化け猫と首相の最後の夜

八幡太郎

第1話 首相とネコマタと、終わりの始まり

 智朗は、首相官邸の執務室で重い溜息をついた。余命三カ月。末期がんが蝕む体は、もう長くはもたない。


 窓の外では、秋の冷たい風が街路樹の葉を揺らしている。まるで、自分の人生の終わりを告げるかのようだ。


 そんなある日、官邸の庭に一匹の雌猫が現れた。漆黒の毛並みに、すらりと伸びた二つの尻尾。優雅な身のこなしで窓辺に飛び乗ると、ガラス越しに智朗をじっと見つめた。


「あら、ご苦労さま、首相さん」

 次の瞬間、猫は口を開いた。智朗は驚きよりも先に、その声の響きの美しさに耳を奪われた。


「まさか、猫が喋るとはな」

「こちらこそ、まさか、首相が余命わずかだとはね。私はネコマタ、化け猫さ。君を食べに来たが、死にかけの人間は美味くないから止めたよ

。私を怖がらない人間は初めて見た。興味深い、しばらく、ここに留まろう」


 ネコマタはそう言いながら、智朗に近づいた。智朗は穏やかに笑う。


「食べ損ねたのは、残念だったね。確かに、もうすぐ、この体は空っぽになる」


 ネコマタはつまらなそうに鼻を鳴らした。それからというもの、ネコマタは智朗の執務室の窓辺に居つくようになった。


 智朗はネコマタに、日々の出来事を話して聞かせた。まるで、昔からの友人のように。


 ある日の午後、官邸に一人の少女が身を寄せてきた。東ヨーロッパの戦火を逃れてきた、ナタリアという名の難民の少女だ。怯えきった表情のナタリアを、智朗は優しく迎え入れた。


「大丈夫だよ。ここは安全だ」


 智朗がナタリアを優しく気遣う姿を見て、ネコマタは窓辺からそっと目を逸らした。智朗は多忙な政務の合間を縫って、ナタリアと過ごす時間を大切にした。共に庭を散歩し、絵本を読み聞かせた。


「智朗、おじいちゃんは、いつまでここにいるの?」

「……さあ、どうだろうな」


 ナタリアの無邪気な問いに、智朗は言葉を濁した。ネコマタは、そんな智朗の変化をじっと見つめていた。死を静かに受け入れていた男の顔に、いつしか、生への執着が宿り始めていた。


「ねえ、人間。あんた、まだ死にたくないんでしょ?」

 夜、誰もいなくなった執務室で、ネコマタが智朗に問いかけた。


「……否定はしないさ。ナタリアや君と、もう少しだけ、一緒にいたい」

「ふーん」

 

 ネコマタは照れくさそうに尻尾を揺らした。智朗は日記をつけ始めた。


 そこには、ネコマタやナタリアと過ごす穏やかな時間が、彼に残された人生に、どれほどの彩りを与えてくれたかが記されていた。

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2025年12月9日 18:12
2025年12月10日 18:12

化け猫と首相の最後の夜 八幡太郎 @kamakurankou1192

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