蟲めずる貴公子は三度目の邂逅で愛を知る
ありふれた愛
1.蟲めずる貴公子
四百余年前、流行り病がこの国を襲った。突然、高熱を出し、頭痛に苦しみ、せん妄状態に陥る。やがて意識を失い、全身の皮膚が黒ずんで死に至る。貴賤を問わず全人口の三分の二を消し去った病は、その凄まじさから、ただ「疫病」と呼ばれ、記憶されている。
疫病が去ったあと、貴族たちは途方に暮れた。領民の大半が死に絶え、荒廃しきった農地を耕す者はいない。混乱に乗じて頻発する暴動や略奪の鎮圧を行う兵力もない。
そんな折、高名な
そして、ようやく聞き出した断片的な情報を元に、お抱えの錬金術師に見よう見まねでホムンクルスを作らせた。安価で従順な労働力として、大量に。
紛い物のホムンクルスは、そのいくつかの身体的特徴から、あるいは「人間よりも下等な生物」という侮蔑も込めて、「蟲」と呼ばれるようになる。
*
「わたくしたちに、あまり情けをかけてはなりませんよ」
うつくしい人だった。銀の絹糸のような長い髪が、風にふわりとなびく。
屋敷の庭に設けられた東屋のした、並んで腰かけ、その白い首筋を伝う汗のしずくを眺めていた。稽古の合間の休憩で、高鳴った鼓動はまだ元に戻らない。それはきっと、激しい剣戟を交わしたせいばかりではないのだ。
どうしてですか、と尋ねる。わかっているくせに、というように彼は微笑む。薄紅色の瞳が細められる。
「すぐに失われるものだからです。すべてのものは永遠に肉体の形を留めないにしても、わたくしたちの命はあまりに短い」
「僕だって、いつ死ぬかわからない。疫病で、あるいは隣国との戦争で」
「縁起でもないことをおっしゃらないで」
その言葉に気のない返事をしながら、ベンチに置かれた指先との距離を測っていた。フラスコ内で培養されたすべての蟲と同じく白い、けれど日々の鍛錬のために剣ダコのある指との距離を。
意を決して己の指先をすっと近づけると、しかし、その指は距離を置くように引っ込んでしまった。
なぜ、と視線で問う。彼は慰めるように、ずっと微笑んでいる。
「……けれど、忘れないでくださいね。肉体はままならずとも、わたくしの心は永遠にあなたのそばにあると」
その言葉に、ぎゅうと胸が締め付けられた。
記憶もないほど幼いころに肉親を失った自分にとって、彼は剣の師である以上に、親代わりであり、親友であり、――初恋の人だった。
しかし、その瞬間に予感した。この淡い初恋は、抽象的には永遠に成就したのと同時に、この世では実ることがないのだと。
そして、その予感は現実のものとなった。
彼の死体がぶら下がっていたのは、あの東屋だった。
まだかすかに揺れているそれを、はっきりとは目にしなかった。視界に入れた瞬間、見てはならぬものだと悟って、人を呼びに走った。
そのとき、後ろ髪をほんとうに誰かに引かれるような感覚がしたのを覚えている――死への本能的な恐怖に抗って、完全に魂が肉体から離れるまでは彼のそばにいたいと思った。
それでも、そうすべきだとわかっていたから、足をもつれさせながら人を呼びに走った。
発見された状況から、すぐに自殺だと断定された。
遺書も見つかった。自分宛ての遺書だった。ひどく曖昧な表現で、これ以上あなたのそばにいることはできない、自分の気持ちを抑えきれなくなってしまうから。しかし蟲である自分にほかへ行くべきところはなく、そうであれば自ら命を絶つしかない……というようなことが書いてあった。
それを読んだ瞬間、生涯で三度目に心臓の潰れるような思いがした。永遠にこの恋は成就しないと直観したとき。彼の死体を発見したとき。それから、自分の思慕が彼を追い詰め――殺したのかもしれないと知ったとき。
十七の夏。もう二度と、愛情も友情も求めまいと、決めた。
*
キース・ホーリーランドは、朝方見た忌まわしい夢を追い払うために、まばたきをした。目の前に立つ下級生が妙なことを言ったような気がしたからだ。
「……なんだと?」
訊き返しただけなのに、下級生は怯えて身を竦ませた。軍隊様式に短く切り揃えられた白髪が揺れる。
「で、ですから……俺は公のバディを辞することになりました」
「まだ新年度が始まったばかりだろう。一体どうして?」
下級生の紅い瞳に困惑の色が滲む。
「教官会議で決定があったそうです」
それ以上はなにも知らないようで、黙って俯いてしまう。この時期にそのような決定のあるのがおかしなことで、その理由を尋ねているのだが、一学生の彼が知らないのも無理からぬことかもしれない。
せめてもの慰めの言葉をかけようとして、キースは彼の名をうろ覚えであることに気がつく――もう一年ちかくバディを組んでいたのに。訓練以外で深く関わろうとしなかったのだから、それも当然かもしれないが。
「……それで、わたしのあたらしい相棒は?」
ようやく答えられる問いが与えられたというように、下級生はパッと顔をあげた。
「新入生です。たしか、アルフレッドといったかな……」
その名を聞いた途端に、キースは顔をしかめた。
「あいつか……」
王立陸軍士官学校で、唯一、緑を見ずに済む場所は、校舎三階から出られる広大なバルコニーだ。ツタ植物を模した細工がほどこされた、人の背丈よりもはるかに高い鉄柵。そこに近づきさえしなければ、視界に入るのは空だけ。
講義室や訓練場ではだめだ。窓からあちこちに植えられた木々が見えてしまう。実家の庭と同じに、年じゅう鮮やかに風に揺れている木立が。
たまに見る恐ろしい夢の影を忘れたいときに、キースはこの場所で休息を取ることにしている。
「監督生さんが、こんなところでサボっていていいんですか?」
その休息を破る忌々しい声がして、キースは聞こえよがしの溜息をついた。
「……わたしは、形だけの監督生だよ。在籍している王族や高位の貴族があれば、優先的に任命する慣習だからな」
けれど、それはあくまで形式上のことで、自分のような根暗で人と関わるのを避けている人間に務まる役職ではないのだ――というようなことを言おうとして、やめた。この男に、そこまで教えてやる義理はない。
ゆっくりと目を開ける。己の黒く長い前髪の
「それに、サボっていたわけではない」
前髪が邪魔をしてこちらの顔色はよく見えないだろうに、その大きな紅い瞳に気づかわしげな色が刷かれる。
「お加減が悪いのですか?」
「きみには関係のないことだ」
「ひどいなあ、俺とあなたは今日からバディになったっていうのに」
おどけて肩を竦めて、隣に腰を下ろした。
この学校に在籍するのは王族および貴族と、平民でも資産のある商家の――とりわけ、蟲を製造する
キースは、アルフレッドの校則どおりに短く切り揃えられた白い髪があちこちで毛束を作り、丸まってはくるくると渦を描いているのを見やって、ぼんやりとそのことを思った。
くせ毛なのだろう。「蟲」と呼ばれる種族であっても、頭髪はまるで天の御使いのごとく愛らしく見える。華美を禁じていても、天然のくせ毛まで取り締まる校則はない――そのことに密かに小気味よさを感じて、その気持ちを押し殺してまた
「……体調不良なら仕方がありませんけど、俺たちはバディがいないと訓練にならないんですから。次はいらしてくださいよ」
ここで言う「俺たち」とは「蟲たち」のことだ。キースは目を伏せたまま、小さく頷いた。
「話が終わったなら、ひとりにしてくれないか」
しばらく沈黙があって、ゆっくりと立ち上がる気配がした。
「こんな顔色のあなたをひとりにするのは、ほんとは、嫌ですけど……」
子どもみたいに拗ねた声だった。
「なにか俺にできることがあったら、いつでもおっしゃってくださいね」
入学してきたばかり、出会ったばかりなのに、なにを言っているのだろう。キースが黙っていると、ためらいがちな足音が遠ざかり、やがて扉が閉まった。
ふう、とため息をつく。
あの男――アルフレッドがなにを考えているのか、まったくわからない。まるで古くからの知己でもあるかのように親しげに振舞われるので、困惑するし……疲れる。
初めて出会ったときからそうだった。
あれは入学式のあと、新入生向けの説明会でのことだった。複数いる監督生たち――そのなかでも筆頭格をみずから任じているキースのいとこ・マイルズが、学校生活における注意事項を語る際に、ひとりの新入生に目をつけた。
白銀の髪と紅い瞳をもった彼が蟲であることは一目瞭然だった。その髪の
そのとき、彼の後ろ、頭ひとつぶんは高いところから、事態を静観しているキースを強い視線が射抜いた。
アルフレッドだった。
第一印象はカマキリだ。意志を宿した大きな瞳と、目立つ高身長、ひょろりと長い手足。
その視線に込められた感情の種類はわからなかったけれど、なんとなく責められているように感じて、キースは重い口を開いた。
『時間が』
声は不格好にひっくりかえって、掠れていた。嘲笑を浮かべて、マイルズが振り返る。キースはぐっと手を握ると、ひとつ唾を飲んで言った。
『時間が、ありません。このあと奨学生たちは後援者であるワイアット公との晩餐会を控えている――あなたのお父上との』
騒ぎを父親に知られたくないのだろうマイルズは舌打ちをして、それでその場は収まった。
一部始終を見ていたアルフレッドのきらめく瞳は、いっそう光を増したようだったが、それは感心したというよりも誇らしげだった。「あなたがそうすることはわかっていたし、信じていた」というような。
それからあとは、校内で、寮で、なにかにつけて声をかけられる――のみならず、なんの因果なのか、バディまで組まされることになってしまった。
キースは瞼の裏になおも差し込んでくる木漏れ日の幻影を遠ざけるために、ぎゅっと目をつむった。
伝令訓練のため屋内にずらりと並ぶ小部屋は、一見すると教会の告解室のようだが、その壁はずっと厚く、窓もない。敵役を務める学生の声が決して届かないようにするためだ。
小部屋のなかには長机がひとつと、椅子がふたつ。机上にはチェス盤と、二色の駒。机はぴったりと壁につけられており、椅子は隣り合って並べられている。
これは、蟲というバディを――あるいは副官を、それとも使い走りを――持つ特権を与えられた上位層の学生のための、特別授業である。
キースが指定された小部屋の扉を開くと、アルフレッドはすでに着席していた。ビー玉のような瞳がこぼれおちんばかりに瞠目して、「本当に来てくれた……」とつぶやく。思わず顔をしかめた。
「わたしは、きみの誘いにうなずいたつもりだったが」
だいいち、いつまでもバディと組む授業を避け続けるわけにもいかない。権力を笠に着て押し通せば、あるいはそのようなことが可能なのかもしれないが、自分はお飾りの士官になるつもりはないのだ。
「でも」
アルフレッドは、言葉の先を言い淀んだが、結局、口にした。
「……俺は、あなたに嫌われているとばかり思っていたので」
「嫌ってはいない。関わるのが面倒なだけだ」
それに、嫌いになるほどきみのことを知らない――とは、知りたいのだと誤解されてしまいそうだったから声に出さなかった。ただ、ほかの人びとに接するときのように無関心ではいられないというだけだった。自分のことを腫れ物扱いせず、距離を詰めてくるからだ。
アルフレッドは、虚を
「なにがおかしい」
「わざわざ言わなくても、『嫌ってはいない』だけでいいのに……」
キースが眉をひそめると、アルフレッドはまた笑った。
「すみません。言わなくてもいいことを言い出したのは、俺が先でしたね。ただ、『ありがとう』って伝えればよかったんだ」
それから、わずかに顔を寄せて囁いた。
「ありがとうございます。いらしてくださって、うれしいです」
薄暗い小部屋のなかで、大きな瞳はそれでもきらきらと光っている。
「……」
近い。キースはなにも応えずに、椅子のうえでみじろいだ。
と、アルフレッドがぱちりとまばたきをして、斜め上を見やる。
「まもなく始まります。よろしいですか?」
「ああ」
うなずくと、ぶうん……と虫の羽ばたきのような、かすかな音が耳に入る。その音がやんで、しばらくののち、「それでは、訓練開始」とアルフレッドは宣言した。
蟲は、彼ら独自の言語を持つ。虫の羽音のようなそれは、彼らだけに理解することができ、人間の話す言葉よりもはるかに遠くまで届く。
その機序は未だに解明されていないが、この国はそれを、ホムンクルスの製造技術を持たない他国への戦術的優位性として活用することにした。すなわち、蟲を伝令の代替とするのである。そうすれば、人馬を消耗することなく命令や戦況を伝えることができる。
問題は、距離や障害物の有無、それから蟲そのものの能力や練度によって、伝達の正確性が左右されることだ。そのため、このような訓練が必要とされている。
「クイーンをc2へ」
キースはそう言いながら、白い駒を宣言したマス目へ導く。アルフレッドからかすかな羽音がして、またしばらくの沈黙ののち、彼は相手方の動きを伝える。その言葉どおりに、キースは今度は黒い駒を動かし、次の一手を考える。
応酬の末、定められた訓練時間が尽きた。アルフレッドがこちらを見て、なにか言おうとする。しかし、狭い部屋にふたりきりでいることが気詰まりに感じて、キースは空気を求めて早々に外へ出た。アルフレッドは黙って後に続いた。
少し遅れて、並ぶ小部屋から、ぞろぞろと二人組の学生たちが出てくる。将来の高級士官候補である王族・貴族たちと、バディである蟲たち。
隣から出てきたのは、マイルズと彼のバディだった。新年度ということもあり、まだ近距離での伝令訓練だ。つまり、対戦相手はマイルズだったということか。
キースは意識して無表情を保つ。キースの姿を認めたマイルズは薄く笑うと、黙ったまま、キースたちの使っていた小部屋に入った――記録に来た審判役の学生たちが中に入れず困っている。マイルズはすぐに、戸口から覗く学生を突き飛ばして出てきた。
盤面が自分の意図したものと寸分違わなかったことも、試合がキースの勝利に終わったことも、どちらも気に食わなかったのだろう。鮮やかな碧の瞳がキースを睨み上げる。後ろに撫でつけた金髪が乱れて、ひとすじ落ちる。
「まともな勝負になるとは! 今回は、ずいぶんといい蟲をもらったようだな、ホーリーランド公」
「……」
キースは黙ったまま目礼をした。余計なことを言ってマイルズを刺激したくなかった。
遠隔でのチェスの試合は、バディの蟲によって、やり取りにひどく時間がかかったり、互いの手を誤って伝えたりして、勝負にならないことがある。
実際、キースの過去のバディたちは厳しい試験をくぐって入学したとは思えない落ちこぼればかりだった――訓練のたびに相棒の貴族たちからきつく叱責されている様子を見かねて、教官に「自分の蟲と交換してやれないか」と提言したのはキースだったのだが。
「きみの蟲は寿命までまだずいぶんあったと記憶しているが、なぜ新しい蟲を? それも、こんなに優秀な?」
「教官会議での決定だそうです」
「ああ、そうだったな。きみのいつもの手だ。だが、きみが愛玩するのは落ちこぼれだったじゃないか。いつのまに宗旨替えしたんだ?」
背後でアルフレッドが「恐れながら……」となにかを言いかける。しかし、キースは軽く片手を挙げて黙らせた。
「すべては教官がたの決定ですから、わたしにはなんとも」
「……蟲など使わなければ」
憎々しげに、低い声でマイルズがつぶやく。
「蟲など使わなければ、この勝負、わたしが勝っていた」
「無論、そうですとも」
キースが静かに認めると、マイルズはそれ以上なにも言えなくなったのか、舌打ちをして踵を返す。そのあとを彼の蟲が慌てて追うが、「寄るな!」と怒鳴る声がした。
ふたたび、辺りにざわめきが戻ってくる。解散を言い渡された学生たちが、ぞろぞろと休憩のために散っていく。キースも休憩を取るため歩き出そうとして、ふとアルフレッドを振り返る。
アルフレッドは震えていた。蟲特有の白い肌も、ますます青白くなっている。
爵位名の
「……わたしよりもマイルズ卿のほうが恐ろしいとは、きみも妙なやつだ」
つぶやくと、アルフレッドはふっと我に返ったようにこちらを見た。
「もしかして、今の冗談のつもりです? 俺の心を和ませようとした?」
「いいや」
ぐるりと背を向けて歩き出すが、アルフレッドは後を追ってくる。キースは立ち止まり、きっぱりと告げる。
「みな勘違いしているようだが、バディは主従関係ではない。四六時中、わたしのそばにいる必要はない」
これまでバディを組んだ蟲たちは、この言葉を好機とばかりに受け容れて、以降深く関わろうとする素振りを見せなかった。
しかし、アルフレッドは違った。
「必要かどうかではなくて、俺がそうしたいのだと言ったら?」
思わず、キースの唇から笑いがこぼれた。呆れたような笑いだった。
アルフレッドに背を向けたまま、回廊をぐるりと周る。中心にある中庭には、オリーブの大木が植わっていて、緑の実をつけはじめている。キースは、そこから地に落ちる木漏れ日へ目をやった。背後で小さな声が尋ねた。
「……愛玩って?」
先ほどのマイルズの発言のことだろう。
「なるほど。きみはなにも知らないのだな」
それで、腑に落ちた。
なにもかもを知ったような目で、こちらを見てくると思っていた。すべてを理解しているような顔で、親しげに話しかけてくる。どうしてそんなことができるのかと。
逆だったのだ。なにも知らないから、そのようなことができるのだ。
「『ひいらぎの
勝手なものだと思う。近づけば口さがない噂を立てられ、遠ざければ恐れられる。なにをしたって、結局、疎まれるのだ。
ふたりのあいだに落ちた沈黙を埋めるように、ざわ、と中庭の梢が鳴る。振り返って、ようやく目を合わせたアルフレッドは、困惑しているようだった。
「そうか。きみはわたしの母のことも知らないのだな。母は王族でありながら、未婚のまま、わたしを産んだんだ。表向きには処女懐胎だなんだとうつくしく飾り立てられているけれど、蟲とのあいだの子ではないかと言われている。……真相はわからない。父親が誰かを語らないまま、わたしがそのようなことを理解する歳になるより先に、母は亡くなってしまったからな」
「ですが、俺たちには……」
生殖能力はないはずだ、と、アルフレッドは言おうとしたのだろう。しかし、口ごもって下を向いてしまった。
ホムンクルスは短命であるいっぽう、成熟が早く、繁殖力が高い。人間と異なる種であるから、疫病に対する耐性も持ち合わせている。当初、そのことを喜んだ貴族たちは、すぐに過ちに気がついた。ホムンクルス同士で繁殖するのであればいいが――人間と血が混ざってしまえば、どうなるか。それも平民と混ざるのであれば、まだいい。しかし、放っておけば数で人間を圧倒してしまう種が、自分たちの血統に紛れ込み、特権を奪っていくのだとしたら。
その恐れから、貴族たちは蟲を繁殖させるのではなく、
「どんなことにも、例外はあるんじゃないか?」
「俺は」
キースがそれ以上語るのを拒むように、アルフレッドは声をあげた。
「困っています」
「……見ればわかるよ」
アルフレッドの眉根がぎゅっと寄って、眉尻が下がる。大きな瞳も縋るような色を帯びている。その表情は情けなくて、哀れで、しかしどことなく愛嬌があった。しょんぼりと耳と尾を垂らした大型犬のような。
キースのなかでおさまりかけた反発が、しかし続くアルフレッドの言葉で息を吹き返した。
「あなたがそんなことをしないのを知っているからです。あなたのお母様も……」
なにも知らないくせに、そのようなことを信じられるのは、幻想を抱いているからだ。
「わたしの目の色を知っているか?」
言葉を遮って尋ねた。長い前髪ごしに、アルフレッドを睨みつける。長身である自分よりもさらに高いところにある顔を見上げる。髪に隠れて、あちらから目は見えないはずだ。
母の、明るい緑だったという瞳とは似ても似つかない、この瞳は。
「知っていますよ! 濃いアンバーだ」
アルフレッドは憤慨したような、あるいは拗ねたような声で言った。
思わず息を飲む――見られていた? いつ? どこで?
キースの衝撃を和らげるようにアルフレッドは表情を緩め、微笑んだ。
「光の加減によって赤にも金にも見える、アンバーです」
それから、彼はふたりのあいだの距離を一歩詰めた。ゆっくりと、拒まれないのを確かめながら、大きな手のひらが近づいてくる。
アルフレッドは、指先でキースの前髪を掻き分けた。かすかに、こめかみに指が触れている。
「今は、金色に見えますね。きれいな色だ」
ぞわり、と。肌をなにかの走る感覚があった。それがなんなのか、キースにはわからなかった。恐怖なのか、嫌悪なのか、それとも……。
「俺がそばにいるのは、嫌ですか?」
いつのまにか、辺りに人の姿はなかった。ふたりだけが世界に取り残されてしまったような静寂のなかで、またざわざわと梢が鳴る。
「……わからない」
辺りに人の姿がないのも道理で、キースがそう答えた瞬間、次の講義の開始を告げる鐘の音が鳴った。
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