5.過去の亡霊
アルフレッドは、一部の監督生たちに囲まれてどこかへ連れていかれた。
彼が蟲の言葉でなにかを伝えたのか、それとも同胞の危機に動物的な直感がはたらいたものか、分厚い防音壁に囲まれた小部屋から蟲たちが心配そうに顔を覗かせ、連行されるアルフレッドを見送る。彼らのバディである人間たちも、その後ろからいぶかしげに見ていた。
「扇動罪」という不穏な単語とアルフレッドがどうしても結びつかずに、キースは呆然とその様子を眺めていた。しかし周囲にざわめきが広がるにつれ、次第に現実感が戻ってくる。
自分も監督生の端くれである。事情を知る権利はあるとマイルズたちの後を追おうとする。そこに、ようやくウォーターズがやってきた。
「教官!」
「なにがあったんですか?」
ウォーターズは訓練室の扉をくぐった途端、一斉に向けられた学生たちの視線にたじろいで一歩下がったが、キースと目が合うと目くばせをした。
「詳しくは後ほど説明しますが、今日の伝令訓練は休止とします。各自、次の講義や訓練まで自由に過ごしてください」
学生たちから不満げな声があがる。皆、なにが起きたのか知りたいのだ。しかし、ウォーターズが「ホーリーランド公、こちらへ」とキースを呼ぶと、すぐには事情を聞くことができないと悟って、ばらばらと散りはじめた。
キースはウォーターズのもとへ駆け寄った。ウォーターズは、きょろきょろと辺りを見回すと「こちらへ」と言って、キースを手近な小部屋のなかへと引き込んだ。
「先生、アルフレッドは……」
矢も楯もたまらずキースが口を開くと、ウォーターズはうなずいた。
「授業の前、突然、マイルズ卿が大勢の監督生を引き連れて教官室へやってきて……知り合いの憲兵からアルフレッドに向けられている疑惑について聞いたと言っていました。それで、すぐにでもアルフレッドから詳しい事情を訊きたいから、訓練を一時中断しろと迫られて……」
そこでウォーターズは、マイルズの冷たいまなざしを思い出したように、ぶるりと身体を震わせた。
「そんな不確かな情報で訓練を中断するわけにはいかない。あなたも詳しいことは憲兵隊に任せたほうがいいと言ったのですが、マイルズ卿はかなり強硬で、止めきれませんでした」
頭を下げるウォーターズに、キースは内心苛立った。しかし、アルケミストとしては高名であっても、彼は爵位も持たない平民である。王族を力づくで止めることは、まず不可能だろう。
――ならば、自分が止めるしかない。
「わかりました。教えてくださり、ありがとうございます」
キースは急いで小部屋を出ていこうとした。こうしているうちにも、アルフレッドがどんな目に遭わされているかわからない。さすがに校内で乱暴な真似はしないと信じたいが……。
しかし、ウォーターズはキースの腕にしがみついた。驚いて振り返る。
「公爵。マイルズ卿は、あなたとアルフレッドが一昨日、人間と蟲との衝突に関与したとおっしゃいました」
「関与など……止めに入っただけだ」
「しかし、アルフレッドは遠巻きにしている群衆に刃物を投げつけた疑いがあると。さらに騒動の発端について、拘束された人間たち――蟲たちとさえ、異なることを言っていると」
「それは……」
初めて聞く話だった。アルフレッドが憲兵隊の詰め所からなかなか戻ってこなかったのは、そういうことなのか。
「刃物を投げつけたという疑いについては、証拠不十分となったようですが」
「当たり前です。アルフレッドはそんなことをしていない。むしろ、彼は被害者です。騒ぎを止めに入ったところ、突然、群衆のひとりがナイフを手に襲ってきて……アルフレッドは自分の身を守ろうとしただけで……」
怒りのあまり言葉がうまく紡げず、しどろもどろになった。いくらなんでも、こんなひどい言いがかりはない。こんな扱いを受けるのはきっと、彼が蟲だからだ。
キースが熱くなればなるほど、ウォーターズは冷静さを取り戻していくようだった。
「証言の食い違いについては? 彼は、『浮浪者の蟲が突然、人間の男に殴られたのが発端だ』と言っているようですが、ほかの関係者は全員『物乞いがしつこく絡んでくるので追い払うと、その仲間に難癖をつけられた。それがきっかけで喧嘩になった』と言っていると」
「アルフレッドが嘘をつくとは思えません。止めに入る前から、蟲たちは互いになにか話していたようでした。だからきっと、襲われた蟲から事情を聞いたんじゃないでしょうか」
しかし強圧的な取り調べのなかで、ほかの蟲たちは無理やり証言を変えさせられたのではないだろうか。だから、アルフレッドと蟲たちの証言は食い違っているのでは? キースは確信していたが、証拠はどこにもなかった。
ウォーターズは「ふう」とため息をついた。呆れた感じではなかった。胸につかえたものを吐きだすような、心配そうなため息だった。けれど、それは妙にキースの気に障った。
「……なんですか?」
「扇動罪というのは、おそらくマイルズ卿の誇張でしょう。偏った物の見方をすれば、アルフレッドが『騒ぎを止めに入る振りをして、蟲の味方となって人間を傷つけようとした』、そのうえ聴取で『虚偽を述べて、すべてを人間のせいにしようとした』と強弁できなくもないでしょうが……さすがに証明するのは難しい」
「当然でしょう。単なる言いがかりなんだから」
「ですが」
ウォーターズは、きょろきょろと視線を泳がせた。密室にいるにもかかわらず、盗み聞きしている者がないことをたしかめるように。
「これで彼は憲兵隊に目を付けられてしまった。彼には……隠しておきたい秘密があるのに」
キースの心臓がどくりと鳴った。一瞬後、「だいじょうぶだ」と自分に言い聞かせる。
だいじょうぶだ。ウォーターズがアルフレッドの秘密を知っていても、おかしくはない。なぜなら……アルフレッドには、キースのバディになるため、ウォーターズを脅そうとした過去があるからだ。彼自身が知りえるはずもない情報を使って。
ジョンのような素人であれば、アルフレッドが「情報通」であったところで深く考えないだろう。しかし、ウォーターズは蟲のことを知り尽くしたアルケミストだ。
キースの動揺を受け止めて、ウォーターズは弱弱しく微笑んだ。
「やはり、公爵もご存じでしたか」
「あれは……一体、なんなんですか?」
アルフレッド自身は、それを「前世と前々世の記憶」と呼んだ。しかし、キースは信心深いほうではない。「前世」や「前々世」というものが存在しうるとはにわかに信じられないまま、ただ、たしかにその記憶は事実に基づいたもののようだと受け容れつつあったが。
ウォーターズは、「これはわたしの推論にすぎませんが」と前置きをして語り始めた。
ホムンクルスは、もともと「全知全能の人間」を志向して造られたものである。一般に広まっている方法はその製造法を模倣した、いわばレプリカを作る方法であるけれども、ある部分では「並の人間よりも優れた能力」を持つ生物を生み出す技術であることは変わりない。
それは、蟲たちの頑健さ、成熟したあとも外形上は老いない点などに現れている。それ以外にも、彼らは「人間よりも優れた点」を多く持っているが――貴族の統治に不都合な特性は、ファームで取り除かれている。
生まれたホムンクルスの能力の取捨選択を行うのは、それぞれのファームに所属するアルケミストである。望ましくない特性は消し、望ましい特性は強化する。しかし、人間のすることだから、どうしてもミスはある。消すべき特性を残してしまったり、強化すべき特性を消してしまったり。
キースは、アルフレッドの「一番目の記憶」について思い出す。あるいは、自分の父親だったかもしれない、見知らぬ蟲のことを。アルフレッドの「前々世」は、蟲が持っているはずの疫病への耐性を失っていた。一方で、自分の「父親」は、蟲が持っていないはずの生殖能力を保持していた……はずだ。
「蟲たちの製造方法は今やそれぞれのファームの社外秘となってしまい、わたしにはアップルビーのやり方はわかりません。しかし、アップルビーの蟲たちには、過去に存在したアップルビーの記憶とともに生まれる者があるのかもしれない。一種の突然変異ですね。そしてアルフレッドは、その『不都合な能力』を消されずに今まで生き延びた……」
「前世」や「生まれ変わり」という説明よりは納得できるような気がした。しかし、ウォーターズはなんのためにこの話を持ち出したのだろう。
ウォーターズはふたたび深いため息をついた。
「あなたなら、このことを知っても彼を『
「ほかの人間は違う?」
ウォーターズはどこか痛むように眉をひそめ、うなずいた。
「ほかの人間たちにしてみれば『初期不良』ですから。彼をファームへ送り返す口実にしようとするでしょうね」
ウォーターズとの会話を終えて小部屋を出ると、訓練室には誰も残っていなかった。
アルフレッドはどこへ連れていかれたのか。手がかりはなにもなく、それでも探さずにはいられない。
伝令訓練に参加していない――バディを持つことを許されない身分の、あるいはバディに選ばれなかった蟲の――一般の学生たちはまだ講義を受けていて、廊下に人の影はまばらだ。こんなときに誰も頼る者がいないという現実が突き刺さるようで、キースは教官の声が漏れ聞こえる講義室の前を足早に通り過ぎる。
と、扉の覗き窓からジョンの姿が見えた。ジョン・アップルビー。
そして、キースは思い出した。蟲たちは彼ら独自の言語を持ち、その言葉は人間の言葉よりもはるかに遠くまで届くという、誰もが知っている事実を。
幸いにもジョンは講義室の後方に座っていた。教官が後ろを向いている隙にそっと扉を開け、廊下へと呼び出す。今は詳しい事情を訊いてくれるなと前置きして、アルフレッドの居場所を知りたいと頼む。
ジョンは露骨に面倒そうな顔をしたが、今度昼食を奢ると言うと「取引成立ですね」と手のひらを返した。
そして、どこからかあの羽音のような音がして――すぐにジョンは笑った。
「近くにいますよ。あなたの部屋の隣の、元・俺の部屋に」
急いで寮へと戻り、アルフレッドの部屋の扉をノックしても、しばらく応答がなかった。「わたしだ、キースだ」と名乗ると、ようやく室内から人の気配がした。
のろのろと扉の隙間から顔を出したアルフレッドの顔面は蒼白だった。
キースがギョッとして、「なにをされた!?」と大きな声を出すと、アルフレッドは疲れたように笑った。
「痛いことはされていません」
彼はベッドに腰を下ろすと、深いため息をついてから言った。
訓練室を出てしばらく歩かされ、空いていた講義室に引きずり込まれた。監督生たちはアルフレッドを取り囲んで、「憲兵に本当のことを話せ」と凄んだ。
「『俺が蟲たちの暴動を扇動しました』――憲兵隊に、そう自供しろと。『さもなくば、おまえをファームに送り返してやる』と言われました」
脅迫したのは、おそらく監督生たちを先導していたマイルズだろう。確かめると、アルフレッドは目を伏せてうなずいた。
「でも、そんなことできっこないですよね? 理由もなく俺を退学させるだなんて、そんなこと……」
「ああ。いくらなんでもマイルズ卿にそこまでの権限はないし、己の立場を濫用しないぐらいの分別もある人物だ」
アルフレッドは「そうだといいんですが」と口の端に皮肉な笑みを浮かべた。彼らしくもない表情だった。そして、ひとりごちる。
「ワイアット公爵家の人間なら、やりかねないと思ってしまう……」
妙な言い回しをすると思った。「あのマイルズ卿なら」でなく、「ワイアット公爵家の人間なら」とは――まるでほかのワイアット公爵家の人間を知っているような。
「たしかに近ごろのマイルズ卿は、前にも増して蟲たちに高圧的で、自制が効かなくなっているように見えるが……」
それでも、さすがになんの咎もないアルフレッドを一方的に退学にはできないはずだ。そこまで考えて、キースの脳裏に先ほど聞いた話が蘇る――「ほかの人間たちにしてみれば『初期不良』ですから。彼をファームへ送り返す口実にしようとするでしょうね」。
「まさか、マイルズも知っているのか……?」
思わず口を衝いた言葉に、アルフレッドは瞳に当惑の色を浮かべてキースを見上げた。
「マイルズ
キースは咄嗟にごまかした。
「いや……マイルズ
伝令訓練でマイルズとの試合に勝ったとき、こちらを睨みつけた彼の燃える燐のような瞳を思い出す。「蟲など使わなければ」とマイルズは苦し気にうめいた。
アルフレッドは、「わかりません」とため息交じりに言った。自身の膝に肘をつき、頭を抱えこんでしまう。白いくせ毛を、大きな両手がぐしゃぐしゃにかき混ぜる。
「どうしたらよかったのか……。最初の憲兵隊の取り調べで、そうしろと示唆されたみたいに、嘘をつけばよかったんでしょうか。騒動のきっかけは蟲からの暴力だって。そうすれば、ほかの蟲はともかく、俺だけでもこんな面倒に巻き込まれず済んだんでしょうか。でも、ありもしないことを言って、自分だけ安全な場所に逃げるなんて絶対に嫌だった」
「僕のせいだ」
アルフレッドが「え?」と顔をあげる。キースはすうっと全身の血の気が引くような、同時に全身の血が煮えるような、怒りと混乱のなかに突き落とされた。
「そもそも騒ぎを聞きつけたときに、おまえは『逃げたほうがいい』と言ったのに。僕がそれを振り切って、止めに入ったのがいけなかった。おまえはただ僕に付き合っただけなのに、僕の何倍もの危険に晒される羽目に陥っている。蟲が厄介ごとに巻き込まれたら、どんなに大変な思いをするか。その現実も知らずに、独り善がりな行動をした僕のせいだ」
ふと、アルフレッドが語った母の過去の言葉を思い出した――「いつわりの救いを与えることは、かえって残酷なことです」。
「すまなかった」
キースは頭を下げた。
「そんなことを言わないでください」
アルフレッドは、ぎゅうと眉根を寄せて、泣きそうな顔で微笑んだ。
「最終的について行くと決めたのは俺自身ですし、あのときのあなたはすごくかっこよかった。それに……あんなふうに弱い者たちに手を差し伸べてくれるあなたがいたから、俺は今ここにいるんです」
そう、アルフレッドは「一番目の記憶」について語ったときに、「それでも、あなたの与えてくれた水がうれしかった」と言った。そして、「士官学校に入って、あなたのバディになることだけを目標に生きてきた」とも。あの記憶が、彼をここまで連れてきたことは事実なのだ。
でも。キースは思った。
その記憶のなかの「アルフレッド」は本当に「アルフレッド」なのだろうか? ウォーターズの言ったとおり、過去に存在したほかのアップルビーの記憶が、なんらかの手違いで彼の記憶に紛れ込んでしまっただけなのだとしたら……。
ウォーターズは話を終える前に、ある提案をした。「憂いを失くす方法がひとつだけある」と。
『アルフレッドの過去の記憶を消してしまえばいい。幸いにも、ここに凄腕のアルケミストがいますよ』
ウォーターズは、重い空気を少しでも軽くしようと冗談めかして、自分自身の胸に手を置いた。
『……それはわたしたちでなく、アルフレッド自身が決めることだ』
キースはそう言って結論を避けたが、正直なところ、ドキリとした。そのようなことができると想像したことがなかった。ウォーターズの口ぶりでは、それはとても簡単なことのように聞こえた。
キースはアルフレッドの目を見続けていられず、部屋のなかに視線を移した。
相変わらず物の少ない部屋だ。コート掛けに先日買い求めた古着が掛かっていて、そこだけががらんどうの部屋に
彼の記憶を、本当に
アルフレッドが迷子の子どものように、そっとキースの袖を引いた。そちらに顔を戻すと、弱弱しくねだられる。
「あの……しばらく俺の手を握ってもらってもいいですか」
彼の手がちいさく震えていることに気がつく。
「そうしたら、なにも怖くなくなる気がするんです」
――いずれにせよ今はなにも告げずにいようと思った。これ以上、彼を追い詰めるようなことはしたくない。
キースは罪悪感と迷いを押し隠して、アルフレッドの手を両手で包み込んだ。めずらしく冷え切ったその肌が、自分と同じ体温にあたたまるまで、黙ってそうしていた。
朝食を摂る学生たちでにぎわっている食堂。キースは湯気の立つコーヒーを口に含むと、空いている手で新聞をめくる。めくる手を止めず、カップを置くと同じ手で今度はバターロールを取った。ちぎることはせずに、そのままかじる。
「ホーリーランド公」
困惑した声でアルフレッドが名前を呼ぶ。「うん」と上の空で返事をしながら、また今度はカップを持つ。
「行儀が悪いのは承知している」
「……気になる記事でもありましたか?」
アルフレッドにちらりと目をやる。いつもおかわりの果物を取ってくるのに、ここ数日は食欲が湧かないようで、彼のほうは早々に食事を終えている。
「これだ」
気になる三面の記事を示すように、新聞を折り曲げてアルフレッドに差し出した。
アルフレッドは小さく首をかしげて、示された記事に目を落とす。
「王都で憲兵隊と蟲たちの衝突……」
彼はつぶやいた。
記事は、王都で起きた蟲たちによる騒乱について書いたものだった。
蟲の工場労働者たちが労働条件をめぐって抗議活動を行っていたが、一部が暴徒化。経営者側の人間たちと衝突し、何人も負傷者が出て、最終的に憲兵隊が出動した。
ここまでの大きな騒ぎになるとは、扇動した者が内部にいるのではないか……という憲兵隊員の談話で締めくくられている。
アルフレッドはぎゅっと唇を引き結んだ。
「最近、多いようですね。こういう騒ぎが」
「さらに深刻なのは、こちらだ」
キースは指先で、より小さな記事をトントンと叩いた。
そちらへ視線を向けたアルフレッドの顔色が、サッと青ざめる。
先日、王立士官学校近郊の街で起きた騒動。それに関係した蟲たちから、扇動罪での逮捕者が出たという記事だった。
「これ、このあいだの……」
アルフレッドは尋ねようとして、口をつぐんだ。さりげなく周囲の様子を確かめる。朝のざわめきに満たされた食堂で、ふたりの会話を気にしている者はいないように見えた、が。用心するに越したことはない。
キースは黙ってうなずいた。ふたりが止めに入った騒動のことだ。
あの蟲たちのなかに、実際に人間と蟲との衝突を起こそうとした、あるいは起きたものを激化させようとした者がいたのか。それとも、これも憲兵隊の強圧的な取り調べにより捏造された罪なのか。
わからなかったが、いっそう事態がきなくさくなってきたことは確かだった。
「先日決めたとおり、しばらくは校外に出ず、おとなしくしていよう。きみは学校内でもできるだけひとりになるな」
アルフレッドは神妙な面持ちでうなずいた。
暗いニュースに不安は募るが、キースは心のどこかで楽観してもいた。
なにせアルフレッドが扇動にあたる行為を行ったという証拠がないのだから、このまま問題を起こさずに過ごしていれば、憲兵隊もやがて諦めるだろう。
マイルズだって、いくら「ファームに送り返してやる」と脅したところで、実際にはなにもできない……はずだ。今のところ、彼がアルフレッドの秘密を知っているという確証はない。
すでに一度、アルフレッドに「事情を聴いて」いる以上、同じ口実を使って彼をどこかへ連れていくのも難しいだろう。誰かが――特に警戒したキースがそばについていれば、余計に。
本当は、自分が四六時中、そばで目を光らせていられればいいのだが……。
キースは、アルフレッドが返した新聞をゆっくりと折りたたみながら言った。
「実は……わたしはこの週末、領地に帰らなければならない」
アルフレッドは一瞬だけ心細そうな顔をしたが、すぐに「そうなんですね」と無理に笑った。
「母の命日なんだ。毎年、墓所に花を供えに行っている」
本当のことを言っているはずなのに、なんだか言い訳じみて聞こえるような気がした。アルフレッドをひとりで置いていくことに不安があるためだろうか。
一方、「母の命日」と聞いたとたんに、アルフレッドは「俺のことは気にしないでください!」とぶんぶん両手を振りながら言った。近ごろ落ち込んでいる彼が見せた、以前のような無邪気な仕草に少しホッとする。
キースは唇にかすかな笑みを浮かべて言った。
「わたしがここを離れるには最悪のタイミングになってしまったが、いいことがひとつだけある。めずらしく伯父上もおいでになると連絡があった」
マイルズの父・ワイアット公爵のことである。
アイザック・ワイアット公爵は、キースの亡き母・フローレンスと同腹である。彼は、きょうだいのなかでも唯一血のつながった、年の離れた妹を猫かわいがりしていた。
だからこそフローレンスが未婚のままキースを身ごもったときには父親は誰なのかと騒ぎたて、どうやらどこぞの蟲であるらしいと知ると「蟲の魔の手から妹を守れなかった」とずいぶん恥じたらしい。それから、彼の蟲嫌いは加速したと風の噂に聞いたことがある。
母が病を得て亡くなったのち、アイザックは幼いキースの後見人となった。しかし、折々に訪ねてきてくれたのは最初の数年だけだった。やがてその回数は減り、キースが士官学校に入学するころには、母の命日に訪ねてくるかどうかもあやしくなっていた。
面と向かって言われたことはなかったが、成長するにつれ母とは似なくなる自分に、憎い蟲の面影を見て、顔を合わせるのも嫌になったのだろう。
とはいえ、もともとは優秀な軍人であり、騎兵隊長まで務めた誇り高い人物である。
「一昨日起きたことを伯父上に相談してみようかと思う。話の通じない方ではない」
実の息子の度を越えた行いを、
小さく唇を震わせて、アルフレッドはなにかを言いかけた。しかし、周囲を気にするようにきょろきょろと見まわして、口を閉じた。
「……俺も行きます」
小さな声でつぶやく。なにを言うのだろうと思った。実家に母を偲びに帰るだけだ。なにも危険なことはない。
「どうして?」
「あなたをひとりで行かせたくない」
尋ねると、アルフレッドはきっぱりと答えた。アルフレッドの望みは「そばにいて、あなたをお守りする」ことであると思い出した。しかし今、危険に晒されているのは自分よりも彼である。
「駄目だ。憲兵隊に目をつけられている今は、この土地を離れないほうがいい」
それとも、ひとりきりで残されるのが不安なのだろうか。一瞬、そう考えたけれど、アルフレッドは真剣な表情でこちらを見つめている。不安と呼ぶよりも、もっと強固な意志を感じる。
「ですが」
「きみもしつこいな。この話は、もう終わりだ」
椅子から立ち上がる。アルフレッドは、もどかしそうにこちらを見上げた。違うんだ、と思う。おまえと話をしたくないわけじゃない。
「……講義が始まる」
つぶやくと、「そうですね」とアルフレッドも渋々うなずき、あとに続く。テーブルから読み終えた新聞を掴みあげると、表になっている三面の記事がまた目に入る。これ以上、なにも起きなければいいが。
こちらの気持ちなど知らぬげに、背中に声がかけられる。
「くれぐれもお気をつけて」
キースはため息を吐き出すようにして、言葉を返した。
「きみもな」
ホーリーランド領には、王領のはずれにある士官学校から王都へ馬車で行き、そこから数年前に開通したばかりの汽車に乗る。とはいえ汽車を使っても半日以上かかる、長い道のりだ。
国土の中央にある王都から北へ。汽車は、より
屋敷に着いたのは、夕刻に近かった。アイザック・ワイアット公爵は、すでに到着していた。屋敷のそばにある教会の墓所にもすでに参り、花を供えてきたのだと、出迎えた家令が言う。
「今は応接間でお待ちです。なんでも、すぐに王都へ戻られるとかで」
なんとも言えない、ものさびしい気分になる。わざわざ長い時間をかけて、ここまでやってきたのだ。母を偲ぶためにも、少しは長く滞在しようという気はないのか。
反発が胸のうちに湧くけれど、よくよく考えてみれば、明日にでもまた士官学校に戻ろうとしている自分も、伯父とそう変わらない薄情者なのかもしれない――自分も伯父も、この地にいい思い出がない。
キースはつとめて表情を変えずに、旅装を解くとすぐに応接間へと向かった。
「ワイアット公。ようこそおいでくださいました」
すでに応接間で紅茶を飲んでいたアイザックは、現れたキースの礼におざなりな挨拶を返した。目を合わすことも、立ち上がることもしない。
目上の、さらに血縁関係にある人物だからこそ許される無礼であるけれど、実際にはそのような親しい間柄でもない。しかし本来の彼から考えると、敵意があるというよりは、気もそぞろというのが正しい形容に思えた。
侍女が新たな茶を運んできてくれて、キースもようやく人心地がつく。
「いかがですか。この土地はいつ訪れても……」
不慣れな社交からまずは話を始めようとしたが、伯父はそれを遮った。
「悪いが雑談をしている暇はない。急用で、すぐに戻らねばならんのでな」
キースは唇の端に愛想笑いを浮かべたまま、居ずまいを正した。それを合図としたように、アイザックはぐっと身体を乗り出した。
「王都で人間と蟲とのあいだの衝突が増えていることは承知しているな? その裏に、組織的な扇動の動きがあることも?」
「……新聞で読んだ程度ですが」
ふん、とアイザックは鼻から息を吐いた。彼が蟲と同じく、汽車や新聞のような新たな事物も快く思っていないことを、キースはなんとなく察している。
「では、新聞に書かれていないことも教えてやろう。近頃、蟲たちが騒ぎを起こしているのは、隣国の工作によるものだ。先日の工場労働者による暴動に、隣国の工作員が計画段階から関わっていたことがわかった」
キースは「そうなのですか」とうなずいた。長いあいだ緊張関係にある隣国が、この国の政情の不安定化を謀っている。みじめな境遇に不満を募らせている蟲たちを煽って。ありそうな話である。しかし、なぜ自分がこのような話をされるのだろうか。すでに退役した伯父が機密情報を知らされているというのも、よくわからない。
「……まさか」
キースがハッと目を見開くと、伯父はつぶやいた。
「おまえは本当に
その声音は、褒めているのに憎々しげだった――
「士官学校にも、そのような工作員が入り込んでいると?」
「そのような噂がある」
ぐ、と喉の奥が鳴った。屈辱に頭がどくりと痛んで、思わずこめかみを押さえる。
「伯父上。なにを心配なさっているのかは、わかります。しかし、わたしが国を売るような真似など……」
「わたしにすべてを言わせなさい」
堂々たる声だった。怒りの気配はないのに圧倒されるようで、キースはそれ以上なにも口にすることができなかった。
「おまえ自身に国を売ろうとする気などないのはわかっている。しかし、工作員の息のかかった蟲連中が担ぎ出すのなら、おまえのほかに適任はないだろう。……おまえは半分、連中の同胞なのだからな」
アイザックは空のティーカップに手をやり、口元へ運んだ。それから、それが空であることに気がついて苦く笑った。その表情を、キースは妙に人間らしいと思った。
「近づこうとする蟲に油断するな。せめて、おまえだけは……」
その続きをアイザックは口にしなかったけれど、キースにはわかった。せめて、おまえだけは蟲の毒牙にかからないでくれ――フローレンスのようにはなってくれるな。
「心に留めておきます」
キースはそう言って、小さく頭を下げた。
しばらくの沈黙ののち、アイザックは椅子から立ち上がる。
「今日は、これだけを伝えに来た」
歩き出そうとするアイザックを、キースは呼び止めた。
「実は、わたしもお話したいことがございます」
蟲に油断するなという話をされた直後に、アルフレッドの話をするのは気が引けた。しかし、マイルズの暴走を止められる人物がいるとしたら、それは彼が畏敬の念を抱く父親以外にない。
「わたしの士官学校でのバディが」と語り始めると、「バディ」と鼻で笑われるが、己を奮い立たせて続ける。
自分とアルフレッドが、民衆と蟲とのあいだの対立を止めに入ったところ、アルフレッドに扇動罪の疑いがかかったこと。しかし、具体的な証拠はなにもなく、実際にそばにいたキース自身が疑わしい行為はなかったと断言できること。それにもかかわらず、マイルズは監督生という立場を濫用して、アルフレッドに虚偽の自白を迫ったこと。自白しなければ、トップクラスに有能な蟲であるアルフレッドを退学させてやると、そのような権限もないのに脅したこと。
アイザックは椅子に座りなおすと、腕と足を組み、苛々とつま先を揺らしながら話を聞いた。
キースの話が終わると、アイザックは深いため息をついた。
「……まったく、恥ずべきことだ。不肖の息子とはマイルズのような者のことを言うのだろうな」
キースは相槌を打たずに黙っていた。アイザックは「わたし個人は軍人としての蟲の登用に反対の立場を取っている。だからといって、既に王国の制度として採用されているものを一個人が恣意的に曲げようとしてはならん」とはっきり言い切った。
「マイルズには釘を刺しておこう」
「ありがとうございます」
告げ口のような形になってしまったことに若干の後味の悪さを覚えながら、キースは深く頭を下げた。
アイザックは本当に急いでいるようで、使用人たちにばたばたと荷物を運ばせ、歩きながら身支度をした。例の噂について王都で関係者たちと話をすることになったのだと、独り言のように言い訳しながら。その後ろについて、車止めから馬車に乗り込もうとする背中に、「どうぞよろしくお願いします」と頭を下げた。
アイザックは振り向くと、「ああ」と少しばかり分が悪そうにうなずき、尋ねた。
「……しかし、本当におまえのバディとやらが無垢だと信じてよいのだな?」
咄嗟に言葉が出てこなかったのは、なぜだろう。
アイザックはキースの表情を見極めようと目を細めたが、やがて小さく首を振って、従者に扉を閉めさせた。
なんと答えるべきだったのか。頭をぐるぐると巡らせながら、門から出ていく馬車を見送った。馬車は、先ほどキースが降り立った駅へ伯父を送り届けるはずだ。
「ふう……」
そのとき、背後から気の抜けたため息が聞こえた。まるでキースの心のうちを代弁したかのようなため息だった。
振り向くと、来客を並んで見送っていた使用人のなかで、初めて見る年若い侍女が「しまった」という顔をする。周囲の、こちらはキースも顔を知っている侍女たちが「こら」と肘で小突くようなしぐさをする。
「……」
キースは黙ったまま、微笑んだ。本来なら叱るべきだったのかもしれないが、今ばかりは彼女の気持ちがよくわかった。侍女たちは、その表情のやわらかさに驚いたように目を見開くと、一斉に頭を下げた。
彼女らの前を通り過ぎて、屋敷に入る。とにかく気疲れしていた。そばへ寄ってきた家令に「しばらく休む」と告げて、ひさしぶりの自室へ戻ろうとする。
背後から、侍女たちがひそひそと会話する声が聞こえてきた。
「やっとお帰りになった、緊張したぁ」
先ほどの年若い侍女だろうか。「噂どおり厳しそうな方でした」と言う声は安堵のためか大きくなっていて、またほかの侍女から「こら」とやられている。
「ワイアット公がいらしたのは、あの日以来ですわね」
静かに、キースも知っている声がする。ここ十年ほど仕えている、古株の蟲の侍女である。人間にしてみれば四十年ほど勤めていることになる。
ああ、と苦いもの噛み締めた。
自分が正式に爵位を継いだ年のことだ。その年の秋に、伯父は母の墓参りに領地を訪れ、それ以降は役目を終えたとばかりに足が遠のいた。
刹那、「しいっ」と鋭い息の音がした。それが妙に気にかかった。
後ろを振り向くと、侍女たちは揃ってこちらを見ていた。皆、顔を青くしている。古株の侍女などは、キースと目が合うと下を向いてぶるぶると震え始めた。
様子がおかしかった。
もしキースが十五歳になった年の話をしているのだったら、キースも知っている事実なのだから、秘密にする必要はない。
「……どういうことだ?」
尋ねると、侍女たちは追及を逃れようと「お許しください」と繰り返し頭を下げた。
しかし、キースが辛抱強く尋ねるうちに、ぽつりぽつりと語り始めた。
伯父がこの地を最後に訪れたのは、キースが十五の秋ではなかった――十七の夏である。
その日、キースは視察のため屋敷を留守にしていた。伯父は「キースに重要な話がある」と言って訪ねてきて、どういうわけか、住み込みの家庭教師であったあの人の部屋に入った。ずいぶんと長いことふたりで話をしていた。部屋からは何度か怒鳴り声が聞こえた。話が終わると、伯父は帰っていった。自分が訪れたことはくれぐれも内密にするようにと、使用人たちにきつく言い渡して。
あとは、知ってのとおりだ――帰宅したキースが、庭の東屋で死体を見つけた。
奇妙なのは、同じ日に失踪した
最下級の使用人であった彼とキースが直接顔を合わせたことはなかったが、侍女たちによれば、騒ぎのあいだに姿を消してしまったという。混乱に乗じて、奉公から逃げ出してしまっただけかもしれない。
二度と帰ってくることはなかった、という。
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