第二章
椎崎 真依
第二章 第一話
「おばさん、うん、いま真依の会社から聞いたんだけどね。真依が山道の支店に行くんだ みたい。叔母さんち近いでしょ?あ、また連絡するね」
家に帰り、玄関のドアを開けた途端、リビングから母の声が聞こえた。電話を切ったばかりなのか、受話器を置く「カチャン」という乾いた音が、静まり返った家の中に響いている。
配属先を告げられた日から、わたしの心臓は常に重たい警鐘を鳴らし続けている。研修最終日の前日、真由先輩から告げられた「山道(やまのみち)支店」という地名は、わたしを社会の隅っこへ追いやる、運命の宣告のように聞こえる。
電車で三時間、バスで一時間の山間部にある古い倉庫。
そこへ、わたしは四月一日から行くことになる。
リビングに入ると、母はわたしに気づいて、慌てたように笑顔を作った。
「あ、真依。ねえ、さっき、会社の方から連絡があってね。真依の配属先、山道支店になったんだって?」
母の声は、心から安堵しているような、少し上ずった声だった。その声を聞いただけで、わたしはすぐに理解できた。母は、わたしが遠いところに行くことで、自分の不安の種が一つ取り除かれたと感じているのだ。
わたしが側にいる限り、母はわたしという将来が不安な娘を気にかけ続けなければいけない。わたしがいなくなることは、母にとって、何よりも大きな安堵なのだとおもう。
それは仮病を繰り返し、わたしの話を聞くことから逃げ続けた母の、本心なのだと、わたしは気づいてしまった。
「うん、そうだよ。なんで、ママが知ってるの?」
わたしが、なきそうな声でそう問い返すと、母は少しだけ困ったように首を傾げている。
「えっとね、会社から配属の連絡があったときに、ついでに連絡先として実家の電話番号を伝えていたから、って。ねえ、山道支店って、あっちの方でしょう?」
母の指先が、何もない空間を指した。「あっちの方」という一言で、わたしの心の奥底に沈んでいた、もう思い出したくもない苦い記憶が、一気に水面に浮上してくる。
わたしが小学校の低学年の頃、母が二年ほど入院していた間、わたしを預けられていた、大叔母の家が、気がつけば目の前にあった。
電車とバスを乗り継いで三時間かかる、遠い田舎の古い薄暗い日本家屋だ。
「うん……そうかもね。多分その辺だと思う。大叔母さんの家があるところな気もする。」
わたしは、息ができないのを感じながら、なんとか答えた。
古くて、歩くたびに廊下が発した「ギシギシ」という音が、耳元で響いた気がした。
思わず、耳を塞ぎたくなる。
わたしは四月から、その近くに行かないといけないのだ。
怖い。怖い。怖い。
あそこにいったら、わたしは壊れてしまうような気がした。
高い生垣に囲まれて、昼間でも影がたまり、わたしを無言で睨みつける美花の冷たい視線に怯えて過ごした、悪夢のような二年間。
その近くの場所が、今度はわたしの新しい生活の舞台になる。そう考えると、全身の血液が冷たくなった。
「さっきね、大叔母さんに電話してたの。会社から山道って聞いて、まさかと思ってね。そしたら、やっぱりかなり近いみたい。真依が働くことになる支店は、大叔母さんの家から、歩いて行ける距離じゃないけど、すごく近い場所なんだって」
母は、突然、興奮したようにわたしの手を取った。
わたしの全身から血の気が引く一方で、母の手が、やけに熱く感じた。
「ねえ、真依!」
母は、何かすごいプレゼントを貰ったように目を輝かせた。その表情を見て、わたしの胸は嫌な予感でざわつく。
「大叔母さんがね、最近よく転ぶんだって。一人で住んでるから、危ないって本人も心配してて。美花ちゃんはいるんだけど……ちょっとね、色々あって」
わたしは、反射的に口を挟んだ。
「それでもさ、美花ちゃんがいるでしょ?大叔母さんのお世話は、美花ちゃんがすればいいじゃん。わたし、会社の人にも『一人暮らしします』って言っちゃったし」
わたしの心には、美花への恐怖がこびりついている。わたしが美花のいる大叔母の家にまた住むなんて、考えたくもなかった。
「美花ちゃんね……」
母は、そこで一旦言葉を切った。母の声には、少しの躊躇と、暗い影が混ざっている。
「実は、美花ちゃんの娘の
わたしは、言葉を失った。高校生の頃に一度だけ、お盆のときに見た、少し大人びている花苗の顔を思い出した。
「どうして……?」
「それがね、大叔母さんが、ちょっと不注意でね……あの、詳しくは聞いてないけど、大叔母さんの不注意が原因で、二人が事故で亡くなったんだって。だから、美花ちゃん、大叔母さんのことを責めてはないけど、やっぱりね……心から優しくなんてできないでしょ?今も同じ家に住んではいるけど、ほとんど顔を合わせていないみたいだよ」
その話を聞いた瞬間、わたしの脳裏に、幼少期に見た美花の冷たい視線がフラッシュバックした。
わたしを睨みつける冷たい視線をどこからが感じた気がする。
彼女の視線は、わたしという厄介者に向けられていたけれど、今は大叔母にも向けられているのかもしれない。
そして、その憎しみが、美花の家族を奪ったという、さらに重い事実の上で、今はあの家に燻っているのだ。
母は、わたしの顔色を伺いながら、優しい口調で畳みかけた。
「ね、真依。大叔母さんには、二年も本当にお世話になったでしょ?病気でわたしが家を空けてた間、真依を育ててくれたよね。その恩返しだと思って、向こうの家で暮らしてあげてほしいの。美花ちゃんの負担も少しは減るし、何より、真依も一人暮らししなくて済むんだから、いいことづくめじゃない」
一人暮らししなくて済むというのは、一瞬いいもののように見えた。
けれど、そのメリットは、美花の冷たい視線と、あの薄暗い家での孤独を再び味わうという、恐ろしい代償の上に成り立っている。
「でも……」
わたしが反論しようとすると、母はさらに言葉を重ねた。
「会社には、ママから連絡しておくから大丈夫だよ。真依がそばにいてくれたら、大叔母さんも安心するでしょ?真依も、遠い場所で一人で暮らすよりも、絶対いいよね。大叔母さんにお世話になったでしょ」
わたしが言い返せないのは、母の言う通り、幼い頃、大叔母には優しくしてもらったという事実があるからだ。あの家での記憶は、孤独と美花の視線による恐怖が大部分を占めているけれど、それでも、大叔母の優しさは、確かにあった。
その恩を、母は持ち出してきたのだ。いっその事、大叔母に優しくされていなければ良かったかもしれないと思った。
何より、母の表情が、わたしに従わせようとしている。わたしがこの提案を断れば、母はまた、わたしの将来への不安という重荷を背負うことになる。そして、また、突然「胃が痛い」と言って、わたしから逃げ出すのだろう。
わたしは、母の顔色を伺い、母の不安を取り除きたいという、ねじれた愛情と優しさから、この提案を拒否することができなかった。
「……分かったよ」
わたしが諦めにも似た声でそう答えると、母の顔に安堵の表情が広がる。
「真依、そうと決まれば、早く準備しないとね。三日後の四月一日から引っ越しだよね!ちょうど、研修が終わってすぐでよかったね。」
母は、わたしの準備を手伝い始めた。わたしの意見は、もう完全に無視され、母の都合と、欲しくもなかった恩で、わたしの新しい生活の場所は、勝手に決められてしまった。
わたしは、数日後には、あの古い日本家屋に戻る。美花の冷たい視線と、廊下の「ギシギシ」という軋む音、そしてわたしの自己嫌悪を増幅させるような、あの薄暗い家に行かないといけない。
わたしは、リビングの片隅に立ち尽くして、重たい空気を吸い込むことしかできなかった。これでわたしは春から、あの家と山道支店の二つの場所に、閉じ込められてしまうのだ。
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