第2話 ――その日、最後の夜
執務室の窓辺に座ったネコマタは、首相官邸を取り巻く静寂の中に、不穏な空気を嗅ぎ取っていた。二つに分かれた尻尾が微かに震える。
「……そろそろ、来るみたいだね」
数日前、ネコマタは智朗のところに反政府のテロリスト集団が迫っていることに気づき智朗に病より先に寿命を迎えることを伝えていた。
ネコマタの声に、智朗は手元の日記から顔を上げた。顔色は青白く、痩せ細った体は痛々しい。しかし、その瞳には不思議なほど穏やかな光が宿っていた。
「ああ、そうか。ご苦労様、ネコマタ」
智朗は微笑んだ。その表情には、もはや死への恐怖はなかった。ただ、やり残したことへの後悔と、小さな喜びが入り混じっていた。
「ナタリアのことは、親友に頼んでおいた。あの子なら、きっと大丈夫だ」
「……それでいいの? まだ、生きられるかもしれないのに」
ネコマタは、智朗の決断を問いかけた。智朗の体は、まだ死には至っていない。化け猫の力を使えば、延命させることも不可能ではない。だが、智朗は静かに首を横に振った。
「ネコマタ、君は知っているだろう? 私はもう十分生きた。これ以上、延命して何になる。それに、もう十分、君とナタリアと過ごせて、幸せだった」
ネコマタは何も言えなかった。智朗の言葉には、嘘偽りがない。末期がんの宣告を受け、死を待つだけだった男の人生に、二つの小さな光が差した。それが、彼にとっての全てだったのだ。
「ネコマタ……」
智朗は、ネコマタに視線を向けた。
「君は、私と出会って、どうだった?」
ネコマタは、少し考えた後、答えた。
「……つまらなかったよ。喰おうと思ってたのに、死にかけだったんだもん。とんだ期待外れだよ。それに、ナタリアっていう小さなニンゲンと、あんたの、おかしな愛情に、ちょっとだけ、心が揺らいだ」
智朗は、穏やかに笑った。ネコマタも、そんな智朗に、少しだけ微笑んだ。
「そうか。それは、よかった」
その夜、首相官邸に、複数の人影が忍び込んだ。テロリストたちだ。ネコマタは、窓辺から、その様子をじっと見つめていた。
「来るよ、智朗」
ネコマタの声に、智朗は立ち上がった。病に侵された体は、ふらつき、今にも倒れそうだ。しかし、智朗は震える手で、壁に掛けられた日本刀を手に取った。
「居合は、座った状態から一瞬で敵を斬る武術。まだ、やれる」
ネコマタは、そんな智朗の覚悟に、何も言わなかった。ただ、智朗の足元に寄り添い、共に戦うことを決意した。
「よし、ネコマタ。最後の舞台だ」
智朗はそう言って、日本刀を構えた。その姿は、病に侵された首相ではなく、一人の武士だった。
テロリストたちが執務室のドアをこじ開け、侵入してきた。智朗は、静かに構えた。
「――参る!」
智朗は、一瞬の隙をついて、テロリストの一人を斬り倒した。居合の技で、一撃で仕留めたのだ。しかし、多勢に無勢。智朗の体は、次の瞬間、複数の銃弾を浴びた。
「智朗!」
ネコマタは叫んだ。しかし、智朗の体は、ゆっくりと床に倒れていく。
「……ネコマタ……あとは、頼んだぞ……」
智朗は、最後の力を振り絞り、ネコマタにそう告げた。ネコマタは、智朗の言葉に、激しい怒りを覚えた。
「許さない……絶対に許さない!」
ネコマタは、本来の姿を現した。漆黒の巨大な化け猫の姿に、テロリストたちは恐怖で固まった。ネコマタは、鋭い爪と牙で、テロリストたちを次々と引き裂いていった。
「うわああああああああああああああ!」
テロリストたちの悲鳴が、首相官邸に響き渡る。ネコマタは、銃弾を浴びながらも、全てのテロリストを殲滅した。
そして、ネコマタは、智朗のそばに寄り添い、猫の姿に戻った。智朗の体は冷たくなっていた。ネコマタもまた、力尽き、智朗と重なり合うようにして、息絶えた。
翌朝、警察官が駆けつけた。そこには、日本刀を握った元首相と、一匹の猫が、十人近いテロリストたちと共に、息絶えていた。
「な、なんだ、これは……」
現場検証に当たった警察官たちは、誰もが言葉を失った。テロリストたちの遺体には、まるで猛獣に襲われたかのような傷跡が残されていた。だが、首相のそばに死んでいるのは、ただの飼い猫。
「……不可解な事件だ」
誰もが首を傾げた。しかし、その理由を知る者は、もう誰もいなかった。
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