♡ 037 ♡

 駐輪場に置いていた自転車に跨がり、みなもは広香の家を目指して一心不乱にペダルを漕いだ。

 二人で何度か歩いた景色が、風のように流れていく。冬の冷たい空気で耳が凍ってしまうほどに冷やされた。

 広香のギターの旋律が、耳の中で鳴っていた。彼女の奏でた海や星空、ハートの飴の味が鮮明に映し出される。

 広香の生み出す世界を愛する想いは、みなもの中でずっと温かく灯っている。


 みなもは広香の家の前に自転車を停めて、ドアチャイムを鳴らした。しばらく待つと、玄関の扉がゆっくりと開き、部屋着に着替えた広香の姿が覗いた。

 広香は学校で見るのと同じように俯いていて、みなもの目を見ようとはしなかった。

「百瀬さん、どうしたの?」

 砂を噛むような乾いた声でそう言うと、みなもの足元辺りにふらふらと視線を泳がせた。その目には、前のような凛とした色も戻っていない。


「話がしたい。ちゃんと」

 そう言ってみなもは、彼女の伏せた瞼を真っ直ぐに見つめた。

 広香は躊躇いの末、小さなため息と共に扉を大きく開いた。


 広香の部屋は相変わらず綺麗に整頓されていたが、赤茶色のギターはケースに入ったまま、机に立てかけられていた。

 そのりんごのように赤いギターケースには、あの日のままの黒い傷が、くっきりと残っていた。


「ごめんね、突然来ちゃって」

「ううん、大丈夫」

 二人は広香のベッドに並んで腰掛けると、それはふんわりと身体を包み込むように沈んだ。

 広香はみなもから視線を外したまま、窓の外の雲を追っている。その静かな時間に、みなもは胸を締め付けられた。


「あのね、広香ちゃん。あの日のこと、ごめんなさい。わたしのせいで……」

「違う」


 広香はみなもの言葉を遮った。その声は震えていたが、氷のように冷たく、揺らがぬ意志を感じさせた。

「百瀬さんは何も悪くない。私が一緒にいたせいで、百瀬さんを傷つけちゃったんだよ」

 ようやく広香はみなもと目を合わせた。その瞳には涙が溜まり、瞼の淵に引っかかっている。


「私と一緒にいたら、また玲奈たちに目をつけられるかもしれない。百瀬さんが、また傷つけられるかもしれない」

 ぎゅっと手を握りしめ、広香は続けた。

「あの日のことが頭から離れなくて、ずっと怖いんだ。私の大切なものが、大切な人が傷つくのは……」

 広香は深く息を吸い込み、みなもの目の奥を真っ直ぐに見つめた。

「もう、わたしに関わるのはやめて」


「嫌だよ、そんなの」

 みなもは立ち上がり、広香を射抜くように見つめ返す。

「広香ちゃんがわたしのことを心配してるのはわかる。でも、わたしは広香ちゃんと一緒にいたい。わたしがそれを選びたいんだよ」

 広香は弾かれたようにみなもの視線から目を逸らして、ゆっくりと首を横に振った。

「ごめん。できない。またあの日みたいなことが起きたら、耐えられる自信がないの」


「嫌だよ。広香ちゃんがいなきゃ……」

 みなもは制服のスカートをくしゃくしゃに握りしめ、込み上がる涙を堪えた。

「ごめん。今日はちょっと体調が悪いから、また今度話そう」


 広香の虚ろな視線は、毛足の長いカーペットの上を這っている。みなもを拒絶するように伏せられた瞼を見て、これ以上彼女を追い詰めてはいけないと悟った。みなもは唇を強く噛み締め、広香の落とした視線の先を同じように目で追った。

 広香は静かな足取りで玄関までみなもを見送り、挨拶もないまま二人は別れた。

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