3.一番目の記憶
衝撃の告白を聞かされた翌朝。キースは、アルフレッドと食堂で向かい合って朝食を取っていた。
パンをちぎりながら、カットされたオレンジにかぶりついている様子を盗み見る。食べ慣れていないようで、ぼたぼたと果汁が皿に垂れるが、気にする様子はない。先に皮を外すのだと教えようかと思ったが、あまりにおいしそうに目を細めて味わっているので、やめた。
ファームで果物が出るのはまれなのだろうか。キースは、ジョンが安価なブラックプディングを「週に一度の楽しみに」出してもらうのだと語っていたのを思い出す。
白いまつ毛が、朝の清潔な光に照らされながら震えている。今日も白い巻き毛はくるくると、重力にあらがってカールしている。
昨夜、アルフレッドは『俺はあなたに出会うのは三度目らしいのです』と言った。重大な秘密を打ち明けるような囁き声で、しかしなぜだか伝聞体で。
『どういう意味だ、それは』と困惑して尋ねると、『俺は俺として生まれる前、別の肉体で生きていたときに、あなたと出会っています。その記憶を持っているんです』と答えた。
『……前世、というやつか?』
『そういうものがあるとするのなら、ですが。前世と、前々世の記憶があります』
そんな荒唐無稽な話を信じろというのか――と怒ることができればよかった。しかし、こちらをじっと見つめているアルフレッドのほうこそ困惑しているようで、それでいて妙に確信に満ちていて……嘘をついたり、騙そうとしたりしているようには見えなかった。
きっと彼のなかでは、それが真実なのだ。
もっと詳しい話を聞きたかったが、消灯時間を告げる鐘が鳴った。アルフレッドはベッドに入り、キースは見回りに出なければならない。そこで話は終わった。朝は朝で忙しく、ふたりきりになれる時間が取れずに、朝食の時刻となってしまった。
アルフレッドがふたつめのオレンジに手を伸ばすのを眺めながら、どの蟲だろう、と考えた。アルフレッドは、これまで自分が出会ったどの蟲の「生まれ変わり」なのだろう。
これまでの人生で関わった蟲は数えきれない。陰ながら人間の生活を支えているのは蟲なのだから。身の回りの世話を焼いてくれる使用人。屋敷に出入りする商店の下働き。たまに視察に訪れた農家の小作人。
しかし、深く互いの記憶に残るほど関わったのは……。
「あの……そのままだと、パン、こなごなになっちゃいませんか」
ハッと物思いから醒めると、アルフレッドの大きな瞳がこちらを覗き込んでいる。いぶかしげに、少し心配げに。
キースの手のうちのパンは、繰り返しちぎったために、もうかけらとは呼べないほど小さくなっていた。
咳払いをして、「これでいいんだ」と言い訳にもなっていない言い訳をして、小さなパンを口に運ぶ。頬がじんわりと熱くなる。
アルフレッドは、声を出さずに笑った。
深く互いの記憶に残るほど関わった蟲は、ひとりだけだ。
アルフレッドが両手で握った剣を、わずかに傾ける。その動作を見誤った相手が上段から斬りかかるのを軽くいなしたあと、返す動きで
審判役の学生が片手を挙げて、勝負ありの宣言をする。
まるで布がひるがえるごとき軽やかな動きだが、繰り出す技はどこか挑発的だ。それでいて注意深く、相手のわずかな隙を見逃さない。アルフレッドは、次から次へと組まされる学生たちを斬り捨てていく。強い者も弱い者も平等に、最低限の時間、最低限の動作で。
あっというまにすべての勝負が片付き、アルフレッドはマスクを外した。紅い瞳がなにかを探してさまよったのち、講堂の端に座っているキースを見つけて、パッと輝いた。
「ホーリーランド公、見ていましたか?」
駆け寄ってくる彼の背後から、ほかの学生たちの視線が追ってくる。「すごいな」という嘆息交じりの囁き、「どうして……」と悔しさの滲む呻き。羨望と嫉妬。
その視線が自分へ届く前に、キースは講堂を出た。
「だいじょうぶですか?」
後を追って出てきたアルフレッドが尋ねる。
「あまり人前でわたしと親しげにするな」
苦言すると、アルフレッドはまたあの情けない顔をした。
「いや、そばに寄るなと言ってるわけじゃない……まだ、心の整理ができていないんだ」
彼のような優秀な蟲が自分などのバディであるということ。「生まれる前に出会っている」という主張。それから、流されるままに誰かと親しくなることへのためらい。……考えなければならないことは山ほどあった。
納得できない様子で、それでも「はい」とうなずくアルフレッドの、額から汗が垂れて目元まで落ちてくる。邪魔そうにまばたきを繰り返すのを見て、「あ」と思い出す。
「そうだ、これ」
キースが差し出したのは、昨日渡された林檎を包んでいたハンカチだった。
「返す。使えばいい」
なんの変哲もない、淡い水色の、無地のハンカチ。借りたものを返しただけなのに、アルフレッドは嬉しそうに笑った。なぜだか胸が痛くなって、ごまかすみたいに口を開く。
「念のため言っておくが、洗ったぞ。朝には乾いていたから、持ってきたんだ」
「気にしなくてもいいのに」
王子様に洗濯していただいたハンカチなんて、宝物にしなきゃ。アルフレッドはおどけて言った。
「領地では靴も従者に履かせてもらうのに、軍人になると決めたとたん洗濯や掃除も自分でしなきゃいけないなんて、大変ですね」
「それぐらいひとりでできなくては、過酷な戦場を生き延びられないだろう」
なにを当たり前のことをと反射的に答えて、アルフレッドが、見たこともないはずの領地での振る舞いについて語ったことに気づく。――これは「前世」の、それとも「前々世」の記憶? あるいは、誰もが当たり前に知っている常識?
わからなくなって、生まれた沈黙を埋めるためにつぶやいた。
「……わたしも訓練に参加できなくて、すまなかった。本来ならリレー方式で戦うところだったのに」
アルフレッドは黙って首を横に振った。
「見ているだけなら、平気ですか? 見ているのもつらい?」
「……剣を握らなければ問題ない」
そうですか、とだけ言って、アルフレッドはそれ以上を訊かなかった。
キースは剣を握ることができない。そうすると身体が震えてくる。それでも無理して続けていると、吐き気が込み上げてきて、最悪の場合には嘔吐してしまう。
原因はわかっていた。剣を握ると蘇る、屋敷の庭と揺れる影の記憶。
それからは、毎回こんなふうに講堂の端で皆の試合を見ている。もう三年以上になる。
自身に対する周囲の目が冷たいのにはこのことも関係していると、キースは考えている。剣を振るうことのできない――みずからの命を危険に晒すことのできない指揮官など、だれが信頼するだろう。
それに引き換え……キースはこちらを気づかわしげに見つめているアルフレッドに、微笑みかけた。
「きみの剣技は見事だったな。あれほどまで強い蟲は見たことがない」
――いや、ひとり、知っている。込み上げてきた苦いものを噛み殺す。
アルフレッドは、ぱあっと顔色を明るくして「見ていてくださったんですね、うれしいです」と満面の笑みを浮かべた。
剣技の訓練を行う講堂は、以前ふたりで話した回廊に繋がっていて、外に出ると中庭のオリーブの大木がよく見える。ざわざわという葉擦れの音に耳を傾けながら、キースは尋ねた。
「きみの
「しいっ」と鋭い吐息の音がして、見るとアルフレッドが唇に人差し指を当てている。
「その話は、ここでは」
打ち明ける時には、抱き寄せられて、耳元で囁かれたぐらいだ。人に聞かれたくない話なのだろうとは思っていた。しかし、いつ、どこでなら話ができるのか。
しばらく考えて、キースは言った。
「アルフレッド。週末の予定は空いているか?」
「……へ?」
士官学校の学生にとって、週末は自由に羽を伸ばすことのできる貴重な時間だ。
土曜の昼過ぎ、約束の時間に部屋を訪ねると、アルフレッドはすでに支度を終えて待っていた。先日、自習時間に身に着けていたのと同じ、少しくたびれた飾り気のないシャツとスラックス。
華美な私服はいずれにせよ校則で推奨されないとはいえ、蟲であれば士官学校在籍中も給与が支払われているはずだ。身の回りのものを揃える最低限の金銭的余裕はあるのではないか。
きらきらとした目で「俺、街に出るのは初めてです! アイスクリームが食べてみたいなあ。あ、もう寒いでしょうか?」と語っていたアルフレッドは、キースの視線に気づくと自身のシャツの胸元をつまみ上げ、しょんぼりとした顔をした。
「さすがに、もう古いでしょうか、この服は……。ファームにいたころから着ているものなんですよね」
「あ、いや……」
否定しようとして、しかし嘘はつけずに、キースは黙ってうなずいた。「やっぱり」とアルフレッドは項垂れる。
「俺はあまり服に興味がなくて……というか、士官学校に入ってあなたのバディになることだけを目標に生きてきたので、それ以外のことがあまり……」
熱烈な言葉は、キースにはうれしいよりも恐ろしかった。彼をそこまで突き動かすものが何なのか、まだ知らないからだ。
けれど、ようやく今日、その一端に触れることができる……のだろうか。
「でも、あなたのそばにいられるようになったのだから、あなたにふさわしい服装をしなければいけませんね」
そう言いながら、アルフレッドはキースの着ている仕立ての良いジャケットと薄手のニットをしげしげと眺めた。キースは苦笑する。
「わたしにふさわしいかどうかなど、考えなくてもいい。けれど……今日は私服も買いに行こうか」
アルフレッドは、大きくうなずいて「はい!」と言った。
街は士官学校から少し離れたところにある。キースが頼めば学校で用意している馬車を出してもらえるが、今日は目立たないために歩いて行くことにした。徒歩でも、自分たちの足なら三十分ほどで着くだろう。
天気の良い日でよかったと思う。士官学校の周囲は道路が舗装されているものの、少し歩くと田園風景が広がっている。雨が降っていたら、道がぬかるんで大変だったはずだ。
やわらかな陽射しが降り注ぎ、心地の良い風が頬を撫でる。ところどころに葉の色を赤や黄に着替えた木々の姿が見られ、季節の変化を感じて、キースはようやく深く息をできるような気がする。忌まわしい夏が遠ざかっていく。
街に着いたらなにをしようか、ほとんどひとりで話し続けていたアルフレッドも、豊かな自然に言葉を奪われたように口数が少なくなった。さく、さく、と足元から音がする。道に落ちた枯葉を、わざと踏みながら歩いているらしい。
「……外の景色を見るのも初めてか?」
口にしたあと、嫌な言い方ではなかったかとキースは気になった。アルフレッドは気にしたふうでもなく「いいえ」と答えた。
「ファームから士官学校へ向かう馬車の窓越しにですが、見たことはあります。
また沈黙が落ちた。しばらく、さく、さく、としたあと、アルフレッドははにかんで言った。
「今日は、誘ってもらえて本当にうれしかった……でも、こんなふうに景色を眺めたり、街で遊んだりすることが目的じゃありませんよね」
キースが黙っていると、アルフレッドはぐうと伸びをした。「うーん」と声をあげたあと、自然な仕草で辺りを見回す。
「人の多い街中よりもここでお話するのが、いちばんよさそうだ」
そうして彼は、語りはじめた。
自分のものでない過去の記憶は、恐らく生まれたときからありました。一歳――人間で言えば四歳ぐらいですが――になるころには、過去の記憶について、そして過去の記憶を持っていることについて、ファームの人間に話してはならないとなんとなくわかっていました。生まれつき持っているものは容赦なく取り上げられるということを、それまでファームで受けた仕打ちから知っていたからかもしれません。
一番古い記憶は、
むごい話を聞かせて、すみません。最後の大流行から四百年も経っていますからね。今の
「前々世」の俺が入れられた施設は教会が運営していて、数日に一度は治癒のお祈りをしてもらえました。食事も一日に一回出ましたよ。部屋は少し狭かったな。部屋といっても、煉瓦の壁で四方を囲った土間のようなところで。鉄の扉は入るときと出るときの二度しか開けてもらえません。もちろん、生きて二度目を経験するやつなんていないです。窓も当然ないから……便所の汲み取りも、もう少し回数が多いとよかったんですが。すみません、こんな話はいいですね。
俺は蟲だから蟲のことしかわからないけど、蟲でなければもう少し待遇はよかったのかもしれません。でも本当なら、部屋が狭かろうが、たいした問題にならないはずなんですよ。疫病にかかったら、人間だって蟲だって、普通は数日で死んじゃうんだから。でも、俺はしぶとかったんです。高熱とひどい頭痛に苦しみながら、二週間ぐらいは生きていた。
そうすると、だんだん食事をもらえなくなりました。一日一回の食事が、二日に一回になり、三日に一回になって。最初はパンや果物をそのままもらえていたのが、パンくずとか、林檎の芯とか。水がめの中身も尽きてしまうし。お祈りをしてくださる司祭様も来なくなった。
煉瓦の壁に開けられた、大人の手がぎりぎり通らないぐらいの穴から、食べ物は差し入れられます。俺はその前の地面に這いつくばって、ずっと待っていました。熱があるから空腹はそんなに気になりませんが、喉の渇きがひどかった。
もうどれほどなにも口にしていないのか、ただ水が飲みたいとしか考えられなくて、いっそ早く死んで楽になりたいと思いましたが、舌を噛み切るほどの体力も身体に残っていない。そんなある日、子どもの声がしました。あんな場所で子どもの声が聞こえるなんて、いよいよお迎えが来たかと思いました。
声のするほうを見ると、俺の部屋の穴から誰かが覗いていて、その目だけが見えました。といっても、もうあまり俺の目は見えていませんでしたけど。紅い目でした。俺たちと同じ、蟲だろうか……と考えていると、人の大勢やってくる気配がしました。『フローレンス様!』と司祭様の声が聞こえて、それでわかりました。司祭様が敬語を使うということは、慈善活動のためにやってきた貴族だ。この紅い目をした子どもは、その貴族に仕える蟲だろうか?
俺は唇を動かしました。声は出なかったけれど、子どもには伝わったようでした。子どもは穴から顔を離して、『みずをあげたい』とやってきた大人たちに頼みました。今度は、鮮やかな緑の瞳がこちらを覗きこみました。懸命に腰をかがめているようでした。そして、厳しくもあたたかい声が『なりません』ときっぱり言いました。
『目にしたすべての者を救うことはできないの。今にも死にゆく者に、気まぐれで一滴二滴の水を与えたからといって、何になりましょう。偽りの救いを与えるのは、かえって残酷なことです』
その女性の――あなたのお母様のおっしゃることは、俺は一理あると思います。特に、大勢の者を救うだけの権力と義務を持つ方々についてはね。ああ、そんな顔をしないでください。この話は、まだ続くんですから。
俺は、諦めて目を閉じました。それから、どのぐらいの時間が経ったかはわかりません。頬に、冷たいものが触れました。俺は跳び起きました……実際には緩慢に瞼を開いたぐらいかもしれませんが。
水だ!
思うように動かない口を開けて、焼けた鉄みたいになっている舌に、一滴、二滴、落ちてくるしずくを受け止めました。うまく飲み込むことはできませんでした。その力が、もう残っていなかった。
霞んだ視界に、小さな手が見えました。その手のひらは一度引っ込んだかと思うと、また穴から出てきて、俺の舌のうえに恵みの雨を降らせました。
何度か繰り返して、ふたたび、紅い瞳が覗きました。今度は紅いというよりは、茶の瞳だと思いました。その上に生えているまつ毛も、眉毛も、わずかに見えた前髪も、黒いことに気づきました。それで、人間の子どもだとわかりました――今では、あなただとわかります。
あなたは、小さな声で『またくるね』と言って、去っていきました。本当にまた来たのかは、わかりません。俺は、その夜のうちに死んでしまったので。でもね、それはどうでもいいことなんです。
あのとき。あなたのくださった一滴の水を舌で受け止めたとき、どんなに俺がうれしかったか、わかりますか?
喉が渇いて、水を飲みたかったからというだけじゃない。誰からも見捨てられて、それこそ虫けらのように死んでいく俺に、やさしくしてくれる人がいるということがうれしかった。
ほんとうに、うれしかったんです。
長い話のあとには、それに見合う長い沈黙があった。
壮絶な話だった。なにを言えばいいのか、わからなかった。けれど黙ったままでいるのも違う気がして、「蟲は疫病にかからないのでは?」と尋ねると、「以前、なんにでも例外はあるとおっしゃったでしょう」とアルフレッドは微笑んだ。
……こんなことしか言えない自分を、キースは心底、情けなく思った。
覚えていなかった。そのような施設を訪ねたことも、死にかけの蟲に水をやったことも、母と交わした会話も、なにひとつ。
なにせ母の面影もおぼろげなのだ。顔でさえ、残された古い写真で見た記憶しかない。
しかし、アルフレッドの語った母の印象は、周囲から聞かされてきたものとずいぶん違った。
母の故フローレンス・ホーリーランド女公爵は、心やさしく、それゆえに世間知らずなところのある女性であった――と、母の年の離れた兄で、キースから見れば伯父のワイアット公爵は、繰り返し語っていた。夢見がちで、人を疑うことを知らず、それは彼女の美徳でもあったが、だからこそ蟲などに
「蟲めずる君」という不名誉なあだ名について説明したときに、アルフレッドは「あなたも、あなたのお母様もそんなことをしないのを知っている」と言った。彼の語ったことが事実ならば……母も、たしかに誰かの弱みにつけこんだりしない人間だったのだろうと思える。
そして、伯父が「わたしが守ってやるべきだった」と自己憐憫に浸りながら嘆いていたような、か弱い女性でもない。気の強く、聡明で、慈悲と冷徹のいずれも持ち合わせた姫君。
さく、さく、とふたたびアルフレッドが落ち葉を踏みながら歩く。キースも黙ったまま、その演奏に加わった。アルフレッドが微笑んでこちらを見る。キースは視線を返さなかったけれど、並んで歩いた。
最後の丘をくだると、次第に人家が増えてくる。そのなかにぽつぽつと商店が混ざりはじめて、やがてふたりは小さな街の中心に出た。
王都には到底及ばない。地方都市と呼ぶにも足りない。けれど人びとの生活に必要なものはほとんどすべて、日々の潤いとなるものは両手の指で数えられる程度、手に入れることができる。そんな小さな街である。
広場から放射状に延びる道を順に巡っていく。
アルフレッドが素朴な印象の菓子屋を見つけて、目を輝かせて入った。アイスクリームは季節が終わってしまったということだったが、キャンディーアップルが出ていたので買うと言う。
自分のぶんだけ買うのだろうと思っていたら、アルフレッドが店員に二本頼んでいて驚いた。王族が蟲に支払わせるわけにはいかない。けれどアルフレッドは「あなたと一緒に食べたいというのは俺のわがままですから」と言い張って、金を受け取ろうとしなかった。
「それに林檎、お好きでしょう?」
やはり知っていたのか。断る口実が思いつかず、キャンディーアップルをかじりながら街を散策する。甘くて、瑞々しい。アルフレッドは、次は服を買い求める場所を探しているようだ。
この街の商店はどこも平民向けであるにも関わらず、仕立て屋のディスプレイは格調高く飾られていた。服など、多くの平民は降誕祭のミサのためでもなければ仕立てないからだろう。「入りづらい」とアルフレッドの顔に書いてある。
しかし、一本、通りを入ったところに、人混みを見つけた。大勢の人たちがどこからかテーブルを出してきて、あるいは敷き布や旅行かばんを棚替わりにして、露店を開いている。そこに並んでいるのは使い古しの服や、靴や、装飾品。蚤の市である。
アルフレッドの顔色が明るくなった。軽い足取りで人波をくぐり、気になる店をあちこち覗きはじめる。はぐれてしまいそうでキースは内心冷や汗をかいていたが――彼は立派に成人しているというのに――、かなりの長身なだけあって、白い巻き毛を見失うことはなかった。
そのうち、彼はくるりと振り向いて「これはどうですか?」と尋ねた。声は遠かったが、口の動きでわかる。歩を速めて、そばに行く。
「今持っている服と、形も状態もそう変わらないじゃないか。そこのセーターはどうだ?」
「目が粗くありませんか?」
「これはこういう編み目なんだ。古着のわりには毛玉も目立たないし」
へえ、とアルフレッドは感心の声をあげて、店主に許可を取ると、そのセーターを身体にあてた。
「少し袖の長さが足りないけど、よさそうです」
「既に持っているシャツと重ねたらいいんじゃないか。あたたかいし、スタイリングとしてもいい」
濃紺のセーターは、アルフレッドの白い肌や紅い瞳によく映えていた。満足して頷いてから、ハッとする。
「きみの服を買いに来ているんだ。わたしが口を出しては意味がないじゃないか」
「俺は、あなたに服を選んでいただけるのは正直助かります。あなたが着てほしいものを俺も着たい」
無邪気に言われて、キースはまた苦笑する。がらんどうだった彼の部屋を、「あなたのバディになることだけを目標に生きてきた」という言葉を思い出す。
その
「駄目だ。……きみが、きみの好きなものを選びなさい。目利きぐらいならしてやる」
アルフレッドは悩み抜いた末、これまで持っている服と形はよく似ているけれど、色や柄、手触りが楽しいもの――鮮やかなタータンチェックのネルシャツや、コーデュロイのズボン、ピンストライプのツイードジャケットを買っていた。キースの選んだセーターをいちばん上に置いて、大切そうに抱えながら。
甘い菓子を食べ終え、服を手に入れたあとも、アルフレッドはまだ街を見てみたいと言った。
キースにとってはすでに何度も来たことのある平凡な街だったが、アルフレッドにとっては新鮮なようだ。サーカスに連れてこられた子どもみたいに、あちこちを指さしては「あれは……」と尋ねてくる。
その内容が、幼児の「あれはなに?」という問いかけでなくて、「あれが肉屋なんですね」という確認なのが、キースをおかしいような、切ないような気持ちにさせた――いつのまにか、彼の「生まれる前の記憶がある」という主張を受け容れつつある。
「あ!」と隣を歩くアルフレッドが、また明るい声をあげた。
「あれは本屋ですよね」
店の前面は瀟洒なガラス張りとなっているのに、カーテンで覆われている。しかしその隙間から、窓を覆い隠さんばかりに積まれた本の山が見えた。軒下には木箱が出されており、中には本が並べられているようだ。
「古本屋だな」
「古本……」
アルフレッドは飴玉を転がすように口のなかで繰り返した。
「学校の図書室にある本とは、違いますか?」
「そうだな。子ども向けの絵本や、大衆向けの娯楽小説なんかは、ここにしか置いていないと思う。見てみるか?」
アルフレッドは大きくうなずいた。
「俺、ずっとそういう本を読んでみたかったんです。これまでは楽しみのために本を買う金も、読む暇も、なかったから」
扉を開けて入ると、背の高い書棚が狭い店内を埋め尽くしている。
キースも初めて入る本屋だった。古本を手にする必要などないというのもあるけれど――この街の新刊書店は寡黙な老店主が経営していて、勉学に必要な本を購入するのに合わせて
アルフレッドがずいぶんと熱心に見ているので、キースも気の向くままに店内を見て回ることにした。想像以上に硬軟織り交ぜた品ぞろえで、難解な哲学書や歴史書もあれば、最近出たばかりの詩集や小説。アルフレッドに教えたとおり、学校の図書室では見ないたぐいの娯楽小説や雑誌、絵本もある。長く街のひとびとに愛されてきた店だと感じる。
ふと、好奇心を刺激されて――キースはさりげなく周囲に目を配りながら、目当ての本を探した。娯楽小説の棚に紛れて、あった。
恋愛小説だ。
好きになったきっかけは覚えていない。屋敷に仕える侍女の部屋をなにかの折に訪ねて、それで存在を知ったのだったか。刺激的な題名がどうにも忘れられなくて、身分を忍んで街に出た際、気づけば手に取っていた。
母を幼いころに亡くし、父もきょうだいもおらず、後見人となった伯父も年に一度訪ねてくればいいほうだった。信頼のおける使用人たちに囲まれていたが、母の代から仕えていた彼らは全員蟲で、キースの物心のつくころには老齢を理由に新しい使用人と入れ替わってしまった。
さみしさを、人恋しさを、年齢相応にはあった性愛への関心を、恋愛小説は満たしてくれた。それは恋を知る前も、恋が破れた後も、同じだった。
いや、物語により没入することができるようになったのは、恋が破れた――
ぼんやりと物思いに耽りながら、本の背表紙を指先でなぞる。ほとんど読んだことのあるものばかりだが……。
「……あ!」
思わず声が出た。好きな作家の初期の作品で、絶版になってしまっている本だ。いつか読みたいと思いながらも、こっそりと愛好しているのもあって、探せずにいたのだが。
きょろり、と辺りを見回した。同じ列にアルフレッドの姿は見えない。
ただその本がたしかに存在していることを確かめるような気持ちで、背に指をかけて引き出した。両手で持つ。状態は悪くなさそうだ。たしか、これは身分違いの恋の話で……数百年前、戦乱で夫を亡くした貴婦人と、彼女に仕える騎士が……内容を確かめようとパラパラめくり、気づけば読み耽っていた。
開いたページのうえに、すっと影ができて、キースは頭をあげる。すぐそばにアルフレッドの顔がある。「わっ」と動揺する。
「おもしろい本がありましたか?」
アルフレッドは、キースの背後から覗き込むようにして尋ねた。背の高い彼の呼気が耳にあたる。まるで小説の描写に酔ったみたいに、身体が火照る。
「これは、その……」
慌てて本を棚に戻そうとして、かえって周囲のほかの本を巻き込んで落としそうになった。
「おっと」
アルフレッドは小さくつぶやいて、棚から飛び出しかけた本の背を押さえた。キースの手のうえに、アルフレッドの手のひらが重なる。背後から抱き込まれるような体勢になった。
「あ……」
大柄な自分よりも、さらに大きな手のひら、広い胸。蟲の体温もあたたかいのだということを、キースは生まれて初めて知ったような気がした。
「すみません」と小さな声で謝って、アルフレッドがすぐに身体を離そうとする。咄嗟にその腕を掴んで引き留めそうになった。けれど黙ったまま、なにもできなかった。
――僕は、この男に触れられたいと思っているのか? 出会ったばかりなのに?
気づいて愕然とする。自分は誰も幸福にできない。だから誰とも親しくならない。たしかにそう決めたはずなのに……。
「あの」
アルフレッドが小声のまま、なぜだか恥ずかしそうに言った。
「俺、知ってます。あなたがどんな小説を好きなのか……」
「え?」
キースは、ぱちぱちとまばたきをした。知られていた? いつ? 部屋に来たときか?
アルフレッドの腕の中でぐるりと向きを変え、どういう意味かと視線を向ける。アルフレッドは気まずそうに目を逸らした。白い頬が、ほのかに上気する。
「その……前に、俺はあなたの秘密を知っているって言ったでしょう。あれはこのことなので……だから、隠さなくてもだいじょうぶです」
なぜ自分に付きまとうのかと詰問したときのことだ。バディを変えるといったら、「あなたの恥ずかしい秘密を使って脅せば、やめてくれるのか」と尋ねられた。
キースはハッとした。その表情の変化を勘違いしたのか、アルフレッドは「あの、あの」と慌てて言い募った。
「もう絶対に、あなたのことも、ほかの人のことも脅したりなんてしません」
とん。キースは、両手で軽くアルフレッドの胸を押した。彼は、狭い棚のあいだで一歩しりぞいた。ふたりの身体が離れる。
「……当たり前だ」
自分でも知らないうちに、微笑んでいた。その笑みに勇気づけられたのか、アルフレッドは勢いよく続ける。
「それに、本当は、こういう小説を読むことを恥ずかしいことだとは思いません!」
咳払いが聞こえた。ふたりしてそちらへ目を向けると、店番をしている老婆が、なにごともなかったように下を向いて帳簿をつけている。
思わず顔を見合わせた。アルフレッドは、ふ、と表情を緩めると、「これ、俺が買ってきますよ」と囁く。なぜ、と視線で尋ねると、ウインクが返ってくる。キースが立場上、恋愛小説を愛好していることを多くの人に知られたくないと感じていることは、理解しているようだ。
さりげない気遣いに、さきほどの触れ合いの余韻みたいに、じんわりと身体が痺れる。
会計に向かうアルフレッドの背を見つめながら、キースは思った。
己の閉ざした心をこじ開けて入ってきてくれるのならば、出会ったばかりの相手だろうと、誰でもよかったのか。それとも――。
剣の腕が立ち、本当の自分の姿を知っていて、母のことを決して悪く言わない――あの人の生まれ変わりのような蟲だから、受け容れても許されるような気がするのか。
古本屋の大きな窓の外では、すでに日が傾きかけている。赤みを帯びてきた空に目をやりながら、帰り道にまた聞くことができるのかもしれない、アルフレッドの
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