月影

蒼 隼大

第1話

「……ですね」

 仕事からの帰り道、背後からボソリと声を掛けられた気がして振り返った。誰もいない。最近は不審者が出没するという報告もあって警戒しながら歩いていて、イヤホンもしていなかったので歌詞を聞き間違えたいうことはない。充分に注意をしながら歩いていたので誰かに後をつけられているようなこともなかったはずだ。

 駅から自宅へと続く人通りの少ない夜道を、切れかかった街灯がぼんやりと照らし出している。雨は降っていないものの梅雨時期なので雲が多く、余計に闇が重い。もし黒っぽい服を着た不審者が電柱の影に蹲っていたら気付かずに通り過ぎてしまい、背後を取られてしまう可能性だってあるだろう。

 何にせよ、その場で足を止めたままでいることは得策ではない。ひとつ息をついてから、私は駆け出した。こんな時のためにローファーではなくスニーカーを履いている。

 後ろから足音が追いかけてくるようなことはなかった。


「気のせいじゃない?」

 自宅マンションに着いてから、同居している姉に話すとそう言われた。私は知らなかったが、どうやらあの周辺に出没していた不審者はすでに逮捕されていたらしい。近所にすむ大学生だったということだ。どんな罪状で捕まったのかは知らないが、こんなことで人生終了とは情けない話だ。育ててきた親もさぞ嘆いているだろう。

「多分ね。それにしてはリアルだった気もするけど」

 先に帰宅していた姉が用意していた夕食はとんかつだった。またカロリーの高いものを。

「男の声? 女の声?」

「んー、多分、若い男だったんじゃないかな。よくわかんないけど」

「でも、誰もいなかったんだよね?」

「うん」

 姉は顎に指を当てて小首を傾げた。

「どこかのテレビの音声をたまたま拾った、とか?」

「んなわけないでしょ」

 人をラジオか何かだと思っているのか、この姉は。


「……いですね」

 昨日に続いて、また声を掛けられた。自分の中で昨日のことが引っかかっていて、同じ場所を通ったことで脳内再現されたのかもしれない。それでも一応振り返って確認してみる。やはり誰もいない。

「……何なのよ」

 軽く毒づいてみたものの、それでこの心地悪さが払拭できるというものではない。その日も、走って帰った。

 同じことは、その翌日も続いた。


「つかれてるんじゃない?」

 連日全力疾走で帰ってくる私の様子に、流石の姉も心配しているようだった。

「そりゃ疲れるわよ。毎日仕事帰りにランニングなんだもん。ほら、汗だく」

 スーツを脱ぎ捨てて下着姿になると、エアコンで冷やされた空気が肌に心地良かった。早くシャワーを浴びて汗を流そう。

「いや、そうじゃなくて……何かに『憑かれて』るんじゃないの、ってこと。お祓いとか行った方がいいんじゃない?」

「はぁ?」

 思わず耳を疑った。幽霊か何かに取り憑かれていると言いたいのだろうか? 

「そういうの信じるタイプだったっけ?」

「最近はね。ああ、そうそう、人間じゃないものには話しかけられても答えちゃダメなんだって。もし答えたりしたら……」

「いいわよ、そういう話。好きじゃないから」

 姉の話を強引に断ち切って、私は浴室へと向かった。


 気味が悪いのなら、道を変えればいい。

 そのぐらいのことは分かっている。例えば一駅乗り過ごして、反対の方向から家に帰ることであの道を通らなくて済むのだから。

 だがそうしなかったのはかなり遠回りになってしまうことと、生来の負けず嫌いな性格のせいだ。特に何をされるわけでもなくいのに声を掛けてくるだけの何者かに怯えている、なんて姉に思われるのは癪な話だ。


「……きが綺麗ですね」

 そして今日も声が聞こえた。気になるのは、聴こえる度にその声が明瞭になっていくことだ。『綺麗ですね』と言われた時には「え? まさか私の事?」とも思ったが、どうもそうではないらしい。いったい何が綺麗だと言っているのか。まさか『木が綺麗』ではあるまい。確かにこの通りを歩いていると近隣の住宅の庭木が道路に張り出してきているところはあるが、それは綺麗というよりはむしろ見苦しいというべきだろう。大きめのトラックが通る時に枝を引っかけているところを時々見かけるが、住人は気にしていないのだろうか。自治会が剪定を呼びかけたりすればいいのに……

 そんな事を考えながら頭上に張り出している樹木の枝を見上げつつ歩いてていると、不意に夜空を覆っていた厚い雲の一部が途切れた。その隙間から、冴え冴えとした銀色の光が降り注ぐ。

「月……」

 久々に姿を見せた月は夜空に浮かぶ銀盤のようだった。しかも、どうやら今日は満月だったらしい。月なんて珍しくもないのに、何故かキュっと胸を締め付けられるような切なさを覚えた。月というものは、こんなにも。

『月が綺麗ですね』

「……うん」

 掛けられた声にうっかり頷いてから、ハッとした。月に見惚れていたことで警戒心が甘くなっていたのかもしれない。人間じゃないものに声を掛けられても、答えてはいけない……確か姉はそう言っていた。もし答えてしまったら……どうなるというのか。

 ゆっくりと、振り返った。

 …………やはり、誰もいない。

「なんだ」

 拍子抜けだった。元々適当な性格の姉がどこかで聞いてきた噂話なんて、やはりあてにならないのだ。まあ、今回はそれでよかったのだろうけど。

 一瞬でもでもドキッとした自分に苦笑して、再び歩き始め……

「え?」

 足が動かない。視線を落として見れば、月の光が作り出した私自身の影の中から黒い手が伸びてきていて、私の足首を掴んでいる。

 息を呑んだ瞬間、身体が沈み込んだ。地面に、影の中に。

「嘘!」

 あっというまに下半身が飲み込まれてしまい、私は咄嗟に手を伸ばしてアスファルトの地面にしがみついた。だが、また黒い手伸びてきて今度は私の腰に巻きついてきた。私にしがみつく人間かそれ以上の体重にズルズルと引きずりこまれていく。両腕の皮膚は擦りむけ、爪がバキバキに割れて鋭い痛みが走った。

「誰か……!」

 声を上げようとした瞬間、力が抜けて『影』に沈み込んでしまった。固く安定したはずの地面は、どういうわけか漆黒の底なし沼と化している。

 必死に踠いても抗うことはできなかった。どこまでも、沈んでいく。

『ツキガキレイデスネ』

 何かが私の耳元で囁く。そういえば、誰かが求愛の言葉をそう訳したという話はなかっただろうか。だとしたら私はこの道に棲む何かに愛されてしまったのだろうか。それは何者で、私をどこに連れて行こうというのか。

 何も分からないまま、どこまでも沈んでいく。救いの声も、月の光も届かぬ場所へと。


深く、深く。

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