第一章 第三話
来ないはずなんてない。三月という月は、暦の上で定められた通り、毎年必ずやってくる。それなのに、わたしの心のどこかでは、まだ先だと思っていた。わたしだけ時間の流れから取り残されて、高校三年生の灰色の教室に永遠にいることができるのではないか、という、根拠のない期待を抱いていたのかもしれない。
もちろん、そんな甘い希望は、あっけなく打ち砕かれた。その日は、早足でわたしのところにやってきたのだ。
今日から、わたしの研修が始まる。
朝、慣れないリクルートスーツに再び袖を通す。高校の制服とは違う、固くて動きにくい生地の感触が、これから始まる重い現実を象徴しているように感じた。鏡に映るわたしは、無理に口角を上げているせいで、表情がひきつっている。この「やる気と誠意のある社会人」の仮面が、一日中剥がれ落ちないでいてくれるか、それがいちばん不安だった。
研修期間は、三週間。
その間は、実家から通うことができる。この一点だけは、わたしの不安を少しだけ和らげる要素だった。見知らぬ土地で一人暮らしを強いられる孤独感から、僅かながら解放される。家に帰れば、自分の部屋の布団に横たわれる。
けれど、それは一時的な猶予に過ぎない。
三週間という時間は、あまりにも短い。その間に、わたしは、社会人としての基礎を学び、この会社の人間関係に慣れ、そして何よりも、この会社にとって「使える人間」であることを証明しなければならない。
「実家で暮らせる」という事実も、あまり救いには思えなかった。家には、母がいる。わたしが精神的に疲れて帰宅した時、母はいつものように体調が悪いの装って、わたしの話から逃げるのだろう。そして、わたしはまた、母の嘘に振り回され、誰にも本音を吐き出せないまま、孤独を深める。
この三週間が終わったら、ゴールデンウィーク明けからは、いよいよ配属先での勤務が始まる。
わたしの心臓は、この配属先のことを考えるたびに、ドクドクと警鐘を鳴らし続けている。
もちろん、希望の配属先は出すつもりだ。わたしが強く希望するのは、この本社と同じ県内にある支店。実家から通える範囲で、できれば近い場所が良い。
けれど、それが通るかどうかが分からない。
前に、ふと立ち読みした就職情報雑誌に、「配属先の希望は、あくまで参考。企業の都合が優先される」と書いてあったのを思い出す。あの時の活字が、今、わたしの頭の中で、巨大な否定の文字にかわって浮かび上がってくる。
わたしの希望なんて、大きな会社にとっては、取るに足らない、ちっぽけな願いなのだろう。会社の物流や人材配置の都合という、目に見えない論理の波に、わたしの人生は簡単に押し流されてしまう。あの、圧迫面接で感じた、「わたしという存在は、社会の都合の良い駒でしかない」という感覚が、再びわたしを支配した。
電車に揺られ、降りた駅は数ヶ月前の就活の時と同じ、ビルが立ち並ぶ場所だった。
わたしの内定先の家具会社の本社は、駅から少し歩いたところにひっそりと佇んでいた。
外観は、少し古い大きな三階建ての建物で、全部の階にわたしの会社がはいっている。どっしりとしていて、威厳があるけれど、窓枠のサッシは古くて、外壁には少し煤けたような色が見える。いかにも創業年数が長い老舗という雰囲気で、華やかさとは程遠い。インターネットの口コミで見た「古い体質」という言葉が、この建物の姿と重なり、わたしの不安を一層深めた。
大きなガラスの自動ドアをくぐると、真新しいスーツや会社の制服を着たわたしと同じ新卒らしき人たちが、数名、受付の前で戸惑っている。わたしもその集団に加わり、なるべく目立たないように、壁際に立った。
わたしは、なるべく笑顔を作ろうと頑張る。
口角を上げる。目元にも力を入れる。
それでもわたしは笑えていないのだろうか。
面接で指摘された「長所は明るいとあるのに、全然笑っていない」という言葉が、呪文のようにわたしの頭の中で繰り返されていた。
「わたしは、明るい人間です。やる気があります。この会社に入れたことを、心から喜んでいます」
表情筋の力を緩めてはいけない。そう自分に言い聞かせているのに、この作り物の笑顔が、周りの人や、これから出会う研修担当の人たちに、簡単に見透かされてしまうのではないか、という不安が襲いかかる。
もし、「あなたの笑顔は嘘だね」「心から喜んでないね」と、あの面接官のような冷たい声で指摘されたら、わたしはもう、この場に立っていることができなくなるかもしれない。
緊張で手のひらに汗がにじむ。カバンのストラップを強く握りしめた。その手には、わたし自身の存在を支えるように、力が入っていた。
三週間の研修。ゴールデンウィーク明けからの配属。
わたしの人生は今、わたしの体と一緒にこの古くて大きな建物に立ち尽くしている。わたしを待ち受けているものが、光なのか、それとも、更に暗い闇なのか、わたしにはまだ分からない。ただ、この大きな会社の建物が、口を開けた巨大な生き物のように見える。
そしてそれがわたしを丸ごと飲み込もうとしているような気がして、全身の血液が冷たくなった。
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