海と記憶の残響(エコー)
時間が止まっていた。
ループの時間ではない。――ハル自身の中の、時間が。
彼は歩道の真ん中に膝をつき、震える脚を押さえながら、虚空を見つめていた。
通り過ぎる人々は、まるで彼をただの障害物のように避けて歩く。
「おい、坊主、邪魔だぞ!」
スーツ姿の男が苛立ちまぎれに肩を押した。
「道の真ん中で突っ立ってんじゃねぇよ、バカか?」
「みんなの迷惑だっての!」別の声が吐き捨てる。
だが、ハルは何も答えなかった。
動くこともできなかった。
車の音、人の足音、無数の声――すべてが遠く、くぐもって聞こえる。
まるで水の底に沈んでいるようだった。
――「すべては死へと繋がる。」
その言葉が、呪いのように脳裏で反響していた。
何をしても結果は同じ。
戦っても、逃げても、諦めても。
待っているのは、死。
そして、再び始まる痛み。
けれど――どこかで微かに感じていた。
もしかしたら……ほんのわずかでも、抜け出す道があるのかもしれない。
「運命を変えられるものがあるとすれば――」
「それは、俺が変わることだけだ。」
その言葉が心の奥に残り、静かに燃え続けた。
どれほどの時間が経ったのか、もう彼自身にも分からない。
それでも、ハルは初めて空を見上げた。
夕日が沈みかけ、雲を橙と紫に染めていく。
何も考えず、ただ足を動かした。
――数時間後。
ハルは海辺にいた。
冷たい砂が足の裏に触れ、潮風が頬を打つ。
波の音だけが、頭の中の静寂を満たしていた。
彼はそのまま砂の上に仰向けに倒れ、空を見上げた。
夜がゆっくりと降りてくる。
星が一つ、また一つ、控えめに光を放ちはじめた。
「……もう、ずいぶん経ったな。」
虚ろな笑みとともに、呟く。
思考が少しずつ、記憶と混ざり合っていく。
この海、この空気――
記憶が蘇る。まるで時間が巻き戻ったかのように、鮮明に。
あれは遠い夏の日だった。
母はまだ生きていて、家族全員で海へ行った。
リナと彼女の両親も一緒だった。
笑い声、波の音、日焼け止めの匂い。
小さなリナが、不器用に砂の城を作りながら笑っていた。
そして母は、パラソルの下で穏やかに彼らを見守っていた。
「ハル、見て! このバケツ、めっちゃ大きい!」
リナは水をこぼしながらはしゃぐ。
「入れすぎだって! 崩れるぞ!」
「じゃあ手伝ってよ、ハル!」
そう言って、彼に砂を投げつける。
笑い声が風に乗って響き渡る。
その喧噪の中で、ハルは母を見つめた。
髪はまとめられ、肩には薄いスカーフ。
病気で弱っていたのに、それでも来てくれた。
母は海が好きだった。
そして何より――ハルが笑う姿を見るのが、もっと好きだった。
その笑顔は、心を温める灯のようで。
「大丈夫だよ」と、静かに語りかけているようだった。
けれど――それが最後の夏だった。
彼が覚えている中で、最後の笑顔。
波が満ち、冷たい水が指先に触れる。
ハルは目を閉じ、こみ上げる涙を押さえきれずに呟いた。
「……母さん。もしできるなら、もう一度……笑ってる顔が見たいよ。」
その瞬間、風が吹いた。
どこかで、優しい笑い声が聞こえた気がした。
――遠い過去の残響のように。
どれだけの時間が経ったのか分からない。
気づけば夜は深く、遠くの街の灯りが海面に映っていた。
ハルはそのまま、砂の上に横たわって空を見上げた。
月が雲間から顔を出し、冷たく世界を照らす。
深く息を吸い込む。潮と冷気が肺を満たした。
「結局……何をしてもダメなんだな。」
「でも……それでも、まだ変えられることがあるかもしれない。」
その声は波音に飲まれ、消えていった。
一瞬だけ、世界が静まった。
ループも、痛みも、繰り返しもない。
ただ彼と、静寂だけがあった。
――その夜、ハルは家に戻った。
通りは人影もなく、夜風が針のように肌を刺す。
ドアを開けると、迎えてくれたのは闇と、自分の足音だけ。
小さな家。両親から受け継いだもの。
白い壁、擦り切れたソファ、一脚だけの椅子。
時間が止まったような部屋だった。
ベッドの端に腰を下ろし、部屋を見渡す。
積み上げられた本、めくられないカレンダー、止まった時計。
そのすべてが、彼の心の状態を映していた。
「……俺、本当に、生きてるのかな。」
「ただ“存在してる”だけじゃないか。」
静寂の中、自分の声が妙に響いた。
ふと、あの“存在”の言葉を思い出す。
――「お前は、まだ変われる。」
ハルは天井を見つめ、息を吐いた。
もしかしたら、本当にこれが最後のチャンスなのかもしれない。
そう思った瞬間――家の奥から声が聞こえた。
低く、遠く。けれど、はっきりと耳に届く。
「……随分、考えたみたいだな、ハル。」
ハルは飛び上がるように立ち上がり、辺りを見回した。
「誰だっ!? そこにいるのか!?」
返事はない。
ただ、半開きの窓から夜風が吹き込むだけ。
「そろそろ……また始めようか。」
今度はすぐそばで、囁くように。
――パキン。
乾いた音が響く。
聞き覚えのある、あの音。
空気が揺らぎ、世界が光の欠片に崩れていく。
ハルは叫ぼうとしたが、その声は届かなかった。
白い光がすべてを覆い、
冷たさも、波の音も、消え去った。
そして――最後の声が響く。
「……おかえり。これで五度目のループだ。」
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