第三章 第三話
面接から一夜明けた今日、わたしはいつものように重い気持ちで朝を迎えた。制服に着替える手も、ブレザーのボタンを留める指先も、ひどく冷たい。
昨日の出来事が、まだ鮮明に脳裏に焼き付いている。引き裂かれた履歴書と、面接官の視線と、「面接受ける資格無ーし!」という声が、怖くて、怖くて、忘れられない。
わたしはもう、一生「普通」にはなれないと、思った。
どうせ、朝にまた不採用通知が届くとおもう。思っていた。十九社も落ちたのだから、次ももう諦めるしかない。進路指導の先生には、正直にフリーターになるつもりだと伝えようか、それとも、もう誰にも何も言わず、こっそり姿を消してしまおうか。そんなことばかり考えていた。
重い足取りで学校に着き、自分の机に座ったとき、スマートフォンの通知が鳴った。
――ピコン。
差出人は、昨日面接を受けた、あの二十社目の家具会社だった。
「やっぱり来た……」
思わず小さくつぶやくと、心臓がどくりと大きく跳ねた。もう結果は多分……。分かっているのに、指が震えてメールを開くのをためらう。一分ほど画面を見つめたあと、意を決して、画面をタップした。
メールの件名には、事務的なタイトルが並んでいた。恐る恐る本文をスクロールしてゆく。多分また落ちている。何回経験しても慣れられない。どんなに丁寧に断られても、やはり傷つく。
けれど、目に飛び込んできたのは、予想とはまったく違う文字だった。
「採用内定のご通知」
え?
一瞬、理解できなかった。頭が真っ白になり、何度も何度も、その四文字を読み返した。
「採用内定」
間違いなく、内定と書いてある。
「……え、嘘……」
思わず声が漏れそうになり、慌てて口元を覆った。
あの面接で、履歴書を破られ、あんなにひどい仕打ちを受けたのに。普段より落ちると予感していたのに。
あれは試されていたのだろうか。それとも、単に人手不足で、誰でもよかったのだろうか。
理由はどうあれ、わたしは就職の内定を得たのだ。
これで、わたしはフリーターにならずに済む。クラスメイトたちと同じように、「就職」というレールに乗ることができる。
心の中で、安心が押し寄せてきた。これで、わたしは「普通」の社会に、ぎりぎり滑り込むことができたのだ。高校卒業後、どこにも就職できないという、最大の恐怖からは解放された。
けれど、その喜びや安堵は、すぐに別の、暗く冷たい感情に塗りつぶされてしまった。
内定のメールを読み進めながら、昨日の面接官たちの顔が、鮮明に思い出された。
大きな声でわたしを罵倒した面接官。
冷たい視線で腕を組んでいた面接官。
わたしの履歴書をゴミのように引き裂いた、「ビリビリッ」という音。
あれは一回の辛さでは終わらない。
あの会社は、最初からそんな体質なのだ。人を追い詰め、罵倒し、尊厳を踏みにじることを、平気でする会社なのだ。
入社した後のわたしは、毎日あの面接官のような上司たちに囲まれて働くことになる。少しでも仕事で失敗したら、「山吹さん、なんでこんなこともできないんですか!?」と、昨日と同じような言葉で詰められるのだろう。少しでもミスをしたら、また、何かの書類を目の前で破られるのかもしれない。
そして、またわたしは、怯えて、言い返すこともできずに、ただ立ち尽くすだけなのだろう。
内定をもらったという事実は、わたしをフリーターという底なし沼から救い出した──けれどその代わりに、わたしをパワハラ体質という、出口の見えない暗いトンネルの中に突き落としたようなものだった。
素直に「良かった」と喜べない。胸の奥に広がるのは、安堵よりも、これから始まる地獄のような日々に怯える、新しい種類の恐怖だった。
内定からしばらく経ち、卒業してすぐ入社前の合同研修が始まった。
この家具会社は、とにかく体育会系の気風が強いらしい。研修は朝から晩まで、大声での挨拶の練習や、企業理念の暗唱などで埋め尽くされていた。
「はい!もっと声を出して!山吹さん、聞こえませんよ!」
指導役の社員に言われるたび、わたしは必死で喉を絞り出して声を張り上げる。変に思われたくない。目立ちたくない。特に、暗くていじめられていた過去を持つわたしは、ここで少しでも「変」だと笑われることが、何よりも怖かった。
だから、わたしは必死に「明るい人間」を演じた。
大声で笑い、大きな声で「はい!」と返事をする。周りの同期たちに話しかけるときも、必要以上に高いトーンで、オーバーに笑顔を作った。それは、本当のわたしが絶対にしないことだ。まるで、別人格の人間を演じているようで、体中の神経がぴんと張りつめて、常に疲労感が抜けない。
そんな中で、一人の同期の女の子が、わたしの視界に入ってきた。名前は真依(まい)。研修ではいつもわたしの隣の席に座ることが多い。
真依も、わたしと同じように、必死で明るく振る舞っていた。大声で返事をして、笑顔で周りと話している。
けれど、ふとした瞬間に、その笑顔がひきつっている。
指導員が視線を外した一瞬、彼女は急に表情を失い、深くため息をつく。誰にも見られていない、と確信した瞬間に目の奥に、疲れと、わたしと同じ種類の怯えの色が浮かぶのだ。
「真依ちゃんも……辛いんだ」
わたしは、彼女のそんな姿を見て、胸の奥がざわついた。彼女は、わたしから見たら、社交的で、いかにも「普通」の女の子に見える。それなのに、彼女もこの研修の厳しさや、この会社特有の空気に、わたしと同じように押し潰されそうになっているのだ。
そして、その瞬間に、わたしの胸に強烈な不安が押し寄せた。
真依が、わたしと同じように「必死に明るく振る舞おうとして辛そう」に見えるのなら。
わたし自身も、周りの人たちから見て、同じように「辛そう」に見えているのではないだろうか。
わたしがどんなに完璧に「明るいわたし」を演じようとしても、わたしの内側の恐怖や暗さは、真依のひきつった笑顔のように、周りにも透けて見えているのではないだろうか。
そう思ったら、急に恐ろしくなった。
もし、わたしが「辛そう」に見えていたら、それを誰かに笑われるかもしれない。「山吹さん、顔が引きつっていますよ」と指摘されるかもしれない。
指摘されなくても、周りの人たちは、わたしを「あの子、無理してるな」「暗いくせに頑張ってるな」と、陰で笑っているかもしれない。過去のいじめの記憶が、一気に蘇ってくる。
わたしは、より一層、笑顔を深く、強く張り付けた。
「笑え。笑え。もっと自然に。もっと明るく。頑張らないと……」
それでも、その無理に作った笑顔の裏側で、わたしは真依の顔を見るたびに、鏡を見ているような気分になり、自分が本当に「普通」に紛れ込めているのか、それとも、ただ滑稽な仮面をかぶった変な人に見えているだけなのか、不安でたまらなくなるのだった。
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