われたことがなかった。どういう意味だろう。バディは訓練上のパートナーであり、主従関係ではない。アルフレッドは、身を挺してキースを守る義務を負っているわけではない。それなのに、「守る」とは……なにから?

 アルフレッドが口を開いてなにかを言いかけた。

 そのとき、小部屋の扉が急に外から開いた。ふたりはギョッとして振り返る。訓練開始の合図も、当然終了の合図も、まだ聞こえていなかった。

 そこに立っていたのは、訓練を欠席しているはずのマイルズだった。彼の後ろに、ほかの欠席者たちも並んでいるのが見える。制服の二の腕に留めている、「監督生」の真紅の腕章が目に刺さる。

「アルフレッド・アップルビー」

 マイルズは冷たい声で名前を呼んだ。「はい」と応えて、アルフレッドが椅子から立ち上がる。マイルズは碧い瞳に、身も凍るような侮蔑の色を浮かべて言った。

「憲兵隊から連絡があった。きみに扇動罪の容疑がかかっている。……われわれに話を聞かせてもらおうか」

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