♡ 027 ♡

 十一月一日の朝。

 広香の母は財布から一万円札を取り出し、

「はい。今月もこれでよろしく」

 と財布を鞄に戻しながら、目も合わさずにそれを広香に差し出した。

「ありがとう」

 広香はその歓喜が声に混ざらないように喉を低く保ち、綻びそうになる頬を必死で抑えた。

「ちゃんと有意義に使いなさいよ」

 冷たい声でそう言うと、母はさっさとリビングから出て行った。


 ついに目標だった三万二千円に到達した。

 今日、ギターを手に入れることができる。我慢していた笑みが静かにこぼれ出た。

 その日の授業中、広香の魂は窓の外にあった。黒板の文字や教師の声は、遠い世界でぼんやりと流れている。

 今すぐにでもここを飛び出して楽器屋に走りたい衝動に、広香はひっそりと抗っていた。


 学校が終わると、広香は脇目も振らずに教室を飛び出し、駆け足で楽器屋を目指した。

 肩から落ちかけるスクールバッグも、走りにくいローファーも、ものともせずに走り抜ける。


 楽器屋の目の前で息を整え、中に入ると笠井と目が合った。

「いらっしゃいませ」

 広香は収まりきらない昂り押し込めて、短く「こんにちは」と挨拶した。

 そしてすぐにいつもの場所に目を向ける。赤茶色のギターは変わらず、そこで異質な存在感を放っていた。

 ボディに施された薄い艶出しの塗装に、店の暖かい照明が反射して、金星のように発光する。

「あの、笠井さん」

 と広香は名前を呼ぶだけで身体が強張り、喉の水分が一気に飛んでしまった。

 心臓が激しく高鳴り、身体の内側から打ちつけられるようで苦しい。思わず広香は胸を押さえる。


「このギターを買いたいんですが、まだメンテナンス中でしょうか?」

 値札のないそのギターを指差し、笠井に尋ねた。

「失礼しました。こちらのギター、すでにメンテナンス終了しております」

 笠井はそう言うと、弦の隙間に値札をすっと挟んだ。

「こちらをお買い上げでよろしいですか?」

「はい。お金がやっと貯まったんです」

 ギターを見つめたまま、広香はなるべく冷静にそう伝えた。


「ありがとうございます。畔倉さん、今までよく頑張りましたね。準備しますので、お掛けになってお待ちください」

 優しい声でそう言われ、広香は小さく「はい、ありがとうございます」と返し、ちらりと彼を見上げて軽く頭を下げた。

 笠井は店内のソファに広香を座らせ、赤茶色のギターを隣に立てた。そしてバックヤード一度戻り、ギターケースを持って帰ってきた。

 

「このギター、この価格帯なのになぜかケースがソフトハードだし、色も赤くて可愛いんですよ」

 嬉しそうにそう言い、向かい側のソファにその赤くてしっかりしたギターケースを寝かせて、笠井はまたその場を離れた。

 広香はギターケースを食い入るように見つめた。少し臙脂がかったりんごみたいな赤色のケースは、赤茶色のギターとよく似合っていた。

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