第一章 第四話
三月、本社研修が始まってから、もう一週間が経とうとしていた。
本社研修に集まった新卒は、わたしを含めて十人くらいいる。ほとんどが、地元の専門学校や大学を卒業したばかりの、わたしと同じくらいの年齢の人たちだ。当然のことながら、みんな、春からの新しい生活に希望で満ち溢れていて、わたしのように不安や絶望を抱えている人間は、まるでいないように見えた。
研修は、主に会社の歴史や家具の専門知識、ビジネスマナーの座学が中心だ。
座学は退屈だったけれど、難しい知識をひたすら頭に詰め込んでいる間は、余計なことを考えなくて済む。まるで、目の前の教科書という小さな壁の中に、一時的に逃げ込んでいるような感覚だった。
休憩時間になると、緊張の糸が切れたように、研修生たちは一斉に話し始める。特に、男女問わずグループの中心にいたのは、山吹
早絢は、太陽のように明るい。そして、驚くほど人懐っこい。長い髪を丁寧に巻いていて、顔立ちも整っている。彼女の周りにはいつも笑い声が溢れていて、どんな話題を振っても、早絢は「えー!すごい!」「わかるー!」と、全身で共感の感情を表現する。その明るさ、素直さ、そして、誰とでもすぐに仲良くなれる能力は、わたしが最も持ち合わせていないものだった。
「ねえ、真依ちゃんってさ、地元どこなの?」「えー、本社から近いじゃん!ラッキーじゃん!ね、今度さ、駅前のカフェとか行かない?」
早絢は、わたしにも遠慮なく話しかけてきた。初めてそうされたとき、わたしは思わず、持っていた筆記用具を落としそうになるほど驚いた。わたしは、なるべく目立たないように、教室の隅の席を選んで座っているのに、早絢はそんなことを気にしない。彼女の好奇心の対象に、わたしはなってしまったようだった。
「あ、うん。地元は、この辺りだよ……」
わたしは、なるべく自然な笑顔を作ろうとしたけれど、引きつった頬の筋肉が動かない。高橋先生に言われた「作られた長所」という言葉が、頭の中で木霊している。わたしが無理に作った笑顔は、早絢の眩しい笑顔の隣では、偽物だとすぐにわかってしまう気がした。
早絢は、わたしが言葉に詰まっても気にしない。「じゃあ、帰り、一緒に駅まで行こー!」と、強引なくらいに、自分のペースに巻き込んでくる。
わたしは、そんな早絢のことが、どうしても好きになれなかった。
好きになれない、というよりも、むしろ、嫉妬に近い、ねじれた感情なのかもしれない。
早絢を見ていると、塗り替えられた鏡を見ているようで、自分の欠点ばかりが浮き彫りになる。彼女は、わたしが面接で「長所」として語った「明るく素直」を、何の努力もなく、ごく自然体で体現している。努力を避けてきたわたしと違って、彼女は最初から、社会に必要とされる「正しい人間」として生まれてきたのだろう。
「いいな、早絢は。何も悩みがなさそうで」
わたしが心の中でそう呟いても、早絢は、わたしの手のひらから溢れ出す汗や、心のざわめきには気づかない。ただ、底抜けに明るい声で、週末に行くカフェの話や、新しい洋服の話をしている。わたしは、そんな早絢の隣で、まるで仮面をかぶった人形のように、曖昧な相槌を打つことしかできなかった。
休憩時間とは反対に、研修中は、常に張り詰めた空気が漂っていた。その空気の震源地は、わたしたち新卒の指導担当をしている、水原
真由先輩は、三十歳前後で、早絢とはまた違う種類の華やかさを持った女性だった。いつも黒いタイトスカートに、体の線にフィットしたブラウスを完璧に着こなしている。早絢の明るさが「太陽」なら、真由先輩の持つ雰囲気は、鋭く冷たい「月」のようだった。
彼女の指導は、徹底的だった。
「メモの取り方が雑だね。その『箇条書きで後でまとめればいい』という考えが、後で大きなミスに繋がるの。その『後』がいつ来るかが分からないよ」
「質問するなら、もっと簡潔にしてよ。時間を奪っているという意識を持ってください。わたしたちが暇だと思わないで」
真由先輩の言葉は、毎回的確で、わたしたちの甘さや、考えの浅い部分を容赦なく切り裂いた。彼女の冷たい視線は、面接官たちの視線によく似ていた。わたしは、彼女の視線が自分に向くたびに、体が硬直し、息が詰まるのを感じた。
今日の研修で、わたしは、家具の歴史についての簡単なテストで、一つだけ専門用語のスペルミスをした。
他の研修生も多少の間違いはしていたけれど、真由先輩は、わざわざわたしを名指しする。
「椎崎さん、この研修を受ける前に、この業界の基本用語を調べなかったの?これは義務でしょ!?やる気が感じられないね!」
わたしの心臓は、ドクドクと警鐘を鳴らし、全身の血液が冷たくなるのを感じた。その場にいた他の研修生たちの視線が、一斉にわたしに集まる。わたしの耳には、皆が心の中で「またあの子だ」「やっぱり使えないな」と囁いているような幻聴が聞こえてくる。
「すぐに直します……」
わたしは、震える声でそう答えるのが精一杯だった。本当は、「一生懸命やっています」と訴えたかった。けれど、言葉にすると、それはただの言い訳にしかならないと分かっている。言い訳か本当かなんて、本人にしか分からないと思う。言葉にしたら一緒なのだ。
真由先輩は、わたしから目を離し、冷たい声で続けた。
「椎崎さんには、特に基礎が足りてないです。明日から、始業時間の一時間前に来て、このテキストの五章まで、口頭で説明できるように準備して。これが椎崎さんの『やる気』を示す最初のステップだよ」
まるで、わたしだけが、他の研修生よりも一段低いところに立たされているような、そんな屈辱感だった。
結局、わたしはまた謝ることしかできなかった。
真由先輩は、わたしを、高橋先生と同じように「やる気のない、どうしようもない不良品」として評価しているのだ。
研修が終わると、早絢がすぐに寄ってきた。「えー!真依ちゃん大変じゃん!でもさ、真由先輩ってああ見えて優しいんだって!期待されてるってことだよ!」と、無邪気に励ましてくる。その明るい声が、今のわたしには、何の慰めにもならなかった。
わたしは、早絢にお礼だけ言って、急いで更衣室へ向かった。
どこにも、わたしの居場所はない。
教室では、真由先輩の冷たい指導と、早絢の眩しいほどの明るさが、わたしを責め立てる。家に帰れば、母の仮病という、優しさの皮をかぶった拒絶が、わたしを待っている。
わたしは、この会社の中の、誰からも必要とされないホコリとか汚れのよう存在になってしまった。
わたしの人生は、この古びた本社ビルと同じように、どこか暗く、冷たい。この建物の中で、わたしは三週間をどうやって耐え抜けばいいのだろう。この研修が終わったところで、わたしは、一体どこへ追いやられてしまうのだろう。
わたしは、制服から着替えるために持ってきていた、いつもの重たいカバンを、力なく握りしめた。そのカバンの重みが、この社会で生きてゆくことの重圧そのもののように感じられた。
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