路地裏(ろじうら)の影(かげ)

遠(とお)くでサイレンの音(おと)がこだまし、クリスマスの冷(つめ)たい光(ひかり)が灯(とも)る街路(がいろ)に残(のこ)る人だかりのざわめきと混ざり合っていた。空気(くうき)は重(おも)く濁(にご)り、まるで風(かぜ)自身(じしん)が恐(おそ)ろしい何(なに)かの到来(とうらい)を知(し)っているかのようだった。


ハル(ハル)は息(いき)を荒(あら)くしながら歩(ある)いていた。胸(むね)は上下(じょうげ)を不規則(ふきそく)に動(うご)き、口(くち)に残(のこ)るのは鉄(てつ)のような味(あじ)──アドレナリンの余韻(よいん)だった。彼は前(まえ)を走(はし)る警察官(けいさつかん)たちを追(お)いかけようとしたが、一歩(いっぽ)ごとに体(からだ)が震(ふる)えるのを感じていた。


まだ彼の体は弱(よわ)っていた。

以前(いぜん)味(あじ)わった「死(し)」の記憶(きおく)が、混(ま)じった閃光(せんこう)のように頭(あたま)をかすめる。刃(やいば)が皮膚(ひふ)を裂(さ)き、血(ち)が流(なが)れ、苦痛(くつう)が魂(たましい)を焼(や)くように沁(し)み込(こ)んだことを思(おも)い出(だ)させる。走(はし)るだけで、絶望(ぜつぼう)が胸を掴(つか)む。


だが、ここで止(や)めるわけにはいかなかった。

今(いま)だ。


小道(こみち)がすぐ先(さき)にあった――細(ほそ)く湿(しめ)り、壁(かべ)や建物(たてもの)が作(つく)る影(かげ)が濃(こ)く重(おも)く落(お)ちている場所。街灯(がいとう)の灯(あか)りさえ、完全(かんぜん)には届(とど)かない。ハルの背筋(はいすじ)に冷(つめ)たい寒気(さむけ)が走(はし)る。


「こ、ここだ……」

ひどく震(ふる)える声(こえ)でつぶやいた。


一人(ひとり)の警察官(けいさつかん)が彼を振(ふ)り返(かえ)った。息(いき)を整(ととの)えながら。


「どうした、坊主(ぼうず)? 顔(かお)が青(あお)いぞ。」


ハルは壁に手(て)をつき、もう一度(いちど)大(おお)きく息を吸(す)った。


「俺……あの男(おとこ)を見(み)たんだ。あの車(くるま)の近(ちか)くにいた男だ……そいつが……あの路地(ろじ)に入(はい)ったんだ。」


警察官は眉間(みけん)に皺(しわ)を寄(よ)せ、ハルの目線(もくせん)が指(ゆび)した方向(ほうこう)をじっと見(み)つめた。


「……わかった。ここに残(のこ)れ。」

警察官(たなか)は無線機(むせんき)をあげて叫(さけ)ぶように言(い)った。

「ユニット三、こちら警官タナカ。容疑者(ようぎしゃ)が中央広場(ちゅうおうひろば)近(ちか)くの路地に入(はい)ったと目撃(もくげき)されている。くり返す。容疑者が見(み)られた。」


応答(おうとう)は雑音(ざつおん)めいた声で返(かえ)ってきた。


「ユニット四、移動中(いどうちゅう)。位置(いち)を保(たも)って増援(ぞうえん)を待(ま)て。」


だが、それはもう遅(おそ)かった。

若(わか)い警察官が、ためらいなく路地へ走(はし)り込み、懐中電灯(かいちゅうでんとう)をかざしながら銃(じゅう)を構(かま)えた。


「おい、待(ま)て!」

タナカは怒(おこ)りながら追(お)いかけた。

「くそ……」


彼はハルを見(み)る。呼吸(こきゅう)は荒(あら)く、動(うご)くごとに胸(むね)が痛(いた)んだ。


「ここにいろ。分(わ)かったか? 余計(よけい)なことをするな。」


ハルは小(ちい)さくうなずいたが、

その視線(しせん)は暗(くら)い路地(ろじ)に釘付(くぎづ)けだった。

胸中(きょうちゅう)には苦(にが)い確信(かくしん)があった──

“いま動(うご)かなければ、また同(おな)じことが起(お)こる。”


風(かぜ)が強(つよ)く吹(ふ)き、ゴミと錆(さび)の匂(にお)いを連(つ)れてきた。

ハルは拳(こぶし)を強(つよ)く握(にぎ)りしめ、震(ふる)えながらも一歩(いっぽ)を踏(ふ)み出(だ)した。


「……確(たし)かめたいんだ。」


タナカは鼻(はな)で短(みじか)く息(いき)をついた。


「“余計”の意味(いみ)をどこまで分(わ)かってる、坊主?」


だがハルは引(ひ)かない。

「奴(やつ)を逃(にが)したら……また同(おな)じことが起(お)きるんだ。」


若い警察官が突然(とつぜん)倒(たお)れていた。

赤い血(ち)が首筋(くびすじ)から滴(しずく)になって床(ゆか)に滲(にじ)んでいる。


ハルの胃(い)がキリキリと痛(いた)み、冷(ひ)や汗(あせ)が滲(にじ)む。


「……そ、そいつ……死(し)んでるのか?」

彼(かれ)は声(こえ)を震(ふる)わせながら問(と)いかけた。


タナカはひざまずいてその警察官に手(て)を差(さ)し伸(の)ばし、ポケットから無線機(むせんき)を口元(くちもと)へ持(も)っていった。


「こちらタナカ!警察官が倒(たお)れている! 容疑者は凶悪犯(きょうあくはん)だ!くり返す、容疑者は殺人者(さつじんしゃ)だ!」


サイレンの音がますます近(ちか)づく中(なか)、タナカは立(た)ち上(あ)がって暗(くら)い闇(やみ)をにらんだ。

「この野郎(やろう)、どこかにいる……」銃(じゅう)を握(にぎ)しめて低(ひく)く呟(つぶや)く。


ハルは一歩(いっぽ)後(うし)ろに下(さ)がった。

路地(ろじ)は彼らを包(つつ)み込(こ)むように狭(せま)く、

暗闇(くらやみ)の中毒(どく)のように重々(おもおも)しく息苦(いきぐる)しさを伴(ともな)っていた。


彼は地面(じめん)を見(み)つめ、呼吸(こきゅう)を整(ととの)えようとした。

遠(とお)くから混(ま)じるサイレンの音と、壊(こわ)れた蛇口(じゃぐち)からの雫(しずく)が滴(したた)る音が重(かさ)なっていた。


タナカがもう一歩(ひとあし)踏(ふ)み込(こ)んだ。

「俺(おれ)の後(あと)ろにいろ、坊主。」


ハルはうなずいた。だがその瞳(ひとみ)は震(ふる)えていた。

その胸中には知(し)っている恐怖(きょうふ)があった——

“ここに来(こ)れば、また見(み)てしまう”


冷(つめ)たい空気が肌(はだ)を刺(さ)す。恐怖(きょうふ)が、ゆっくりと毒(どく)のように浸(し)み込(こ)んでいく。

それでも、ハルは歩(ある)き続けた。


それが、地獄(じごく)を再度(さいど)生(い)きるか──

それとも決(き)して繰(く)り返(かえ)さないために立(た)ち向(む)かうかの分岐点(ぶんきてん)だったのだから。


静(しず)かながら重(おも)い足音(あしおと)が木箱(きばこ)や道具(どうぐ)が散乱(さんらん)した古(ふる)い倉庫(そうこ)の前(まえ)で止(と)まった。


タナカが扉(とびら)に手(て)をかけると、鍵(かぎ)が外(はず)れたかのように軋(きし)む音(おと)が暗闇(くらやみ)に響(ひび)いた。


懐中電灯(かいちゅうでんとう)が扉(とびら)の隙間(すきま)を照(て)らす。古(ふる)びた工具箱(こうぐばこ)や錆(さび)ついた工具(どうぐ)が散乱(さんらん)していた。


だが、そこに奴(やつ)はいなかった。

ただ――闇(やみ)。


そして、彼らの背後(はいご)で──かすかな木片(もくへん)が落(お)ちる音がした。

タナカが振(ふ)り返(かえ)ったとき、闇(やみ)の奥(おく)から何(なに)かが動(うご)いた。


銃口(じゅうこう)から放(はな)たれた冷(つめ)たい夜気(やけ)を裂(さ)くように、刃(やいば)が闇(やみ)から抜(ぬ)け出(だ)した。

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