♡ 014 ♡
午後の授業が始まり、みなもは広香にタクシー代を渡せなかったことを思い出した。頭の中に母親が現れて「ほらやっぱり忘れた」と眉を上げてバカにしてくる。
みなもの席から二列離れた左斜め前が広香の席だ。少しだけ覗く横顔をそっと眺める。早く広香との時間がほしかった。手元に残ったタクシー代が、また話しかけるための材料として役割を果たしてくれそうだ。
彼女は理系クラスでみなもは文系クラスなので、授業で一緒になるのは必修科目と選択芸術の時間だけだった。
広香のいない教室で受ける授業は、彼女の存在に気づく前の世界に戻ったように、何の味もせず、何の色もなかった。
いつもみなもが何となく一緒過ごしていた子たちはみんな文系クラスだったので、どの授業もほぼ同じ教室にいた。
群れから離れたからといって対応を変えるつもりは毛頭なかったけれど、目が合っても背けられ、笑いかけて手を振っても無反応で、いつも通りに接するのは不可能になった。
話す相手が誰もいなくなったので、脳のキャパシティをほとんど広香のために使った。
次はどんな話をしよう。放課後遊びに誘ってみようか。またギターを弾いてほしいな。
そうやって膨らむ期待を反芻していたら、あっという間に授業は終わった。
帰り支度をし、足早に教室を出て行った広香を追いかけようとみなもは急いで準備した。あまりの素早さに驚きつつ玄関へ走ると、柱に寄りかかった広香を見つけた。
みなもに気づくと彼女は顔をあげ、ひらっと手を振る。
「おつかれさま」
と彼女は言い、靴を下駄箱から取り出し、それに足を収めた。
「おつかれさま! 広香ちゃん、今日も一緒に帰ってもいい?」
みなもがぱっと笑顔を咲かせて言うと、
「家反対方向なのに、どうやって一緒に帰るの?」
と広香は困ったように笑った。そしてポケットに突っ込んでいた左手ごとスマホを取り出し、
「よかったら連絡先交換しよう」とみなもに向けて差し出した。
突然の申し出に理解が追いつかず、みなもは三秒くらいフリーズしてから、
「いいの!?」と大きな瞳をさらに見開いた。
嘘偽りなく真っ直ぐで、天真爛漫なみなもを見ていると、広香は子犬とじゃれ合っているような幸せを感じた。
「せっかく話すようになったのに、何もないのはなんか寂しいなって思ってさ」
みなもの日常に変化があったように、広香にも変化があった。
ギターのことでいっぱいになっていた広香の頭の真ん中に、目の前にいる彼女がぽつんと現れた。何よりもギターが大事で、ギターのために毎日を費やしていた。
勉強も友達も悩みもそっちのけで打ち込んできたギターに勝てるものなんて、この世に存在しないと思っていた。
でもその認識が、昨日を境に広香の中で少し変わってきていた。
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