第二章 第三話

大叔母の「よくきたね」という言葉の直後に、薄暗い家の奥から響いた「やっと来た」という声。

その声を出した誰かを探すように、わたしは座敷の入り口で立ち尽くしていた。大叔母は、わたしの硬直した様子に気づかないで、わたしの荷物を運んであげようと、スーツケースに手をかけている。

そのとき、玄関の引き戸が、乱暴にガラッと開く音がした。

「帰ったよー」

ドタドタと、廊下を大股で歩く、少し乱暴な足音だ。その足音とともに、無理やり押し出したような、少し甲高い、明るい女性の声が響いた。


彼女の声は、静かで重たい家の中では、あまりにも浮いて聞こえる。

美花だ。

わたしは、瞬間的に全身が硬直するのを感じた。心臓が、ドクドクと警鐘を鳴らし、全身の血液が、底冷えするほど冷たくなった。

大叔母は、美花の帰宅に気づき、穏やかな口調で答えている。


「あら美花さん、おかえりなのね。真依ちゃんが来ましたよ」


美花は、奥の座敷へ入るなり、その場に立っていたわたしの顔を見た。

美花の顔は、当時とほとんど変わっていないように見える。十九歳で都会からこの家に来た彼女は、今も当時と同じく、明るい色のトップスに、細身のパンツという、この古びた日本家屋には不似合いな華やかさだ。ただ、その華やかさの奥に、何か冷たいものが張り付いているような気がした。夫と娘を亡くした悲しみと、大叔母への複雑な感情。その全部を、この家は包み込み、そして、押し潰そうとしているように見えた。

わたしは、美花の目に映るわたしの姿が、厄介者や、歓迎されない存在だと、無言で指さされるのを覚悟した。

過去の記憶の通り、冷たい、軽蔑に満ちた視線が、わたしを射抜くのを待った。


けれど、美花は、以外にも笑ったのだった。


その笑顔は、なんの変哲もない、普通の、社交辞令のように見える。


「あ、真依。わたしのこと覚えてる?」


呆然と見ていると、美花は感情がこもっているの貝ないのかも分からないふつうの挨拶をした。

彼女の口調も、ごく普通で、わたしが想像していたような、冷たさや苛立ち、あるいは憎しみを滲ませたものではない。

「久しぶり」

そう言って、美花は少しだけわたしに近づいてきた。

その、あまりにも普通な美花の態度が、逆にわたしは怖く感じる。

彼女のこの「普通さ」は、十一年前、わたしの心に深い傷を負わせた、あの時の「ずる賢さ」と同じ匂いがしたのだ。



あの頃の記憶が、鮮明に脳裏にフラッシュバックする。


わたしが小学校二年生で、母がもうすぐ退院するくらいの頃、美花は、わたしに小さな飴玉をくれた。

「誰も見てないから、こっそり食べてよね」と、わたしだけに耳打ちして、わたしの手に乗せた感覚が今でも忘れられない。


しかし、それはあたたかい記憶には終わらなかった。


わたしは、初めてもらった美花からの「プレゼント」に、心から喜んだ。

けれど、その日の夕食後、大叔母が冷蔵庫を開け、「あら、美花さんが作ってくれたケーキが少し減っているわね」と、不思議そうに言った。

その瞬間、美花は大叔母の目をじっと感情が見えない目で見た。

「真依が、おばあちゃんに内緒で食べたんだよ。あたし、見たもん」


わたしは、全身から血の気が引くのを感じた。

「ちがう!わたしじゃない!美花ちゃんが食べてたのを見たもん!」

必死に訴えた。だけれども、大叔母は、わたしが食べたのに、美花に罪をなすりつけようとしていると思ったのだろう。

わたしの嘘だと思ったのだとおもう。

「真依ちゃん、美花さんが食べてたなんて、そんなひどいこと言っちゃだめよ。美花さんはそんなことしないでしょう」

大叔母の穏やかで否定的な声が、わたしに何分も降り注ぐ。

大叔母は優しいけれど結構しつこいな、と子供ながらに思った。美花は、わたしが大叔母に叱られている間、ただ静かに、冷たい目でわたしを見つめていた。

その視線は、わたしを「嘘つき」「厄介者」だと、無言で指さしている。

美花が食べた、という事実は、わたしには揺るぎないものだった。それにもかかわらず、わたしの「本当」は、この家では「嘘」として、簡単に塗り替えられた。美花の「普通」の笑顔と、罪をなすりつける「ずる賢さ」によって、わたしは怒られたのだ。


わたしは、あの時の恐怖と絶望を、今も鮮明に覚えている。

忘れたいのに、十一年経っても忘れられないわたしはあの日の大叔母より粘着質なのだろうか。

大叔母への恩があるから、母の都合があるから、この家に帰ってきた。

けれど、その家には、わたしの存在そのものを否定する、悪意に満ちた「普通」の顔が、潜んでいるのだ。

「美花ちゃん、久しぶり」

わたしは、そんなことを微塵も考えていないふりをして、精一杯の「普通」の笑顔を作った。心の中の感情が、少しでも表情筋の緩みとして美花に伝わってしまうことが、何よりも怖かった。美花は、わたしの内面を、昔と同じように、たった一瞬の視線で全て見透かし、そして、わたしの知らないところで、悪意を仕掛けてくるのではないか。


考えが一段落した時、わたしは、もう一つの恐怖に襲われた。

わたしが玄関で聞いた「やっと来た」という声。

美花が「帰ったよー」と言った、あの無理に明るい声と、その「やっと来た」という声のトーンを、頭の中で必死に比較する。

絶対に違う。

美花の声は、甲高く、少しヒステリックな声だ。けれど、あの「やっと来た」という声は、もっと低く、ねっとりとして、まるで地の底から湧き上がってくるような、わたしの耳元で囁かれたような、ゾッとするような響きを持っていた。

美花がいくら低くてねっとりとした声を出したとしても、絶対に違う。


ただ、「やっと来た」という声は、わたしをこの場所に誘い込んだ、「来い」という声とは完全に似ていた。


美花の声ではなくて、大叔母の声でもない。

それなら一体、誰の声なのだろうか。

美花は、夫と娘を亡くしている。その悲しみと、大叔母への憎しみが、この家の中に、何かの「影」や「よどみ」となって、渦巻いているのだろうか。

それとも、それは本当に幻聴なのだろうか。

わたしの就職活動での挫折、母からの拒絶、真由先輩からの叱責。その全部の重圧が、わたしの神経を、限界まで過敏にさせているのかもしれない。わたしの弱さが、勝手に作り出した声なのだろうか。

「わたしがこんな風になったのは、ママのせいだ」と、わたしは心の中で叫んでしまう。自分のずるさや弱さから目を逸らせるからだ。けれど、この「声」は、わたしの弱さというよりは、わたしをこの家に誘い込もうとする、もっと強い「意思」を持っているように感じられた。

わたしの目の前に立つ美花は、わたしの作った「普通」の笑顔を、品定めするように見つめている。その目は、昔の冷たい視線とは違い、感情を押し殺したような、無機質な光を放っていた。

「わたし、真依の部屋、準備しておいたから。座敷の隣の、あの部屋よ」

美花はそう言って、くるりと背を向けて、台所の方へ向かった。彼女の背中は、わたしに対して、何の感情も抱いていないように見える。けれど、その「無関心」が、わたしの心を深く抉った。

わたしは、この「普通」の裏に隠された美花の悪意と、この家全体に漂う「声」の正体という、二つの恐怖を抱えながら、この家で生活を始めなければいけないのだ。

わたしの胸の奥底で、孤独と絶望が、冷たい水のように、音もなく広がっていった。

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