第三章 第四話


三週間の地獄のような研修が終わり、わたしはようやく解放された──かもしれない。毎日、大声を出して、無理やり笑顔を作り続ける生活から逃れられた。けれど、それは本当の解放ではない。わたしには、この会社での新しい生活が待ち構えている。あの面接官たちが上司になるかもしれない場所だ。

配属先が告げられた日、わたしの心臓はまたしても早鐘を打った。

「山吹さんは、山道(やまみち)支店。それから、椎崎さんも、山道支店です」

指導員の声に、わたしは思わず隣にいた真依の顔を見た。真依も、驚いたように目を丸くしている。まさか、いつも辛そうな笑顔を張り付けていた真依と、同じ支店になるなんて。

不安と同時に、微かな期待が胸に芽生えた。真依なら、もしかしたら、わたしの「必死で明るく振る舞う」裏側の辛さを、少しは分かってくれるかもしれない。

配属が決まり、わたしは一人暮らしを始めることになった。実家からでは通えない距離ではないけれど、毎朝の満員電車と、過去の記憶を断ち切りたい気持ちがあって、思い切って団地の一室を借りた。築年数が古く、薄暗いけれど、家賃は格安だ。

真依は、「大叔母さんの家に住むことになったの」と少し困ったように笑って教えてくれた。彼女は、親戚の家に身を寄せるという、わたしとは違う形で新しい生活を始めるらしい。

引っ越しを終えて支店に初出勤するまでの間、わたしは真依との関係について考えていた。

研修中、わたしは真依のふとした瞬間の表情から、彼女もまた無理をしていることを察した。ということは、真依もわたしと同じように、周りの人間がどれだけ本心とは違う顔を張り付けているか、敏感に感じ取れる人なのかもしれない。

わたしが必死で隠している、あの本当の暗さが、真依には見えてしまっているのではないか。

そう思うと、背筋が寒くなる。わたしがどんなに「普通」を装っても、真依のあの「見抜くような目」には、わたしの内側の恐怖や、過去のいじめの記憶が、すべて透けて見えているのではないだろうか。

わたしは真依ちゃんの辛さを、あのひきつった笑顔の奥にある孤独を、はっきりと見てしまったから。同じように、彼女もわたしの闇を見ているかもしれない。そう思うと怖かった。

新しく住み始めた団地は、どこかじめっとしていて、常に薄暗い影が落ちているようだった。

わたしの部屋は一階の隅。窓の外には雑草が生い茂り、昼間でも電灯をつけなければ薄暗い。

ここで生活するのは、正直、気が滅入る。しかし、それ以上に気になることがあった。

引っ越しの挨拶に来た団地の管理人が、小声でわたしに言ったのだ。


「あの、お向かいや隣の方とは、普通にご挨拶してくださって構いませんが……。真上の部屋は、あまり気にしなくていいですからね」


その言葉の裏側にあるものを、すぐに察した。

夜になると、団地の住民たちの間で囁かれている噂が、わたしの耳にも入ってきた。

「わたしの真上の部屋は、事故物件らしい」

以前、そこで人が亡くなったというのだ。それも、あまり穏やかではない形で。

わたしの部屋では、特に何も起こらない。誰もいないはずの真上の部屋から、物音が聞こえることもない。ただ、その事実を知っているだけで、夜中に目を覚ますと、天井の向こうに、重い空気の塊が張り付いているような気がして、なかなか寝付けなかった。しかし、その恐怖も、会社での新しい生活への不安に比べれば、まだ耐えられるものだった。



今日、山道支店での勤務が始まった。

支店に配属されたのは、わたしと真依を含めて五人。そのうちの三人、特に同じ部署になった恵理と岬は、本当に明るい子たちだった。わたしや真依のように画しているそぶりがない。

「わー!って、本当に話しやすいね!ノリがいい!」

「真依ちゃんもね!私たちで、この支店を明るくしていこうね!」

彼女たちの笑顔は、太陽のように明るい。心底から、この仕事を楽しみにしている、という雰囲気が全身から溢れていた。

彼女たちと話していると、疲れる。

彼女たちの「本当に明るい」光のそばにいると、わたしが必死で張り付けている「明るいわたし」の仮面が、途端に薄っぺらく、偽物に見えてしまうのだ。

わたしも、本当はあんな風に笑いたい。

そう思うけれど、過去の恐怖がそれを許さない。もし、わたしが心から笑って、失敗でもしてしまったら、その瞬間に彼女たちの「普通」の輪から弾き出されてしまう気がする。

だから、わたしは、彼女たちとは一線を引いてしまう。

わたしは、真依と仲良くなりたいと思った。

真依なら、わたしと同じように「無理をしている」ことを知っている。わたしと彼女の間には、明るい子たちには見えない、暗い秘密の共有がある気がしていた。彼女となら、この張り詰めた空気の中で、少しだけ素の自分に戻れるかもしれない。

昼休み、わたしは勇気を出して、真依に話しかけた。

「ねえ、真依ちゃん。研修、本当に大変だったよね。わたし、毎日クタクタで……」

努めて明るく、共感を求めるように言ってみた。

すると、真依は、こちらに視線を向けず、弁当の蓋を閉めながら、ただ一言、素っ気なく答えた。

「あ、そう……だね」

それだけだった。その声には、何の感情もこもっていないように聞こえた。

わたしは、言葉を失った。

その後も、何度か真依に話しかけようとしたけれど、彼女はいつも上の空で、質問に最低限答えるだけで会話を終わらせてしまう。恵理や岬と話すときは、嘘でも明るく笑っているのに。

どうして……?

わたしは不安でいっぱいになった。

もしかして、真依は、わたしのことを避けているのではないだろうか。研修中にわたしが見た、あのひきつった笑顔の真意は、「わたしなんかと一緒にしないで」という拒絶のサインだったのではないだろうか。

わたしが「普通」に振る舞おうとしているのに、真依は、わたしのことを「普通じゃない」と見抜いて、関わりたくないと思っているのではないか。

わたしは、また一人ぼっちだ。この会社の中でも、誰にも本心を見せられずに、息を殺して生きるしかない。

団地の暗さ、真上の事故物件の不気味さ。そのすべてが、わたしという存在の孤独を、じっと見つめているような気がしてならなかった。わたしは、どこへ行っても、暗い影を背負ったままなのだ。


人はそんなに簡単に変われない。

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