雪の下に残る音
雪はゆっくりと降っていた。まるで時間そのものが彼をからかうように、わざと遅く流れているようだった。
ハルはコンビニの前に立ち尽くしていた。冷たい風が頬を刺し、吐く息のかすかな温もりと混ざり合う。
店の中の光景が、今も鮮明に頭に焼き付いていた——レナが、別の男の隣で笑っていた。
その映像が、同じレコードの溝を針が何度もなぞるように、頭の中で繰り返されていた。
彼は容疑者を逃がしてしまった。
そして、それよりも酷いことに——かつて愛した女性が、自分のいない場所で前へ進んでいる姿を見てしまった。
どれほど足掻こうと、結局は同じ結末になる。
世界がそれを執拗に思い出させてくるようだった。
冷気はますます鋭く感じられた。
クリスマスの灯りが赤と青に瞬き、絶え間なく降る雪の粒を照らす。
地面は白く覆われ、肩や髪にも雪が積もっていく。
ハルは動かなかった。
その冷たい重みが、自分の心の中の重さとぴったり重なっているように感じたからだ。
「……くだらない」
彼はかすれた声で呟いた。
「何度死んでも……まだ、痛いなんてな。」
雪は静かに、そしてゆっくりと降り続けた。
その白は、すべての汚れも、痛みも、血の跡さえも覆い隠す。
だがハルにとっては、それはただの皮肉だった。
何度運命を洗い流そうとしても、結局は失敗し続けたという事実を思い出させるだけだった。
時間が過ぎていった。
人々は行き交い、笑い、友人と写真を撮り、寒さの中で抱き合っていた。
それでもハルは動かず、灰色の空を見上げ続けていた。
そのとき——静寂を破るように、柔らかな声が聞こえた。
——「ねぇ……そんなふうにしてたら、風邪ひいちゃうよ。」
ハルは瞬きをし、現実に引き戻された。
顔を向けると、明るい茶色の髪の少女が立っていた。
ベージュのコートに白いマフラー、小さな手には新しそうな手袋。
その腕には数冊の本が抱えられていた——その瞬間、ハルの心臓が一瞬だけ跳ねた。
「この子は……」
彼は思い出した。
本を持った少女。
別のループで——彼は彼女を見た。
死んでいた姿で。
反応する前に、彼女は少し身をかがめてハルの肩の雪を払った。
控えめな笑顔を浮かべながら。
「はい……これで少しは生きてる感じがするでしょ。」
彼女は少し恥ずかしそうに一歩下がった。
「ごめんね……余計なお世話だったかな。でも、あまりにも凍えてるみたいだったから、つい。」
ハルはしばらく黙って彼女を見つめた。
胸の中はまだ重かったが、その光景はあまりにも——人間らしかった。
長い間、痛みと絶望の循環に囚われていた彼にとって、その小さな優しさは防御を解かせるほどだった。
彼はかすかに笑った。
「……大丈夫。ありがとう。」
彼女もまた笑った。その笑顔は軽やかで、しかし真っすぐだった。
「よかった。本気で氷の人に話しかけてるのかと思った。」
その冗談は単純だったが、ハルは思わず笑ってしまった。
不思議なことに、その笑いは懐かしくも感じられた。
しばらくの間、ハルはただ彼女を見つめた。
風が彼女の髪を揺らし、街灯の光が雪を照らし、小さな星が降ってくるように輝いていた。
彼女は、ただの記憶ではなかった。
今、確かにここに生きている。
——「それで……」
彼女は本を抱え直しながら言った。
「大丈夫? なんだか迷ってるように見えたけど。」
ハルは視線を下げた。
「……大丈夫になろうとしてる。」
「なろうとしてる?」
彼女は小首を傾げた。
「ってことは、あんまりうまくいってないってこと?」
ハルは短く苦笑した。
「まぁ……そんなところ。」
彼女は少しの間彼を見つめ、それからそっとベンチに座った。
膝の上に本を置きながら。
ハルは驚いたように見つめた。
「こういうときはね……」
彼女は空を見上げながら言った。
「一人でいないほうがいいの。」
それからハルのほうを向いて、微笑んだ。
「誰かと話したほうが楽になることもあるよ。愚痴でもいいし。」
自分の胸を軽く叩いた。
「聞くの、得意だから。」
ハルは深く息をついた。
拒みたい気持ちもあった。
だが、彼女の存在には不思議な落ち着きがあった。
まるで世界が一瞬、止まったように。
「……もし話したら」
ハルは低い声で言った。
「君はきっと、信じないと思う。」
彼女はくすっと笑った。
「それでも、話してみて。」
「どうして?」
「私、物語が好きなの。」
彼女は雪明かりに輝く瞳で彼を見つめた。
「たとえ作り話でもね、真実よりもその人を表すことがあると思うの。」
マフラーを直し、微笑んだ。
「それで……あなたの物語は何? 雪の中の見知らぬ人。」
ハルは少し迷った。
けれど、彼は語り始めた。
「……すべては、時間が俺を弄び始めたときから。」
彼女は興味深そうに眉を上げた。
ハルの声は震えていたが、次第に落ち着いていった。
彼はループについて語った。
同じ日々を何度も繰り返すこと。
死んで、また目覚めること。
痛みが何よりもリアルだったこと。
影から見つめる何者かの存在、そして、どれほど抗っても運命を変えられなかったこと。
彼女は黙って聞いていた。
驚いたり、拳を握ったりする瞬間もあったが、決して笑わなかった。疑いもしなかった。
ただ、静かに聞いていた。
「……それで今日、すべてを止められると思ったんだ。」
ハルは続けた。
「でも失敗した。容疑者は逃げた。」
自嘲するように笑った。
「おまけに、愛していた人が……他の男といた。」
その声が冷たい夜に響いた。
ハルはため息をつき、雪の溶ける手のひらを見つめた。
「おかしいよな。何度死んでも、何度生き返っても、同じものを失うんだ。」
沈黙が流れた。
その沈黙は、なぜか穏やかだった。
彼女は顎に手を当て、少し考え込んだ。
「……じゃあ、あなたは悲劇の主人公だね。」
彼女は少し明るく言った。
「私が読む小説みたい。誰も覚えていない中で、誰かを救おうとする少年。」
そして微笑んだ。
「悲しいけど、きれい。」
ハルは驚いて彼女を見た。
「……君は、信じてるのか?」
彼女は肩をすくめた。
「“信じる”って言葉が合ってるかは分からないけど——」
彼をまっすぐ見つめた。
「あなたの話し方が本当なんだと思えるの。だから、嘘だなんて言いたくない。」
そして微笑んだ。
「たとえ作り話でも、聞く価値のある物語だよ。」
その言葉に、ハルは言葉を失った。
冷たさが少しだけ和らいだ気がした。
彼女の瞳の奥に——希望があった。
ハルは小さく息をつき、微笑んだ。
「……君は、変わってるね。」
「よく言われる。」
彼女は笑った。
「だから本ばかり読んでるのかも。登場人物たちは、何があっても前に進もうとするでしょ。」
彼女は空を見上げた。
雪が顔に落ちても、目を閉じずに受け止めていた。
「ねぇ、そういうところが物語の美しさだと思うの。
結末が決まっていても、登場人物たちは、それを変えようとする。」
ハルは黙って彼女を見つめた。
その言葉が、心の奥で響いた。
「——変えようとし続けること。」
もしかしたら、それが答えなのかもしれない。
明日が消えると分かっていても、彼はまだ挑める。
死ぬと分かっていても、戦える。
「ねぇ……あなたの名前は?」
彼女が尋ねた。
「ハル。」
「君は?」
彼女は微笑んだ。
「サヤカ。」
「サヤカ……」
その名が、胸の奥で静かに響いた。
もしかしたら、彼女は——彼が救えなかった命のひとつだったのかもしれない。
ハルは彼女を見つめた。
久しぶりに、絶望ではなく感謝を感じた。
生きてくれていることに。
話を聞いてくれたことに。
風が強く吹き、二人は肩をすくめた。
サヤカは笑い、本を胸に抱えた。
「そろそろ行かなくちゃ。」
彼女は優しい眼差しで言った。
「でも、ハル……あなたの話を聞けてよかった。」
雪を踏みしめながら一歩下がった。
「もしそれが本当なら、いつか違う結末を見つけてね。
——価値のある結末を。」
ハルは黙って彼女を見送った。
雪に覆われた歩道を、サヤカが歩いていく。
街灯が雪に反射し、彼女の周りに淡い影を落とす。
その背中を呼び止めたい衝動があった。
けれど、言葉は喉で止まった。
——もしかしたら、今回はそれでいいのかもしれない。
彼女が、痛みも終わりも知らないまま、生きられるように。
サヤカの姿が角を曲がり、消えた。
ハルは深く息を吸い、空を見上げた。
雪はまだ降り続けていた。
静かに、世界を白く塗り替えながら。
彼は目を閉じた。
「——変えようとし続けること。」
サヤカの声が心に響く。
そうだ。彼はまだ、挑める。
どんなに残酷な運命でも——彼は戦うだろう。
たとえ、もう一度死ぬことになっても。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます