♡ 038 ♡

 学校は冬休みに入り、騒々しい教室から切り離された。広香は部屋で一人、しばらく触れなかったギターケースを起こして、黒く塗りつぶされたその傷を指で優しく撫でる。

 あの日起きたことはみなもから詳しくは聞いていなかったが、彼女の頬を同じインクで塗りつけた犯人は、広香の中で明らかだった。

 

 ケースからギターを取り出し、椅子を引いて腰掛けた。広香はギターを抱きしめ、まるで許しを乞うようにその木目に頬を押し付ける。そして開きっぱなしだった課題のノートを片付け、作曲用のノートを久しぶりに広げた。


 チューニングを済ませ、静かにギターを弾き始める。その指は焦れるように震えていた。

 時々弦を弾く手をとめて、鉛筆に持ち替えてはノートにコードをメモした。

 ギターの音に鼻歌を乗せながら、喉の奥にある言葉の断片をノートに綴っていく。


 ギターを買ったあの日から今日までの記憶を辿りながら、布を織るように曲を構築する。

 やっとの思いで見つけた大切なものが、悪意ある誰かに破壊される恐怖。冷たい視線や罵倒。心が絶望に侵されていく感覚。

 みなもの手のひらの柔らかい温もりや、彼女との幸せに満ちた生活と甘酸っぱい飴の味。

 そして、優しいみなもを突き放してしまった自分の心の弱さを、広香は一つ一つ拾い上げて音楽に落とし込んでいった。



 一方、みなもは自分の部屋に閉じこもり、白い天井の一点を見上げていた。最後に広香の家を訪れたあの日以来、広香と話をする機会は得られなかった。大切な深い青の宝石は手の中で鈍色に変色し、曇空のようにくすんでいる。


 布団にくるまったまま無意識にスマートフォンを開き、広香との数少ないラインのやり取りを見返した。

 毎日一緒に過ごしていたから、ほとんどメッセージは残っていなかった。

 いつか送られてきた『無事に帰れた?』というたった一行のメッセージに、広香の優しさが凝縮されていて胸が張り裂けそうになる。

 広香は今どうしているだろうか。塞ぎ込んで、泣いてはいないだろうか。


 窓際の席でぼんやりと退屈そうに空を眺めていた広香の背中が、遠い幻のように浮かび上がった。

 同時に彼女の嘘偽りない笑顔や、奏でるギターの泣きそうな旋律、胸を揺さぶる歌声が呼び覚まされる。


 いつもと変わらないみなもの部屋の中を、小さな銀色の火花がぱちぱちと音を立てて弾けた。

 海のさざめきと彼女の涼やかな歌声が入り混じり、空中を漂っている。

 カーテンの隙間から柔らかく朝日が差し込み、みなもの満月のような瞳を明るく照らした。

 

 みなもはベッドから這い出て、寝巻きのまま机に向かった。

 引き出しの便箋を数枚取り出すと、ペン立てにあった夕焼けのようなオレンジ色のペンで、胸の内にある想いを綴り始めた。


 広香の閉ざされた優しさへの静かな怒りと、それを遥かに上回る切実な恋心。

 そして彼女が何一つ悪くないということと、彼女の隣にいることを諦めないという決意を、溢れるままそこに記した。


 みなもは立ち上がり、カーテンを開けた。冬の淡い光が部屋に立ちこめる。

 冷たい床を足の裏に感じながら、再び広香を訪れようと心に決めた。

 書き終えた手紙を大切に封筒にしまい、みなもは着替えを持って部屋を離れた。

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