♡ 025 ♡
「この二本の弦を、この位置で押さえてみてください」
広香の左手側に店員が周り、中腰のまま弦を押さえてみせた。
それを真似て、広香も中指と薬指で上から二番目の弦と三番目の弦を押さえる。
「そのままこのピックで、こう上から下まで一気に下ろしてみてください」
店員がピックを弦の前で空振りする。
その小さな三角形の薄い板を受け取り、角の部分を使って言われるままに弦を撫で下ろした。
すると、重たく哀愁を含んだ和音が、広香の空っぽの胃の中に流れ込んだ。
「それがEマイナーっていうコードです」
「イー、マイナー?」
「何のことかわからないと思うんですけど、全然大丈夫です。聞きたいことがあったらいつでも来てください」
店員は笑顔が少なく無愛想だが、話し方も声も優しかった。
「ありがとうございます」
広香は軽く頭を下げ、慎重に両手でギターを差し出した。
「もういいんですか?」
と少し残念そうに受け取ると、店員はギターを抱えてしゃがみ込み、徐に演奏を始めた。
彼が弦を弾く度、軽やかに星が散った。巧みなメロディに広香は思わず拍手する。
「すごい、上手ですね」
「僕はもうギターを始めて八年目になります」
八年という途方もない道のりに、広香は息を呑む。
「でも初めてギターを持った日は、お客様と同じで何もわかりませんでしたから、大丈夫です。ギターへの愛情さえあれば、上手くなれます」
クロスでギターを拭きながら、彼はそう語った。
「お客様ならきっと大丈夫だと思いますよ。こう見えて僕は目利きがいいんです」
きょとんとする広香に、店員は今日一番の笑顔を見せた。そして「ぜひまた見に来てください」と声をかけて、ギターと一緒に店のバックヤードへ消えていった。
試奏用のアンプの上に残された値札を見ると、三万二千円の文字がそこに刻まれている。
——あともう少しだ。
広香はEマイナーの余韻にしばらく浸り、その場を後にした。
小さな店構えの楽器屋を何度か振り返りながら、軽い足取りで帰路についた。
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