第二章 第四話

美花に案内された部屋は、座敷のすぐ隣にあった。

美花は、わたしの荷物が置かれた床を指差して感情が読み取れない声で「布団は押し入れにあるから、自分で敷いて」とだけ言って、さっさと台所の方へ行った。その無関心で、わたしを「ここに住まわせてもらっている厄介者」という立場に立たせている気がして、胸がチクチクと痛んだ。

わたしは、重たいスーツケースを開ける前に、部屋の様子を見渡した。六畳ほどの広さで、陽当たりは悪くない。しかし、この部屋の雰囲気を決定づけているものがあった。

部屋の壁一面に、棚が据え付けられている。そして、その棚の全部に、日本人形が並べられていたのだ。

一体、何体あるのだろう。パッと見て二十体か、三十体はあるように見える。

お雛様のような華やかなものや、中には髪の毛が伸びているように見える、薄気味の悪い人形までが、無造作に並べられていた。


その日本人形の全部が、わたしに対して、無言の視線を投げかけているように感じられた。どの人形も、表情は微笑んでいるのに、視線は、どこか遠くを見つめていて、感情が読み取れない。その無機質な視線が急に気になりだしてぞっとした。

「怖い……」

わたしは、思わず呟いていた。

夜、この部屋で一人で寝られるだろうか。暗闇の中で、人形たちの無数の視線に晒されることを想像すると、心臓が潰されそうに鼓動した。

わたしは、気味の悪い部屋から逃げたい一心で、廊下を歩く大叔母の姿を見つけると駆け寄った。

「おばあちゃん、あのね、わたしの部屋に、人形がたくさんあって、夜眠れそうにないの。なんだか、怖くて……」

わたしは、顔を曇らせ、恐る恐る頼んだ。大叔母は、わたしの言葉を聞くと、少しだけ驚いたような顔をしたけれど、すぐにいつもの穏やかな表情に戻った。

「ああ、あれはね、ご先祖さんが置いていったものなんだよ。お部屋を変えたいのね」


大叔母の優しい言葉に、わたしは少しだけ安堵した。部屋を変えられる。そう思って、次の言葉を待った。

「でもね、真依ちゃん。この家は、見かけによらず、もう空いている部屋がないんだよ」

大叔母は、優しくわたしの頼みを断った。

「部屋がないの?」

わたしはびっくりとした。

この家は、平屋建てだけれどかなり大きい日本家屋だ。座敷は何畳あるのかもわからないほど広く、廊下も長く続いている。二階はないけれど、奥の方には、使われていないような部屋がいくつもあるはずだ。幼い頃、わたしは好奇心で奥の部屋を覗きに行ったことがあった。


その時、大叔母に「あそこは入っちゃだめよ」と、静かに叱られた記憶が蘇る。

こんなに広い家に、空いている部屋がないはずがない。

大叔母は、わたしが怖がっていることを知っていながら、なぜ嘘をつくのだろう。それとも、わたしが入れない、特別な理由のある部屋しか、本当に空いていないということなのだろうか。

「あの人形たちが怖い」という、わたしの感情は、大叔母にとっては「わがまま」として処理されてしまった。母の仮病のように、わたしの不安は、また誰にも受け止めてもらえなかった。

わたしは絶望に襲われた。この家でも、誰にも本音を話せない、孤独な生活が始まるのだ。

落胆したわたしは、いてもたってもいられなくなった。

部屋がないという大叔母の言葉が、わたしの心の中で、大きな疑問符となって膨れ上がっている。この家には、何か隠された秘密があるかもしれない。幼い頃、入ることを禁止された、奥の部屋に何があったか思い出そうとするけれど、記憶はぼやけて思い出せない。



わたしは、誰にも見つからないように、そっと廊下に出た。美花は台所で夕食の準備をしているようで、カチャカチャという皿の音が聞こえる。大叔母は、縁側でお茶を飲んでいる。

わたしは、廊下の木材が「ギシ、ギシ」と軋む音に、心臓をドキドキさせながら、忍び足で奥に向かった。古い木の匂いが、鼻を衝く。

廊下の突き当たり、右側に、わたしが昔入ることを禁止された部屋があった。


子供に汚されては行けないから入れなかったとも考えられるけれど、わたしは不安になっている。

その部屋の引き戸は、他の部屋の引き戸よりも、少しだけ色が濃くて古い。家が立った時から取り換えられていないのだと思う。


引き戸には鍵がかかっていないようだった。

わたしは、一瞬、立ち止まる。

「見てはいけない」という、幼い頃のわたしに植え付けられた禁止の言葉が、頭の中で繰り返される。けれど、わたしはもう、高校を卒業し、社会に出ようとしている大人だ。


本当に部屋がないのかが気になるのを、忘れられなかった。

震える指先で、引き戸を横に滑らせる。

部屋の中を見た瞬間、わたしは息を飲んだ。

そこは、仏壇で埋め尽くされていた。

普通の家のように、一つや二つではない。部屋の壁という壁、棚という棚に、小さなものから大きなものまで、何十もの仏壇が並べられている。

わたしはそれを見て、怖い気持ちに支配された。見たくないとも思うのに、みてしまう。

仏壇の黒く、重たい木の色が、部屋全体の光を吸い込んでいる。


線香の匂いはしないから、しばらく放置されているのだろう。ただ、冷たく、重苦しい空気が、部屋全体に沈殿していた。

しかも、その仏壇一つ一つにも、日本人形が添えられていた。わたしの部屋にいた人形と、同じような日本人形だ。人形たちは、皆無言で、仏壇の奥に飾られた写真を見つめている。

わたしは、恐る恐る、一つの仏壇の奥にある写真に目をやった。

そこに飾られていたのは、わたしとほとんど同じくらいの、十八歳くらいの女の子の写真だった。髪型も、着ている洋服も、時代によってバラバラだ。平成くらいに見えるものから、昭和、大正、色が褪せて、明治時代くらいに撮られたのではないかと思えるものまである。

わたしは、別の仏壇、また別の仏壇と、次々に写真を見ていった。


この部屋にある、ほとんどの仏壇の写真の人は、わたしとほぼ同じ年代に見える、若い女性だった。

死んだ時に三歳だった美花の娘、花苗の写真も、美花の夫の写真も見当たらない。

なんで、こんなにたくさんの、若い女性の仏壇が、この家に集められているのだろう。この仏壇の女性たちは、なんで死んでしまったのだろうか。

異常な光景を見て、わたしの喉がごくんと上下する。


わたしは、見てはいけないものを見てしまったと直感した。



急に、奥から「真依ちゃん?」と、大叔母の呼ぶ声がした。わたしは、パニックになって、冷や汗が瞬時に吹き出す。


この部屋にいることを知られたら、何を言われるか分からない。

わたしは、背筋に冷たい汗を感じながら、音を立てないように引き戸を閉め、自分の部屋に逃げ帰った。



部屋の引き戸を開けると、壁一面に並べられた人形が、一斉に、ばっと、わたしを見た気がした。さっき変なものを見たせいで、気のせいだとは思えなくて、怖くて仕方がなかった。


外から差し込む夕方の光が、二〜三十体の人形の長い影を部屋に落としている。わたしは、その影の中に、美花の冷たい視線が潜んでいるような気がして、全身が震え上がった。

わたしは、誰にも言えない恐怖を抱え、この人形たちに囲まれた部屋で、今日から眠らないといけないのだ。

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