2.秘密

 F令嬢は、頬を撫でる手のひらに身体をゆだねた。猫が身を擦り寄せるような、愛らしくもなまめかしい媚態に、I氏は高鳴る鼓動を抑えきれない。興奮を鎮めるために熱い息を吐くと、小さな貝殻のごとき可憐な耳にそっと唇を寄せ、尋ねた。

『よろしいのですね?』

 F令嬢は頬を薔薇色に染め上げ、か細い声で『あなたの望むままに』と囁く。ふたりの唇が近づき――コンコン。

「うわ!?」

 突然のノックの音に、物語の世界から現実へと引き戻され、キースは素っ頓狂な声をあげた。

 消灯時間後。監督生としての仕事である夜の見回りも終え、睡魔が訪れるまでのわずかな時間だけ……と己の良心に言い訳しながら、枕元のランプのみを点けて本を読んでいた。

 こんな時間に――いや、こんな時間でなくとも――自分の部屋を訪れる者など、これまでひとりもいなかった。やましさが聞かせた幻聴ではないかと、キースは自室の扉を見つめる。

 しん……とした静寂のなかに、ふたたびコンコン、と控えめなノックが響いた。どうやら幻聴ではなかったらしい。だとすれば、なにか緊急事態だろうか。キースに肉親はないけれど、あるいは領地で――ベッドから起き上がると、足早に扉まで歩み寄る。

「な……!?」

 開いたドアの向こうには、アルフレッドがいた。

「こんばんは」

 悪びれず、アルフレッドはほがらかに挨拶をする。消灯時間が過ぎていることも、昼間の気まずい会話も、なにも問題ないというように。

「……とにかく、部屋に入れ」

 なにか話しだそうとするのを制して、招き入れた――廊下では声が響く。こっそりとベッドのほうを確認する。よかった。例の小説は掛け布に隠れている。

「どうした?」

 尋ねると、アルフレッドはいたずらっぽく笑った。

「すごい声がしましたけど、いやらしいことでもしていました?」

 キースは内心ぎくりとした。いやらしいことをしていたわけではないが――多少いやらしい本は読んでいた。しかし動揺を押し隠して「質問に質問で返すな」と睨むと、アルフレッドは肩を竦めた。

「すみません。あまりいい趣味じゃありませんね、この冗談」

 それから、照れくさそうに微笑む。

「寮の部屋を交換してもらったんです。あなたとお隣になったので、お伝えしたくて。明日でもいいかとは思ったんですけど、片付けが終わったら居ても立っても居られなくなって……もしかしたら、まだ起きていらっしゃるかなと。起こしてしまったんじゃなくて、よかった」

「……」

 キースはなにも言わなかった。言えなかった。開いた口が塞がらないとは、このことだった。

「おまえ、昼間の会話を覚えていないのか?」

 拒絶を――少なくとも、こんなふうに強引に距離を詰められることへの困惑を、示したはずだった。アルフレッドは小首を傾げた。そのようなかわいらしい仕草をされると、やはり妙に愛嬌がある、が。

「俺がそばにいることが嫌かとお訊きしたら、わからないとおっしゃったので、嫌ではないのだなと」

「驚くようなポジティブ思考だな!」

 アルフレッドは、なにがおかしいのかわからないというように曖昧に笑った。ふと、ある考えがキースの脳裏に去来する。

「……おまえ、何歳だ? 新入生ということは、成人はしているのだろうが」

「十九です」

 蟲は成熟すると見た目には歳を取らない。成熟するまでの五年ほどをファームで過ごし、出荷後は成人と見なされる。

「つまり、蟲年齢でいったら四歳半といったところだな?」

 キースの言わんとすることを悟ったアルフレッドが、拗ねたような声を出す。

「そうですけど……別に人間の四、五歳と同じってわけじゃありませんよ」

 そのような声音で、表情で言われてしまうと、なおさらキースの確信は強まるばかりだ――このまっすぐすぎる、得体の知れない思慕のようなものは、まるで鳥の雛の刷り込みに似ている。

 雛が生まれてすぐに見た人間を庇護者として慕うように、まだ幼い彼は入学直後に見た自分の振る舞いに感銘を受け、一途に慕うようになったのだろうか。いや、それだけが理由ではあるまい。ひょっとして、もっと以前に……?

「アルフレッド」

 名を呼ぶと、初めて呼ばれたアルフレッドは瞳を輝かせて「はい!」と返事をした。

「アルと呼んでください」

「アルフレッド」

 その言葉を無視して、もう一度呼ぶ。アルフレッドが眉尻を下げる。ほだされそうになるのを、ぐっとこらえる。

「僕たちは、この士官学校で初めて会った。そうだな?」

 アルフレッドは、見つめあった瞳を逸らした。先ほどの溌剌とした返事はなんだったのか、小さな声で答える。

「俺は、嘘が下手で……だけど、答えられないこともあるので、ノーコメントとさせてください」

「……」

 胸に湧いた感情は、苛立ちなのか、恐怖なのか――それとも好奇心か。キースはなにか言ってやろうと口を開いて、言葉が見つからずに閉じた。黙って、扉のほうを指し示す。

 アルフレッドは恐縮して長身を丸め、とぼとぼとドアへ向かった。しかし戸口をくぐると、気を取り直すようにこちらを向いて笑う。

「公爵。改めて、これからよろしくお願いします。おやすみなさ……」

 ぴしゃりと、アルフレッドの目の前で扉を閉めた。

 どうやら、あの男には秘密があるらしい。自分をここまで慕う理由――入学以前に出会ったことがある? 出荷前の蟲と自分が出会う機会などあるはずがないし、そのような記憶もないのだが。

 それに、キースのバディに指名されたことといい、寮の部屋を交換してもらえたことといい――まるで、思い通りに事が進む魔法の力でも持っているかのような。

 ひょっとしたら、バディに指名のでなくて、どうにかして指名のだろうか。寮の部屋も同じく?

 だとしたら、次に来るのはなんだ?

 背筋を悪寒が走った。認めたくはないが……アルフレッド自身を嫌ってはいない。どうやら優秀なようだし、愛嬌があると感じてもいる。

 だからこそ、恐ろしい。このままズルズルと、誰かがそばにいることを許してしまいそうなのが、どうしようもなく怖い。それがまた、蟲であるということも。

 キースは決心した。アルフレッドの秘密を暴いてやろう。そして、その秘密を眼前に突き付け、「それでもなお、わたしはきみに慕われるべき人間ではない」「このようなことはもうやめろ」と説得しよう。

 そうすれば、彼は幻想から醒めて、諦めてくれるのではないか?



 まずは、どうして皆がアルフレッドの望みを叶えてしまうのか、そこから調べてみようと思った。寮の部屋を交換させるのも、教官にバディを指名させるのも、アルフレッドだけでできることではない。相手が必要なことだからだ。

 早朝、鐘の音より早く目を覚まして、身支度を済ませる。鐘の音が鳴ると、部屋の扉の前に寮生たちが出てきて、朝の点呼を行う――寮に住まう学生たちが向かい合って二列となり、端から番号を唱えていく。廊下の中心、皆の前に立ってその様子を監督する。

 建前上は平等であるから、身分や種族に関係なく寮の部屋も割り当てられることになっている。しかし、より日当たりの悪い北側に、蟲や平民たちは多く並んでいる。この場には同じ最上階のものしかいないが、上階の音の響く下階では、さらに「下層」の学生が多くなる。

 そのことを改めて苦々しく思いながら、キースは「あいつだな」と思う。一昨日まで、角部屋である自室の隣に住んでいたのは、キースの同級生だった。奇しくもアルフレッドと同じアップルビーの、ジョン・アップルビー。今は北側の部屋の前に立っている。

 点呼が終わると、多くの学生は身支度をするために部屋へ戻る。しかし、身支度をすでに終えたらしく、つやつやの頬を輝かせた制服姿のアルフレッドは、キースを呼び止めた。

「ホーリーランド公、おはようございます! 一緒に食堂へ行きませんか」

 昨日、眼前で扉を閉めたことも忘れてしまったらしい。めげないやつだと感心すら覚えるが、キースは首を横に振る。

「断る。今から用がある」

「用?」

 黙ったままでいると、アルフレッドはそれ以上詮索しなかった。

「……では、明日なら一緒に朝食を摂っていただけますか?」

 やはり、強引に距離を詰めるくせに、ズカズカと土足で上がり込むような真似はしない。

 それを知っているからこそ、キースは「もう二度と話し掛けるな」と告げることができない。これは己の未練であり、弱さだ――未だに誰かと心を交わすことを、諦めきれない。

 キースは顔を歪めると、なにも答えずに俯いた。そうするとアルフレッドの表情は見えなくなったが、なんとなく、困っているのだろうなと思った。眉尻を下げて、途方に暮れてすらいる、あの顔をしているのだろう。

 前髪の簾の向こう、ためらうようにアルフレッドの腕が上がり、しかし下ろされる。まだ真新しいブーツが、くるりと踵を向けた。

 咄嗟に、また明日尋ねてくれればいいと思った。自分は今からアルフレッドと距離を置くための材料を探しに行くのに、おかしな話だった。

 廊下から人けがなくなったことを確認して、キースはもう一人のアップルビーの部屋を訪ねる。

 扉をノックすると、髭剃りの途中だったらしいジョンは顎に泡をつけたまま、いぶかしげに顔を覗かせた。しかし、そこに立っているのがキースであると知ると、慌てて背筋を伸ばす。「訊きたいことがある。答えるのは支度をしながらで構わない。むしろ、そうして欲しい」と頼むと、恐縮と不審が半分ずつ混ざった表情で、剃刀かみそり片手にうなずいた。

「アルフレッド・アップルビーがわたしの隣室になるよう、部屋を交換したのはきみだな。わざわざ日当たりの悪い部屋に、先輩であるきみが、どうして?」

「たしかにアルフレッドと部屋を交換しましたが、それはやつが公のバディになったからですよ」

 しかし、バディが隣室にならなければいけないという決まりはない。キースが黙ったまま腕を組むと、鏡越しに様子を窺っていたジョンは、気まずそうに視線を逸らした。

「……出世頭の同胞を手助けするのは、当然じゃありませんか」

 嫌われ者で、王位継承順位も低い、領地も狭く痩せた土地である王族の、訓練上のパートナーとなるのが「出世頭」? 嗤いたくもなるが、そのような暇はない。

「同胞……きみと彼は同じアップルビーだな」

「ええ。とはいえ、入学まで顔を見たことはありませんでしたが」

 色素の薄い蟲たちは、髭を剃るにも剃り残しが見えづらくて大変そうだ。しきりに指で顎先を撫でながら、ジョンはどこか悔しげに言う。

「俺は外部組なので」

 蟲のファミリーネームは、彼らを生み出したファームの名である。

 蟲たちはフラスコから出されたのち、出荷までの時間を、ファームで適性に応じた職業訓練を受けながら過ごす。その期間中に、官僚や軍人になるための試験を受け、合格できる者はごく一部。試験に落ちた者や、はなからその機会を与えられなかった者は、奉公人や小作人、工場労働者になるため、もらわれていく。

 一度「外の世界」を知ってから独学で試験に合格し、入学してきた蟲は「外部組」と呼ばれている。体力の限界まで働かされる日々と並行して試験勉強に取り組むのは大変なことだろうが、そこまでして過酷な労働から逃げたいと願う蟲たちが存在するということでもある。

 「そうか」とキースはうなずく。見た目にはわからないが、つまり彼は人間に直せばキースよりかなり歳上であるのかもしれない。

「顔も見たことのない相手でも身を削ってまで親切にするほどに、ファームの繋がりとは強いものなのだな。人間にとってのふるさとのようなものか」

 くらい怒りの炎を宿した瞳と鏡越しに視線が交わって――カン! と高い音が鳴った。剃刀の柄が、陶製の洗面器にぶつかって立てた音だった。その音を立てた当人こそが、ハッと驚いて目を見開く。それから、自嘲するように唇を歪めた。

「ふるさとだって? 降誕祭の休暇にファームへ帰るやつを見たことがありますか?」

 沈黙が落ちた。剃刀の刃を洗う、ひそやかな水音だけが部屋に響く。

「すまない」

 キースは頭を下げた。

「思慮の足りない発言だった。きみたちがファームでどのような目に遭わされるのかは承知している。人間の都合に合わせて、さまざまな能力を奪われているのだったな」

「……頭をあげてください。誰かに見られたら大変だ」

 平板な声だった。それでも、視線を合わせた紅い瞳の奥は、わずかに笑んでいた。

「自分の境遇について、誰かに謝ってもらったのは初めてです。もちろん、謝罪だけじゃ足りませんが……王子様にこんな口を利いて、頭まで下げてもらって、首をねられずにいるだけでじゅうぶんな僥倖かもしれませんね」

「……アップルビーは、全員こんな跳ねっ返りなのか?」

 尋ねると、すべてを冗談にしてしまおうとする意図を悟ったのか、「俺は特別ひどいですよ」とジョンは笑った。

「……たしかに、故郷と言えなくもない。どんなに嫌な思い出があっても、最後に帰る場所がそこしかないという意味では。ホーリーランド公。怪我や病気、老齢で働けなくなった蟲は、どうなるかご存じですか?」

「いや」

 これまで考えたことがなかった――キースはそれを恥じて顔を歪めた。ジョンは穏やかな口調で続ける。

「ファームに帰ります。返品される、と言ったほうがいいかな。そこで、自分よりもさらに状態の悪い蟲の世話をする。やがて世話をされる側になって、なにもわからなくなって、死にかけていることにも気づかないうちに死ぬ」

「……」

「俺はね。ブラックプディングが大好物でして」

 突然、脈絡のないことを言われて、キースはまばたきをする。ジョンは、少しいたずらっぽい顔をした。

「老後、ファームに戻ったとき、週に一度の楽しみにブラックプディングを出してもらえるチケットを手に入れたんですよ。ファームのお偉方に差し出す、空想上のチケットをね。アルフレッドに最高の部屋を譲ったのは、そういうわけです」

 どういうことだろう。成績優秀とはいえ、アルフレッドは一介の蟲に過ぎない。なにも持たない、ただの蟲。その彼が与えたらしい「チケット」とは、なにを指すのか……。

 考えを巡らせているうちに、ジョンは身支度を終えてしまい、共に部屋を出る。「それでは」と別れを告げられた瞬間に、ふとひらめいた。

「……最後にひとつだけ。アルフレッドは、ずいぶんと記憶力がいいようだが、あれもアップルビーの特色か?」

 ジョンは、ちょっと驚いたように目を見開くと、にんまりとした。

「だったら、俺は外部組にならずに済んだでしょうね。アルフレッドは本当にいろんなことを覚えている……あいつが知らないはずのことでさえも」



 ジョンの言葉の意味をぼんやりと考えていたら、朝食の時間を過ぎてしまった。今日はバディと組む講義や訓練はなかったが、午前の軍事史の講義のあと、教室を移動するアルフレッドとすれ違った。

 アルフレッドは大勢の同級生と連れ立って歩いていた。全員が蟲だった。しかし、彼はキースに目を留めると駆け寄ってきた。思わず、身を竦ませる。

 アルフレッドはどこか苦く笑うと、「これ」とハンカチに包まれたものを差し出した。

「朝、結局、食堂にはいらっしゃらなかったでしょう。昼食だけではお腹が空くだろうから」

「……ありがとう」

 昼食を共にしようと誘われるかと思ったが、アルフレッドは「どういたしまして!」とにっこり笑うと、友人たちのもとへ戻っていった。

 ほっとしたような、さみしいような、そしてさみしいと感じる自分を嘲笑うような、よく知った感情に浸りながら、受け取ったハンカチを開く。

 そこにあったのは、林檎だった。真っ赤に熟した林檎――キースのいちばん好きな果物である。

 ぞくりと背筋を悪寒が走った。ただの偶然だろうか。それとも……? アルフレッドは「知らないはずのことでさえも」記憶している、というジョンの言葉が耳の奥でこだまする。

 ごくりと唾を飲んで、キースは歩き出した。

 探している人物は食堂や教官室にはいなかったが、想定の範囲内だった。伝令訓練のために使われる小部屋を、端からひとつずつ開けていく。三つ、四つ、開いたときだろうか。並んだ椅子のひとつに腰掛けた、小さな背中が見えた。

「ウォーターズ教官」

 エヴァン・ウォーターズは、小さな眼鏡をパンくずにまみれた指で押し上げて、そこにいるのがキースであると知ると、ホッとしたように笑った。

 伝令訓練を担当しているウォーターズは、士官学校の教官には珍しく軍人あがりではない。蟲の特性をよく知る一級の錬金術師アルケミストである。

「どうしましたか。またなにか、ご相談でも?」

 少し困った顔だ。キースが頼み込んで訓練のバディを交換してもらったことを言っている。一度や二度なら、教官会議にかけても、教官たちが「ひいらぎの君も好きものだな」と嘲笑し、生徒の言いなりになっているウォーターズの弱腰を馬鹿にするだけで済んでいたのだろうが……。

 キースが「その節は」と謝罪を口にするよりも早く、ウォーターズは隣の椅子を示した。目礼をして、腰を下ろす。狭いが、背に腹はかえられない。

「今日はその話ではないのです。アルフレッド・アップルビーについてお訊きしたいことがありまして」

 アルフレッドの名を出した途端、ウォーターズの身体が緊張したのがわかる。食べかけのサンドイッチが、パラフィン紙に戻される。

 キースはウォーターズの緊張を解こうと、普段よりもやわらかい声を出した。

「今回はわたしからの発案でないとはいえ、バディの交換がこう何度も続くと、教官会議でのお立場が苦しくなるのではありませんか?」

「いや……」

 ウォーターズは口ごもった。逡巡するような沈黙。汚れた口を、ナプキンで何度もぬぐっている。強迫的にすら感じられるその様子を、キースはじっと見つめていた。

 やがてキースの視線に押し負けて、ウォーターズは弱弱しく微笑んだ。

「……まあ、居心地のよくないことは確かですね。しかし、それは元々ですから」

「伯父上のことですね」

 士官学校最大の後援者であるアイザック・ワイアット公爵――マイルズの父であり、キースの伯父である――は、過去に騎兵隊長だったこともあり、軍事目的で蟲を使用することに懐疑的な立場を取っている。

 それは、銃器の普及に伴い戦力としての存在感を失い始めた騎兵の、残された主な役割が偵察と伝令であることとも関わるだろう。己の立場を危うくされることへの危機感と、「誇り高き戦士たちがぶつかり合う」古き良き戦場への懐古の念。

 彼は寄付集めのパーティーで、たびたび「我が国の兵に蟲の手助けなど不要」「士官学校への蟲の受け入れを停止し、蟲を用いた訓練も順次廃止すべき」と演説をぶっては、ほかの参加者にたしなめられているという。

 ウォーターズは、口にしたのは自分であるのに、キースの指摘に慌てた。「ご無礼を……!」と額に汗を浮かべて謝るのをキースは制し、「本題に戻りましょう」と言う。

「その話しぶりだと、先生による発案でもないのですね。アルフレッドをわたしのバディにするというのは」

「いえ……教官会議で提案したのはわたしです……が……」

 ウォーターズは、ズボンのポケットから汗をぬぐうためのハンカチを取り出そうとして、狭い部屋の壁に肘をぶつけた――動揺している。キースは畳みかけた。

「なぜです? ……わたしがバディを指名する理由を、先生だけはおわかりだと思っていました」

「ええ。ですから、の新しいバディにはあなたと同じく蟲に対して融和的な方を選びましたよ」

 アルフレッドと入れ替わりで、キースのバディを辞することになった下級生のことだ。前回の伝令訓練では近くにいなかったのか、姿を見かけなかったので気にしていた。

 「ありがとうございます」と礼を言うと、ウォーターズはわずかに微笑んだ。

「たとえ短命であろうとも、できるだけ、蟲たちに苦しい思いをさせたくない。わたしも同じ考えですから」

「しかしアルフレッドは優秀だ。わたしの庇護など受けずとも、彼ひとりでじゅうぶんやっていけるでしょう」

「優秀であれば生きていくのが容易たやすいというのは、誤りです」

「……どういう意味ですか?」

 なにか知っているような口ぶりだった。

 ウォーターズは「言葉どおりの意味ですよ」と早口で言い、ハンカチで繰り返し額を押さえた。キースはしばらく黙ってその様子を眺めていたが、これ以上なにか話してくれることはなさそうだった。

 初秋とはいえ狭い訓練室に閉じこもっていると、ウォーターズのように滝の汗はかかないにしても、たしかに暑苦しく感じられてきた。もう話を終わりにしようと決めて、尋ねる。

「つまり、バディにしてほしいという希望はアルフレッドから出た。しかし、先生はアルフレッドがわたしの庇護を必要としていると感じて、ご自分の意思で、それを教官会議にかけると決められた。そういうことですか?」

 黙ったまま、ウォーターズがうなずいた。キースは「わかりました」と言い、礼を述べて小部屋を出た。外のひんやりとした空気に触れると、緊張が解けて「ふう」と息を吐く。

 握ったままだったハンカチを開いた。そのなかの林檎を、辺りに人がいないのをたしかめて、皮を拭ってからかじりついた。瑞々しい香気が口から鼻へ抜けていく。

 林檎は熟して甘くて、けれどちょっと酸っぱかった。



 決められた入浴時間のあとは、各自自室で消灯まで自習時間を過ごす。とはいえ、まだ新年度が始まったばかりでカリキュラムもさほど進んでいない。早々に復習を終えてしまって、キースは手持ち無沙汰になった。

 そうすると、自然に今日交わした会話へ思考が向く。アルフレッドが入学してくるまでは、めったに人と会話をしない生活だったから、余計に静かな興奮が身体の奥底にくすぶっている。ノートの隅に、思い出しながら考えをまとめる。

 わかったことは少なかった。アルフレッドは、本来なら知るはずのないことをなぜか知っているようだということ。おそらく、それを取引の材料にしていること。みずから進んでキースのバディとなり、親しくなろうとしていること。それはどうやら、キースの庇護を得るためであるということ。……これぐらいだろうか。

 実際に書き出してみると、推測ばかりだった。誰も決定的なことを語りたがらないのだから、仕方ない。しかし、聞き込みを始めたときにはひとつの疑問の答えが欲しかっただけなのに、ふたつの疑問の答えが得られていることに気がついた。

 「方法」と「理由」。どのようにしてアルフレッドは周囲の人々を思うままに動かしているのか、という疑問と、なぜアルフレッドは自分を慕うのか、という疑問。それらに対する答え。

 「方法」は、情報を取引の材料にしている。「理由」は、キースの庇護を得るため。

 キースは頬杖をついた。こうして自分の書いたメモを眺めていると、胸がもやもやしてきた。

「僕に近づいたのは、好意を抱いていたからという理由では、ないのか……」

 友情であれ――万が一に恋情であれ、キースが希求していながら、求めまいと誓っていたもの。それが理由ではなかったのか。

 自分の地位も、財産も、いとこたちと比べれば大したものではない。そのうえ、「蟲めずる君」という評判もある。そんな自分に近づいて親しくなり、利用しようとする者がいるなど、考えたこともなかった。

「僕は馬鹿だな」

 ひとりごちて、それから猛烈に腹が立ってきた。

 けれど、なにに腹を立てているのかもよくわからない。そもそもがアルフレッドと距離を置きたかったはずじゃないか。それに、別に直接好意を示されたわけでもない。ただ、彼の言葉や行動から、好意を感じ取っていただけだ。

 キースは前髪を繰り返し指でいた。下方へ少し引っ張るようにして。心が乱れたときの癖だった。しばらくそうしたあと、立ち上がった。

「……終わりにしよう」

 呟くと、大股で部屋を出る。隣室の扉をノックすると、アルフレッドが顔を出した。なにも言わせないうちに「入るぞ」と押し入る。アルフレッドは驚いた表情をして、しかし「どうぞ」と嬉しそうに微笑んだ。

 殺風景な部屋だった。入学したての寮生の部屋とはいえ、ここまで物が少ないのはめずらしい。家族写真がないのは蟲であれば当然かもしれないが、棚に思い出の品や本も並んでいない。

「どうしましたか?」

 アルフレッド自身に目をやれば、彼も入浴を終えたはずであるのに、飾り気のない着古したシャツとスラックスを身に着けていた。寝間着を持っていないのだろうか。この様子では、キャビネットのなかもガランとしているのかもしれない。

 彼が生まれたての蟲であることを思った。まだ中身の入っていない、空っぽの器。

「話がある」

「……」

 切り出すと、アルフレッドは妙な表情をした。わずかに目を丸くして、唇をむにゅんと突き出している。

「なんだ?」

 その表情の意味がわからなくて尋ねる――どうにもリズムを崩される。

「いえ、なんでも。あなたからどうぞ」

「きみのバディを変更してもらおうと思う。新しい相手は……そうだな、ウェリントン公アーサー卿でどうだ? 蟲に融和的とまでは言えないが、少なくとも物腰柔らかで高圧的なところはない。マイルズ卿とも近からず遠からずの距離を保っている」

「な……」

 アルフレッドは傷ついた顔をした。それから、心持ち普段より大きな声で問いかけた。

「なぜですか? 俺のしたことが嫌だったなら謝ります。もう誰かを脅したりなんてしません」

「……なんだと?」

 今度はキースが声を荒げる番だった。

「脅した!?」

「まあ、厳密に言えば『後々ある人を脅すための材料を提供した』のと『そのような材料を持っていることを匂わせた』のふたつですけど……人聞きの悪い言い方をするなら、はい」

「そうだったのか!? 想像していたより、ずっと悪いじゃないか!」

「それを知って、いらっしゃったんじゃないんですか?」

 アルフレッドは「あちゃあ」と顔を大きな手のひらで覆った。それから、わずかに手を下げてつぶやく。

「……そうじゃないなら、どうして? どうして俺を、ほかの誰かにやってしまおうとするんですか? 俺じゃ、あなたのそばにいるのにふさわしくない?」

「逆だ」

 アルフレッドが「わからない」という表情で、こちらを見る。

「わたしがきみにふさわしくないんだ。きみのような、誰もが副官にしたがる優秀な蟲には、それにふさわしい名誉を授けられるバディがいいだろう。家柄のよく、将来有望で、……妙な評判のない」

「勝手に決めないでください!」

 アルフレッドが怒鳴った。「おまえが言うのか、それを!?」とキースが応えるのに被せて、アルフレッドは言った。

「俺は、あなたがいいんです。あなたじゃなきゃ、意味がない」

 大きな紅い瞳が揺れている。くしゃりと顔が歪んで、泣くのかと思った。けれどアルフレッドは泣かなかった。

「どうしたらいい? どうしたら、俺はあなたのそばにいられますか? あなたのことも脅せばいいんですか? 俺、あなたの恥ずかしい秘密も知っています」

 目が据わっている。無邪気に、いっそ歌うように言うのが恐ろしくて、キースは無意識に一歩後ろへ下がった。

 どうして忘れていたのだろう。直接顔を合わせて話せば、すぐにわかったはずだ。彼が単なる打算で自分に近づいているのではないことを。これは思慕であり、雛の刷り込みであり、もっと強烈な――執着だ。

 アルフレッドは離されまいとするように、一歩前へ出た。キースは背後を見て、扉との――逃げ道との距離を無意識に測ってしまう。

「……せめて」

 声を絞り出して言った。また一歩、下がる。一歩、詰められる。

「せめて、教えてくれ。おまえがどうして、僕じゃなきゃ意味がないと言うのか」

 一歩、下がる。アルフレッドは、動きを止めた。

「そうすれば、俺は、あなたの蟲のままでいられる?」

 泣いていないのに、涙声だった。キースは、ほかにどうしようもなく、うなずいた。

「……あと、人を脅すなんてことを金輪際しなければ」

 キースが付け足すと、アルフレッドは小さく笑う。嗚咽混じりの吐息が漏れる。

 それからアルフレッドは、すう、と息を吸った。ほかに誰もいるはずがないのに、きょろきょろと辺りを確かめた。そして、廊下から少しでも距離を置かせるように、キースの手を引いた。

 決して体の小さいほうではないのに、アルフレッドの腕のなかにキースはすっぽりおさまった。耳殻にあたたかな呼気が触れる。ぞわりと、また全身の毛が逆立つような、あの感覚があった。

「これは、絶対に、絶対に、誰にも内緒ですよ」

 ほとんど吐息だけで、アルフレッドが囁く。

「俺はどうやら、あなたに出会うのは三度目らしいのです」

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