第二章 第二話

四月一日。

世間では、新しい生活の始まりを告げる、晴れやかな日だというのに、わたしの足取りは鉛のように重い。今日から、わたしはあの家に住み、社会人としての一歩を踏み出す。

家を出る前、母は「これでよかった」と、心底安心したような顔でわたしを見送った。母の顔は、わたしが遠方へ行くことで、自分の重荷が取り除かれたという安堵で満ちていた。その事実に、わたしの胸はまたズキリと痛む。母の安堵の笑顔が、わたしをあの家へ押し込めた、最大の要因だ。



電車とバスを乗り継ぎ、三時間半。

それでも早い方だと言う。真由先輩は、四時間以上かかると言っていたから、心の準備ができていない時に着いてしまった。


バスを降りた場所から、重たいスーツケースを引きずって、見慣れた、そして見慣れたくない一本道を歩く。あたりには、まだ肌寒い初春の風が吹いている。

そして、その一軒家は、唐突に目の前に現れた。

わたしが幼い頃に預けられていた、大叔母の家は、今もたしかにここにある。

高い生垣に囲まれて、外からはほとんど中の様子が見えない。敷地の砂利道に足を踏み入れると、「ジャリ、ジャリ」と、乾いた音が響いた。当時の記憶と同じ、湿った土の匂いが、ぷーんと立ちこめた。

傾いた陽の光が凸凹の地面を滑り、わたしの影を刻む。


砂利道の音をきいて、この家での二年間を封印しようとして、封印できなかった記憶を全部思い出した。


家自体は、なんの飾り気もない、古びた大きな日本家屋だ。大きな瓦屋根は、重たく、この家全体に影を落としているように見える。縁側に面したガラス戸の木枠は太くて、昼間の光すら遮って、家の中の暗さを守っているようだった。


「ただいま……って、言えないな」


わたしは、喉の奥でそっと呟いた。

ガラスの引き戸を開け、玄関に立つ。木材が古く、長年の湿気を含んでいるような、独特の木の匂いが鼻をついた。


奥からは、微かに味噌汁の香りがしている。


「おばあちゃん、わたし。来たよ」


わたしは、なるべく明るい声を出すよう努めた。社会人として、新しい生活を始めるのだから、もう昔のように怯えてはいけない。

そう、自分に言い聞かせる。

奥から、誰かが廊下を歩く音が聞こえてきた。「ギシ、ギシ」と、木材が軋む、聞き覚えのある音とかさなった。

まるで、大叔母の家が、わたしの帰宅を不満げに文句を言っているようだ。

いや、もう、わたしの家だ。

そう思って、また憂鬱になる。

現れたのは、大叔母だった。

「真依、よく来たね」

大叔母は、八十歳を超えているはずなのに、母が言っていたように「転びやすくなった」ようには微塵も思えないほど、矍鑠(かくしゃく)としていた。

わたしがすんでいたころとおなじように、上品な着物を着ていて、静かに微笑んでいる。その笑顔は、幼いわたしに優しく接してくれた、あの頃のままだった。

「おばあちゃん、お久しぶり。」

わたしは、何とか笑顔でそういった。この家に来るまでの、重苦しい気持ちを、無理やり笑顔の下に押し込める。

大叔母は「よくきたね」と、穏やかに答えた。その声は、心の底からわたしの到着を喜んでいるように聞こえる。


その温かい歓迎に、張り詰めていたわたしの胸の糸が、少しだけ緩む。


大叔母の「よくきたね」という声の直後、家の中の、どこか薄暗い空間から、別の声が響いたような気がした。

それは、女性の声だった。低く、ねっとりと、空間の隅々から湧き上がってくるような声なのに、大叔母を通り過ぎて全部わたしの耳に集まる。

「やっと来た」

その言葉は、まるでわたしという存在の到着を、ずっと前から、首を長くして待っていたような響きを伴っていた。

わたしの全身が、ビクッと硬直した。

この声は、面接で打ちのめされて、疲れて帰る夜道で聞いた、あの囁きと全く同じだ。「来い」と、わたしをこの場所に誘った声とおなじだとおもった。


「……気のせい……?」


わたしは、大叔母の顔を反射的に見上げた。大叔母は、ただ穏やかに微笑んでいるだけで、その声を聞いた様子はない。もしかしたら、この家の古びた木材が、風に揺れて軋んだ音だったのかもしれない。疲労が、わたしに幻聴を聞かせているのかもしれない。

わたしは、すぐに顔を正面に戻した。けれど、一度聞こえてしまった声は、頭の中で反芻され続ける。

「やっと来た」

誰が、何が、わたしを待っていたというのだろう。

美花だろうか。

十一年が経って声が変わったのも考えられなくもないけれど、あの頃の美花の声とは似ても似つかない。


そういえば、この家にいるはずの、美花の姿はまだ見えない。大叔母の息子夫婦が亡くなったという重い事実を背負い、憎しみと孤独の中で生きているはずの美花の冷たい視線に、わたしはもう怯えたくない。

わたしは、何とか平静を装おうと、重たいスーツケースを引いて、廊下へ上がった。

「ギシ、ギシ」

廊下の床が、わたしの体重を支えきれないとばかりに、低く唸る。その音を聞くたびに、わたしの心の奥底が締め付けられた。この家は、わたしの存在を嫌がっている。

あの時と何も変わらない。

「真依ちゃん、荷物は一旦、座敷にでも置いたらいいよ。座敷は広いからね」

大叔母は、わたしに家の中央にある、薄暗い座敷を指し示した。昼間でも隅に影が溜まっている、何畳あるのかも分からない、あの広い空間も変わらない。

その座敷が、わたしを、丸ごと飲み込もうと口を開けているように見えた。


わたしは、ここにあと何年暮らすのだろうか。


就職は、社会人としての自立を意味するはずだった。それなのに、わたしは社会から一番遠い「山道支店」に追いやられ、家からは、母の都合という名前の恩によって、この家に閉じ込められた。

社会で無能だと否定され、家庭で拒絶された末にたどり着いた場所が、この家だった。


誰にも頼れない。逃げられない。


わたしは、自分の限界を勝手に決めて線を引いて、自分の居場所を壊して行った代償で、

今はこの家という大きな線の中に閉じ込められてしまった。


「やっと来た」という声の主が、美花でも幻聴でも関係ない。

わたしの人生は、もう誰かの都合の良い流れに押し流されて、自分の意思とは関係なく、一番悪い場所で、孤独な生活を強要されるのだ。

わたしは、重たいカバンのストラップを強く握りしめた。そのカバンの重みは、これから課せられる、わたしの孤独と絶望の重さそのもののように感じられた。

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