箱
@0987yumi
箱
第一章 小さな箱
朝の光は白くて冷たかった。
私は、みんなと一緒に昇降口へ向かわず、校舎の裏へまわる。
私の好きな場所だ。
草が伸びすぎて、三角に取り残されたような小さな空き地。
風が吹くと、草の先が一斉に揺れて、音がざわざわと集まる。
誰もいない時間を見計らって、私はしゃがみ込んだ。
目をこらすと、一匹のバッタが見える。
いつもだいたい同じ場所にいる。
じっとしていて、逃げようともしない。
両手でそっと捕まえると、冷たい脚が指先にふれた。
心臓が小さく跳ねる。
校舎裏の倉庫には、私の箱がある。
お菓子の空き箱に透明なビニールを貼って、小さな穴を開けた。
誰にも見せたことがない、私だけの観察箱だ。
箱の中に一匹を入れると、しばらくは何もしない。
角のほうで、草の茎をかじるだけ。
でも、二匹入れると、すぐに変わる。
羽と脚がぶつかって、かすかな音が生まれる。
それは教室のざわめきよりも、ずっとはっきりと聞こえた。
チャイムが鳴る。
昇降口へ吸い込まれていく生徒たちの背中を横目に、私は箱のふたを閉めた。
風が止むと、草のざわめきもぴたりと消えた。
空気が一瞬だけ、きしむような音を立てた気がした。
第二章 教室という箱
教室のドアを開けた瞬間、空気が少しだけ重くなる。
朝の光は窓からまっすぐ差し込んでいるのに、教室の中だけが少し濁っているみたいだった。
私の机は、いつのまにか列の端にずれていた。
ほんの少し。でも、その「少し」が、胸の奥でひっかかる。
昨日までは、ちゃんとまっすぐ並んでいたのに。
声をかけても、返事はない。
誰も、意地悪な顔をしているわけではない。
ただ、目を合わせないまま、ひそひそと何かを話している。
笑い声が教室の隅で弾けると、そこから波のように他の声が連なっていく。
まるで決められた合図があるみたいに。
黒板の文字、チョークの音、イスを引く音。
そのすべてが、私だけに少し遅れて届く。
世界がほんの少しだけ、ズレている。
放課後、私はいつもの場所へ向かった。
箱のふたを開けると、中には二匹のバッタがいた。
昨日より、少しだけ元気がない気がする。
一匹が草をかじっていると、もう一匹が近づいてくる。
触角がふれた瞬間、箱の中が急にざわめいた。
羽と脚がぶつかり合って、乾いた音が小さく響く。
私は、その音をじっと聞いていた。
まるで、教室の中にいるときのあの笑い声みたいに、どこからともなく広がっていく音だった。
箱の中を覗き込んでいると、壁の隙間から風が吹いてきた。
私の心臓の音が次第に大きくり、不安が降りる。
第三章 箱を開ける
最近、教室にいると、呼吸の仕方を忘れることがある。
黒板に向かって先生が話していて、チョークの音が響いているのに、言葉が頭に入ってこない。
教室に溢れかえる笑い声が、ひとつの塊になって空気に馴染んでゆく。
やがて声は膨張し、みんなの放った悪口も交え、何かを始める。
ある日、私の机の中に、折れた鉛筆がぎっしり詰められていた。
誰がやったのかは、すぐにわかった。でも、何も言わなかった。
言葉を出した瞬間、何かが壊れそうな気がしたからだ。
みんなの視線は、いつもと変わらない。誰も、こちらを見ない。
その「見ない」感じが、何よりも冷たかった。
放課後、私は校舎の裏にまわった。
倉庫に入り、箱のふたを開けると、中のバッタが五匹になっていた。
一匹ずつ捕まえて入れていくうちに、数が増えたことに気づく。
バッタは、一匹で行動する昆虫だ。多分、一匹が好きなのだ。それなのに、ある数を超えると、まるで合図を受け取ったみたいに行動が変わる──図書館の昆虫の本にそい書いてあった。
群れると、色も変わって、凶暴になる。
なぜなのかは、まだ誰にもわかっていないらしい。
箱の中でも、それは起きていた。
最初のうちは、お互いに距離をとっていた五匹が、急に動き始めた。
脚と羽がぶつかり合い、音が箱の内側で跳ね返る。
草をかじっていた一匹が、別の一匹を押しのけた。
透明なビニール越しに、乾いた羽音が耳に響く。
私はその音を、ずっと聞いていた。
教室の笑い声と同じだった。
誰が始めたかわからないのに、ひとつの方向へ広がっていく。
気づいたときには、私以外の全員が同じ呼吸をしていた。
ふたを閉めたとき、またどこからか、風が吹いてきた。
箱の中から、羽のこすれる音がかすかに聞こえた。
第4章 記憶の箱
放課後の校舎は、いつもより静かだった。
昇降口のドアが閉まる音が、やけに遠くで響いた。
私は、倉庫に置いてあった箱を抱えて、校舎の裏へまわった。
風が強くなっていて、草の波が何度も打ち寄せてくるようだった。
箱のふたを開けると、中でバッタたちがざわめいていた。前に見た時よりも一回り大きかった。
五匹の羽が擦れ合って、乾いた音が小さく続いている。
この音を聞くのも、今日で最後にしようと思った。
一匹をそっと手に取って、校舎裏の柵を越えた先の草むらに持っていく。
掌から離れた瞬間、バッタは勢いよく跳ねて、草の影に消えた。
二匹目、三匹目も、順番に。
逃がすたびに、箱の中の空気が少しずつ軽くなっていく気がした。
四匹目を放したあと、ふと振り返ると、あの木が見えた。
私がいつも座っていた、あの木。
去年、あの子が……と、誰かが囁いていた声が頭の奥によみがえる。
風が一瞬止まった。
草の音も、虫の羽音も消えた。
最後の一匹を手に取る。
他のバッタより少し小さい。
逃がそうとしても、なぜか跳ねなかった。
そのとき、木の枝が、何かに引かれたように揺れた。
音はしないのに、葉だけがざわめいていた。
私は、その小さなバッタを木の根元まで持っていった。
手を離すと、羽が一度だけ震えて、闇にとけた。
箱 @0987yumi
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