第一章 第五話
三月、本社研修が始まってから、もう二週間半が過ぎた。残された日数は、たったの三日。
この三週間、わたしは自分をだまし続けた。真由先輩の冷たい指導に耐え、早絢の無邪気な明るさに怯えながら、目の前の作業だけをこなす機械のように振る舞った。
朝は始業一時間前に出社しなくては行けないし、昨日出た課題の答えを、心臓を締め付けられながら真由先輩に報告する。その準備のために、夜は家に帰っても参考書と睨めっこだ。
この生活が、もうすぐ終わる。そう思うと、体の奥底にある緊張の糸が、少しずつ弛緩してゆくのを感じる。
けれど、その弛緩は、全然安堵ではなかった。三日後、この研修生活が終わると同時に、わたしを待ち受けている、最も大きな現実が、すぐそこまで迫っているからだ。
それは、配属先。
わたしたち新卒の配属先は、研修最終日の前日、つまり明日の午前中に発表されることになっていた。この会社の内定をもらった瞬間から、わたしの心の奥底に沈殿していた、黒い不安の塊が、今から水面に浮き上がろうとしている。
「地元から離れたくない」
それが、わたしの唯一の願いだった。地元にいれば、慣れた場所で、慣れた生活ができる。そして、何より、一人暮らしをするという、途方もない重圧から解放される。たとえ実家が、母の仮病という拒絶と、わたし自身の孤独を生む場所であっても、見知らぬ土地でたった一人、パワハラのあるかもしれない職場で生活を始めるよりはまだいいと思う。
この研修中、わたしは必死に地元の支店へ配属されるための、ささやかなサインを探し続けた。
地元出身の研修生は、わたしを含めて数人いる。休憩時間に、早絢が「ねーねー、みんな、地元がいいよね!絶対、家から通いたいじゃん!」と無邪気に話しかけてきたとき、わたしは深く頷いた。他の地元出身者も、「そりゃそうでしょ」「引っ越しとか絶対無理」と口々に言い合っている。
もちろん、希望通りになる保証なんてどこにもない。会社の人事という、大きな世界の中で、わたしの小さな願いは、簡単に粉砕されると思った。
それでも、わたしは毎日、家に帰るたび、母に小さな確認をとる。
「ママ、本社で研修を受けたんだから、地元の支店に配属される可能性は高いよね?」
母は、わたしがその話題を切り出すと、いつもほんの少しだけ顔を曇らせるけれど、すぐに持ち直して、安心させるように笑う。
「大丈夫よ、真依。地元採用は地元の支店に配属されることが多いよ。それに、もし遠いところになっても、真依ならきっと大丈夫。一人で生活できるようになるって」
その母の「大丈夫」という言葉が、逆にわたしの不安をかき立てた。
本当に大丈夫だと思っているなら、母はわたしの質問を聞くたびに、あんな風に顔を曇らせないはずだ。遠方配属の可能性を、母も感じている。そして、わたしを「大丈夫」と励ましているのは、わたしが遠方へ行くことで、母が背負っていた、わたしの将来の不安という重荷が、ようやく無くなるという考えの上にあると思った。
わたしは、母の言葉を信じることができない。信じたいのに、心に焼き付いた過去の記憶と、目の前の表情が、それを許さない。
家で安心感を求めることができないわたしにとって、残された最後の希望は、「実家から通える」という物理的な環境だけだった。
夜、眠れなくて、わたしはベッドに寝そべりながらカレンダーの「配属先発表」と書かれた日をずっと見つめていた。明日、この不安が、どちらかの形に確定する。光か、闇か。その二択の重圧が、わたしの胸を押し潰しそうだった。
そして、絶対に来ないはずのない運命の日がやってきた。
三月三十日、本社研修の最終日前日。午前中の座学が終わり、休憩時間になっても、研修室の空気は張り詰めていた。普段は早絢の周りで賑やかに話している研修生たちも、今日ばかりは皆、沈黙している。全員が、自分の携帯電話を握りしめたり、窓の外をぼんやりと見つめたりと、落ち着かない様子だ。それでもみんなわたしよりは落ち着いているように見えて、羨ましくなった。
正午を知らせるチャイムが鳴り響いた瞬間、研修室のドアがゆっくりと開いた。入ってきたのは、指導担当の真由先輩だ。
真由先輩は、普段と変わらない、黒いタイトスカートに身を包み、背筋を伸ばして立っている。その無表情で冷たい視線が、わたしたち新卒一人一人を見渡した。手に持っているのは、白い紙が一枚だけだ。たった一枚の紙が、わたしたち十数名の、この先数年間の人生を決定づけるのだ。
「みんな、静かにして。これから、配属先を発表します」
真由先輩の声は、ふだん同じで、低くて感情の読めない声だった。
だから、読み上げられるまで、わたしがどうなるか察しがつかない。
配属先は、真由先輩が一人ずつ名前を呼び、その場で告げるという形式だった。
「山吹早絢さんは、東京支店」
早絢の名前が呼ばれると、周囲から小さな「おお……」という声が上がった。早絢は、ほんの少しだけ口元を緩めただけで、すぐに真由先輩に深くお辞儀をした。彼女にとっては、遠方への配属も、新しい挑戦としか映っていないのだろう。その、どんな場所でも生きていけるだろうという自信が、わたしには眩しく、そして憎かった。
「山田一郎さん、大阪支店」
「佐藤美紀さん、名古屋支店」
名前が呼ばれていくたびに、地元とは遠い地名が、次々と飛び出してゆく。わたしと同じく地元出身の研修生も、次々と東京や大阪、遠くの地方都市の名を告げられていった。地元へ配属される可能性は、どんどん低くなってゆく。わたしの心臓は、警鐘を鳴らすようにドクンドクンと激しく鼓動し、手のひらの汗がカバンを濡らした。
わたしの番が、近づいてくる。真由先輩の視線が、わたしを通り過ぎ、隣の研修生の名前を呼んだ。
「……次に、椎崎真依さん」
真由先輩の冷たい視線が、真正面から、わたしを捉えた。わたしの存在を、値踏みしているような、面接官のような視線だ。
「椎崎真依さんの配属先は……『山道(やまのみち)支店』です」
山道……支店。
その地名を聞いた瞬間、わたしの頭の中は、一瞬にして真っ白になった。東京でも、大阪でも、ましてや名古屋でもない、聞いたことのない、馴染みのない響きだ。
真由先輩は、わたしが立ち尽くしているのを見て、冷たい声で補足した。
「みんな知らないでしょ?山道支店は、この本社から電車で三時間位の場所です。さらにそこからバスで一時間ほどかかる、県境に近い山間部にある支店ね。営業所というよりは、小さな工場に併設された倉庫のような場所で、お客様の来店はほぼありません。古い倉庫と、商品の在庫管理が主な業務になります」
その言葉が、わたしの耳に届いた途端、わたしの世界は音を立てて崩れ去った。
電車で三時間、バスで一時間。完全に家から通えない。そして、山間部の小さな倉庫。その言葉の響きだけで、わたしは、その場所がどんなに寂しく、孤独な場所に違いないかを悟った。地元の都市部の、華やかな支店での勤務を想像していた早絢とは違い、わたしに言い渡されたのは、社会という舞台の、隅っこの、誰も見向きもしないような場所だった。
わたしは、必要とされていないのだ。会社にとっても、社会にとっても、わたしは、目立たない山奥の倉庫で、黙々と在庫を数えていればいい、どうでもいい存在なのだ。その事が、わたしの価値を、決定的に否定しているように感じた。
絶望は、新しい絶望を連れてきた。
家から通えない。一人暮らしをしないといけない。知らない山奥の土地て、お客様の来店もない孤独な環境だという。
そして、真由先輩の視線が、わたしを捉えた気がした。
「……はい」
わたしは、小さく、喉の奥から絞り出すようにそう答えた。それ以上の言葉は出てこなかった。わたしの心臓は、この絶望という重圧に耐えかねて、今にも張り裂けそうに激しく鼓動している。
わたしの人生は、会社の都合という波に飲まれ、誰もいない寂しい山奥へ、無理やり押し流されてしまうのだ。
この三週間、わたしを苛み続けた、高橋先生の言葉や、記憶の中の美花の冷たい視線、母の仮病、真由先輩との人間関係の全部が、わたしが「山道支店」へ追いやられるための、必然の道筋だったような気がして、全身の血液が、底冷えするほど冷たくなった。
誰も救ってくれない。わたしはこの春、孤独な社会の中で、一人ぼっちになってしまう。
わたしは、制服のスカートの下で、力なく、両手を強く握りしめた。わたしの手のひらには、乾きにくい冷たい汗が、べっとりと張り付いていた。
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