残響(ざんきょう)
足音が狭い路地の壁に反響していた。
その中の空気は重く、まだ床に残る新しい血の金属臭を含んでいた。
ハルは息を整えようとしていた。胸の奥で心臓が激しく打ち、
その一拍一拍が、前の死で味わった痛みの記憶を呼び戻すようだった。
彼の身体は、長い苦しみの末に蘇ることに、まだ慣れていなかった。
突然、路地の奥に影が現れた。
それはあまりにも速く動いたため、正体を見極めることができなかった。
ハルは思わず一歩後ずさりし、壁に手をついて体を支えた。
その影は彼の方へ向かってきた。
急いだ足音と、身体のどこかで金属が鳴る音が混ざり合っていた。
「止まれ! 警察だ!」
ハルの隣にいた警官が叫び、銃を構えた。
乾いた発砲音が雷のように空気を裂いた。
弾は目標を外れたが、その音は十分に大きく、
影を怯えさせるには足りていた。
その影は素早くハルを警官に向かって押し飛ばし、
二人とも地面に倒れ込んだ。
細かな埃が舞い上がり、火薬と恐怖の匂いが入り混じった。
「ちっ……」
警官は唸りながら立ち上がろうとした。
「信じられないな……!」
ハルは何度も瞬きをしながら、今起きたことを理解しようとした。
頭がずきずきと痛み、銃声の残響がまだ耳の奥で鳴り続けていた。
周囲を見回すと、影はすでに消えていた。
まるで夜に呑み込まれた幽霊のように。
「くそっ!」
ハルは拳で地面を叩いた。
「逃げやがった……目の前だったのに!」
警官は立ち上がり、汚れた制服を払いながら深く息を吐いた。
表情には職務的な冷静さを保とうとしていたが、
手のかすかな震えがその内心を隠せなかった。
「おい、坊主……」
警官は帽子を直しながら言った。
「自分を責めるな。こういうこともある。大事なのは、生きてるってことだ」
ハルはゆっくりと立ち上がった。
身体のあちこちがまだ痛んでいた。
前の死で負った腹の傷は、目に見えないのに、まだ焼けつくように疼いた。
彼は視線を逸らし、深く息を吐いた。
――生きている。
そう、自分はまだ生きている……今のところは。
サイレンの音が遠くから響いてきた。
赤と青の光が闇を切り裂きながら、パトカーが次々と到着した。
路地の中は断続的なフラッシュに照らされ、
血と汚れがより鮮明に浮かび上がった。
「応援が来たな」
警官は通りの方を見ながら言った。
「もう大丈夫だ」
彼はハルの肩に手を置き、疲れたような笑みを浮かべた。
「お前はよくやったさ。後は俺たちに任せろ」
ハルはうなずいたが、その目はどこか遠くを見ていた。
言葉を信じたい気持ちの一方で、彼は知っていた。
時間はまた巻き戻る。
何をしても、何を言っても、何を見ても――
次のループが始まれば、すべて消えてしまうのだ。
それでも、その人の手の温もりは確かだった。
今この瞬間、自分が「現実」にいると感じさせてくれる温かさだった。
「なあ……」
警官はポケットから何かを取り出した。
「これを持っていけ」
彼が差し出したのは少し汚れた白いカードだった。
だが文字ははっきりと読めた。
「俺の名刺だ。
少し休みたい時は、どこかの店で飯でも食って、酒でも飲め。
明日、署に来て事情を話してくれればいい。分かったか?」
ハルは驚いたようにカードを見つめた。
そこには「タケダ巡査部長」と印刷されており、
下には電話番号と警察署の住所が書かれていた。
彼は震える手でそれを受け取り、まるで宝物のように見つめた。
「明日……」
彼は小さくつぶやいた。
明日は存在しない。
今までもそうだったように、すべての「明日」は消えてしまう。
それでも、彼はその番号を覚えておきたかった。
小さなその出来事が、次のループで何かを変えるかもしれない――
そんな気がした。
「ありがとう」
ハルはカードをコートの内ポケットにしまいながら言った。
「本当に……ありがとう」
警官は軽くうなずき、短く微笑んだ。
「大丈夫だ、坊主。きっとすべてうまくいく」
彼は周囲を見回し、他の警官たちが路地を封鎖していくのを見た。
「この野郎は必ず捕まえる。約束する」
ハルはうなずいたが、表情は沈んでいた。
たとえ犯人を捕まえても、何の意味もないことを知っていた。
明日になれば、またすべてが繰り返される。
そして、それを覚えているのは自分だけ。
彼はゆっくりと路地を出た。
クリスマスの夜の冷気が肌を刺し、
遠くで鳴るサイレンの音が、どこかの店から流れるクリスマスソングと混ざり合っていた。
その対比は、皮肉なほどだった。
街が祝福に包まれているその時、
彼は死と絶望の輪に閉じ込められていたのだ。
雪が静かに降り始めた。
地面に触れた途端に溶けていく。
ハルはポケットに手を突っ込み、
街灯の光を頼りに歩き始めた。
やがて、青と白の看板が点滅する角にたどり着いた。
コンビニエンスストア。
ドアのベルが鳴り、店内の暖かい空気が彼を包んだ。
コーヒーとインスタントフードの香りが心を落ち着かせた。
棚は整然と並び、
お菓子、飲み物、雑誌、そしてレジの横には小さなクリスマスツリー。
安っぽい飾りが光を反射していた。
ハルは冷蔵ケースに向かい、
缶コーヒーを一本手に取った。
しばらくラベルを眺め、それを開けて一口飲んだ。
苦い味が舌に広がり、顔をしかめたが、
その苦味こそが彼を現実に引き戻してくれるような気がした。
もしかすると今の彼に必要なのは、
この「現実を感じる痛み」なのかもしれなかった。
缶を傾けていると、再びドアのベルが鳴った。
彼は反射的に振り向いた――
そして、心臓が一瞬止まった。
レナ。
彼が愛した少女。
何度ものループで共に過ごし、
今は遠い記憶となっていた彼女が、そこにいた。
彼女は静かに笑いながら棚の方へ歩いていた。
隣には黒髪の背の高い青年――
彼女が「今好きな人」と言っていたセンパイだった。
その光景が、ハルの心のどこかを音を立てて壊した。
彼は立ち尽くし、何もできなかった。
彼女の笑い声が、残酷な記憶のように頭の中で反響する。
髪を耳にかける仕草、
やわらかく微笑むその顔――
すべてが以前と同じで、そしてまったく違っていた。
――そうか。これが、現実なんだな。
その思いは苦く、重かった。
自分が死に、何度も蘇って苦しみ続けている間に、
彼女の時間は進んでいた。
レナは笑っていた。
そして、別の誰かを愛していた。
ハルは視線を逸らし、近くの棚の商品を見ているふりをした。
缶を持つ手が震えていた。
どんなに足掻いても、運命は彼を嘲笑う。
指の間から零れ落ちる砂のように、すべては逃げていく。
「ハル……?」
柔らかい声が彼を呼んだ。
ゆっくりと振り向くと、
驚いたように目を見開いたレナがそこにいた。
一瞬、時間が止まった。
「……やっぱり、ハルなの?」
彼女は近づきながら言った。
「久しぶりね」
彼女の隣のセンパイは少し警戒した様子だったが、
レナは気にする様子もなかった。
ハルはぎこちなく笑った。
「……ああ、やあ、レナ」
声は掠れていて、どこか疲れていた。
「ちょっと飲み物を買いに来ただけさ」
彼女はうなずき、心配そうな表情を見せた。
「疲れてるみたい。大丈夫?」
――大丈夫?
思わず笑いそうになった。
どう説明すればいい?
何十回も死に、身体が他人の記憶で痛むことを。
終わらない悪夢に閉じ込められていることを。
「うん……」
彼は嘘をついた。
「ちょっと大変な日だっただけだよ」
レナは小さく笑った。
「まあ、今日はクリスマスだしね。街は大騒ぎよ」
彼女は彼の手にあるコーヒー缶を見て笑った。
「まだそんな苦いの飲んでるの? そろそろ甘いのにしたら?」
ハルは無理に笑い返した。
「苦い方が、俺には合ってる気がするんだ」
レナは少し黙り、笑顔を和らげた。
「ハル……」
「ん?」
「……あなたが元気でありますように」
その言葉は、今まで受けたどんな傷よりも深く突き刺さった。
ハルはうなずき、喉の奥で何かを飲み込んだ。
「君も……幸せでいてくれ、レナ」
二人の間に沈黙が落ちた。
そこへ、彼女の隣のセンパイが近づいてきた。
「レナ、行こう。もう遅い」
彼は穏やかながら、はっきりとした口調で言った。
レナはハルをもう一度見つめ、
悲しげな笑みを浮かべた。
「メリークリスマス、ハル」
彼はただ、静かにうなずいた。
その言葉は、彼女が店を出た後も胸の奥で響き続けた。
ドアのベルの音が、まるで句点のように響いた。
ハルは動けなかった。
ガラス越しに、二人の姿が遠ざかっていくのを見ていた。
外では雪が降り続き、
街の灯りを受けて輝いていた。
彼は缶コーヒーを一気に飲み干し、
空き缶をゴミ箱に投げ入れた。
胸の痛みは、外気よりも冷たく感じた。
だが、その痛みの奥に、
まだ小さな炎が灯っていた。
――この終わらない輪を、いつか変えてみせる。
それが、彼の心に残る唯一の希望だった。
ハルが本当に望んでいたもの。
それは、消えない「明日」だった。
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