第二章 第五話
四月二日。今日からが、わたしの本当の社会人生活の始まりだ。
朝は、予想していたよりもずっと早く、わたしの部屋にやってきた。夜通し、壁一面に並んだ人形たちの無言の視線に怯え、奥の部屋の仏壇に添えられた若い女性たちの写真のことが頭から離れなかったせいで、ほとんど眠れていない。
枕元には、寝汗が滲んでいる。この家自体が、わたしの心身からエネルギーを吸い取っているような錯覚に陥った。
外が場違いに眩しくて思わず窓の外を見上げると、窓枠のサッシは古くて、外壁は煤けたような色をしている。
窓の外には、家よりも高くて暗い杉の木が鬱蒼と生い茂っていて、都会の開けた空とは全く違う閉塞感が広がっていた。
奥の部屋に並べられたわたしとほとんど同年代の若い女性の仏壇を思い出すと、この部屋の人形が、その女性たちの依代のように感じられた。
どの人形も、表情は微笑んでいるのに、目はどこか遠くを見つめていて、なんかわたしをずっとみているように見える。そう思うと怖くて、背筋にゾワッと言う感覚が這って行く。
何故か、心臓が一回大きく跳ねると、収まるまで暫くかかった。
わたしは、この人形たちの視線から逃げたい一心で、すぐに部屋を出た。
居間に逃げるように出てきたけれど、居間も薄暗くて、何かドキッとする。
大叔母は穏やかで、わたしを気遣っているようで、美花はわたしの顔をまっすぐに見ようとしない。
わたしは、大叔母の優しさにも居心地の悪さを感じた。わたしは優しくされる価値のない人間なのに、申し訳なく感じる。
かと言って、冷たくされるのは辛いと思うわたしは、矛盾した人間だ。
美花は十一年前わたしが座敷の隅で遊んでいるときに台所の入口から顔を出して、冷たい視線を投げつけてきた怖さの代わりに、普通で、なにかされるのではないかという危うさがある。
わたしはまたなにかされるのではないかと、怖くなる。
夫と娘を失った悲しみと、それを引き起こした大叔母への複雑な感情を、普通の抑揚のある顔の裏に押し込めている美花を怖がるわたしは最低だとわかっている。
けれど、不確かな前のことが忘れられなくて、わたしは今も美花に接するのが難しい。
いつになったら、大叔母の家に最初に預けられる前のように、喜んだり、楽しんだり、幸せを感じたり出来るのだろうか。
厄介者のわたしのせいで、美花がまたさらに怖くなるかもしれないからわたしは、美花の機嫌を損ねないように、何とか影を薄くした。
それでもここには三人しかいない。十人くらいいれば透明人間のように振る舞えるかもしれないのに。
山道支店までは、大叔母の家から三十分くらいだ。田舎の割にバス停からは近くて、五分で行けるけれど、わたしにはその五分が引き返してしまいそうな時間に感じる。
まだ新しいリクルートスーツに身を包み、重たいカバンを肩にかけ、わたしは家を出た。
バスの車窓から見える景色は、高くて暗い杉の木が続く。都会の華やかさとは程遠い、寂しさと閉塞感があるここが、わたしの会社になるのだ。
会社に着くまでの間、わたしは頭の中で、今日の出勤を遅らせる言い訳を必死に考えていた。面接で言われた「長所は明るいとあるのに、全然笑っていない」という言葉が、呪文のように繰り返される。
怖い。それをまた言われてしまう気がして、会社に向かう足が思わず遅くなる。
次に言われたら壊れてしまう気がして、わたしはまた怖くなる。
十八歳の春。普通なら就職や進学の希望に満ちているはずなのに、わたしはそのふつうを手に入れられない。
わたしは、ここで事故にでも遭わないかと、そんなおかしい期待を抱いてしまった。
仏壇の女性は、どんな気持ちで短い人生を終えたのだろう。わたしは、このままずるずると生きるくらいなら、早く幸せになって終わりたいと思った。
わたしは、なんで自分がこんなに弱いのか、必死で考える。
母の姿を見習ってしまった。そんな人のせいにするような酷い考えしか浮かばない。
「わたしは、明るい人間です。やる気があります。この会社に入れたことを、心から喜んでいます」
やる気と誠意のある社会人の仮面が、また誰かに偽物だと見透かされてしまうのではないかと、不安になる。
特に、真由先輩のような鋭い指導と、早絢のような底抜けの明るさを持つ人たちに、わたしの暗い本当が暴かれるのが怖い。
本社での研修は三週間という短い期間だったけれど、そこで真由先輩に無能だと烙印を押され、早絢の眩しさに自分の欠点を浮き彫りにされた経験は、わたしの残り少ない自己肯定感を根こそぎ消してしまった。
わたしは、努力から逃げ続けたせいで、社会に必要とされない不良品になっていた。
今更、あの時進学していればもう少し大人になってからに出来たかもしれない、と後悔する。後悔しても無駄なのは知っているけれど、どうしても前向きになれない。
早絢の人生とわたしの人生を代わって欲しいと思った。
「どうしよう。お腹が痛いって言おうかな」
無意識のうちに、わたしは母から学んだ「逃げの癖」を使おうとしていた。体調不良を口実にすれば、今日の出勤を遅らせることができる。そうすれば、新しい人間関係と、仕事への重圧から、一時的に逃げ出せる。
けれど、わたしはすぐにその考えを打ち消した。もう、ここは高校ではない。もし体調不良で休んだり遅刻したりすれば、それがすぐに山道支店でのわたしの評価になってしまう。真由先輩に「やる気がない」と言われた時の絶望を、また味わいたくなかった。
周囲は静まり返っていて、聞こえるのは、自分の足音と、重たいカバンを持つ手に握られたストラップの軋む音だけだ。
帰りもここを通るのか、と思うと、誰かに襲われそうで怖くなる。
なんでわたしは、社会人初日にこんなに怖い想いと絶望を抱かないといけないのだろうか。
わたしの想い描いていた人生との天と地の差をまた認識してしまった。
引き返したり、覚悟したりも出来ないまま、山道支店は目の前に現れた。
真由先輩が言った通り小さくて、本社のような綺麗な建物ではなく、平屋建てで、外壁は白く、至る所に煤けた汚れがついている。
外から見ても、お客様が来店するような華やかさは微塵もなくて、一見したら廃墟と思う人もいるかもしれない。この誰も見向きもしないような場所で、わたしは、「目立たない山奥の倉庫で、黙々と在庫を数えていればいい、どうでもいい存在」として働かされるのだ。その事が、わたしの価値の否定を、改めて突きつけてくる。
入り口の重たいスチールの引き戸に手をかけて深呼吸をする。
手のひらは、冷たく、べっとりと汗ばんでいて、深呼吸したら落ち着くと言ったのは誰なのだろうと考える。
「来い」「やっと来た」という女性の声は、一体何なのだろう。それでもわたしは、その声のせいで来たのではないかと思った。
ドアを開けると、中は予想外に華やかな雰囲気で、この薄汚れた外観とは不釣り合いなほど、明るい蛍光灯の下で、十数人の女子社員が会社の制服やスーツを着て、パソコンに向かっている。
そして、その中には、見慣れた顔がいくつかあった。
「あ……」
思わず声が漏れそうになる。本社研修で一緒だった、新卒の女の子たちだ。
ほとんどが都会に配属された印象だったけれど、早絢や他の明るい研修生たちが何人かそこにいた。
早絢が、わたしの姿に気づき、太陽のような笑顔で手を振ってきた。
また、早絢と一緒に働かないといけない。わたしは彼女とは合わないと思っていたから、憂鬱になった。
「えー!真依ちゃんじゃない!一緒でよかったね。ねー、みんな、真依ちゃんが来たよ!」
早絢の声は、殺風景なデータ入力室の中で、あまりにも明るすぎた。
わたしは、一瞬にして絶望と自己嫌悪に襲われた。
彼女たちのキラキラとした眩しさは、この灰色の支店の中でも、全く翳ることがない。そして、その眩しさが、わたしの暗い部分を、再び浮き彫りにするきがした。早絢は、わたしが最も持ち合わせていない「明るく素直」を、何の努力もなく体現している。
わたしは、一回履歴書に取り柄が明るく素直と書いた以上、これからも演じないといけないと思った。
わたしは、彼女たちと仲良くなりたくない。なれない。
彼女たちの希望に満ちた笑顔を見るたびに、「わたしだけ取り残されている」という孤独と、「わたしは無能だ」という自己否定の感情が、渦巻いてしまう。
彼女たちの眩しさが、わたしの怖さのひとつだった。
それなのに、わたしは逃げられない。
山道支店という閉ざされた空間の中で、わたしは彼女たちの輝きに、毎日晒され続けないと行けない。彼女たちに迎合して、笑顔を作り続けないと、この社会で生きていけない。
わたしは何とか笑って、早絢の笑顔に応えようとした。その笑顔が偽物だと、誰にも気づかれないように。
喉の奥から絞り出した挨拶は、細く、弱々しかった。
わたしは、美花のことと人形の視線、早絢の眩しさという、三つの重圧に閉じ込められてしまったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます