第六章 暁の誓い

 夜明けが、山々を越えてやってきた。

 風が冷たく、空はまだ薄い橙に染まっている。

 森を抜けたセーブルとヴァートは、小さな村の入り口に立っていた。


 霧の奥で、鐘の音が鳴る。

 それはどこか懐かしい——

 死の国にいた彼らが、長く忘れていた“生者の音”だった。


「……人の集落に来るのは久しぶりだな。」


 セーブルが小さく呟く。

 ヴァートはフードを被り、翠の瞳を隠すように歩いた。


『こんなに光が眩しいなんて、知らなかった。』


「お前の世界は、夜しかなかったからな。」


 小道を進むと、石造りの家々から煙が上がっている。

 パンを焼く匂い、子どもの笑い声、家畜の鳴き声——

 それらすべてが、ヴァートには新鮮だった。


『……ねぇ、セーブル。』


「ん?」


『“生きてる”って、こういうことなんですね。

 誰かが笑って、誰かが泣いて。

 それでも朝が来る……。』


「そうだな。」


 セーブルの声はどこか柔らかかった。

 かつて“死”を束ねていた男の声とは思えないほどに。


 村の奥、祈祷堂の前でひとりの青年が立っていた。

 白い外套をまとい、腰には簡素な剣。

 灰色の瞳が、静かに二人を見つめている。


「旅の者か。」


「ああ。」


 セーブルが短く答える。

 青年は名を名乗った。


「リアン。

 この村で、死神を祓う祈りを司っている。」


 その言葉に、セーブルの眉がわずかに動いた。


「死神を祓う、ね。」


「……君のその右眼、見覚えがある。

 “拒絶の魔眼”だな。

 本来なら、人の前に現れるべき存在じゃない。」


 リアンの声は穏やかだったが、眼差しは鋭い。


『貴方……死神を知っているのですか?』


 ヴァートが問う。

 リアンは頷いた。


「祖父が、かつて死神に魂を奪われた。

 だから、私は祈り人として彼らの干渉を防ぐ術を学んだ。

 けれど——」


 彼は一歩近づき、ヴァートを見た。


「君の中に、“死”ではなく“生”の気配を感じる。

 それは……何だ?」


『私は、死神に使われるための“武器”でした。

 でも今は、彼と生きるためにここにいます。』


 リアンの表情が僅かに揺れた。


「……生きるため、か。」


 その言葉を反芻するように、青年は空を仰ぐ。


 セーブルは短く息をついた。


「人間の祈りってやつは、死神に効くのか?」


「本来はな。

 だが、君は“死神”であって、“死”じゃない。

 拒絶の魔眼——それは世界の理を否定する力。

 本来なら存在し得ない“異端”だ。」


「じゃあオレは、祈りも罰も通じねぇってことか。」


 セーブルは笑った。

 リアンは苦い表情を浮かべる。


「そう願いたいが……

 死神の“理”を拒んだ者は、いつか“生”にも拒まれる。」


『それって……どういう意味ですか?』


「“拒絶”を続ければ、いずれこの世界から切り離される。

 つまり、存在が消えるということだ。」


 ヴァートの瞳が見開かれた。


『……セーブルが、消える?』


「黙ってろ、ヴァート。」


 セーブルは短く制したが、その声はどこか震えていた。

 彼自身も気づいていたのだ。

 最近、風を掴む感覚が薄れ始めていることを。

 右眼を使うたびに、世界がほんの少し“遠ざかる”ことを。


 夜。

 二人はリアンの庵に泊められた。

 火の光が壁にゆらめき、雨の音が屋根を叩く。


 ヴァートは眠れず、窓辺で外を見ていた。

 セーブルが背中越しに声をかける。


「……気にすんな。オレは消えねぇ。」


『嘘です。貴方、少しずつ薄くなってます。

 気づいてないと思ってたんですか?』


「ヴァート……」


『貴方が世界を拒むたびに、

 貴方自身が“世界から拒まれてる”。

 それがこの力の代償なんでしょう?』


 沈黙。

 炎のはぜる音だけが響く。


 セーブルはやがて、微かに笑った。


「オレは、死神をやめた。

 “生”を選んだのは、お前と出会ったからだ。

 だから——

 この命が消えるその時まで、お前の隣にいる。」


 ヴァートの瞳が潤む。


『……ずるいです。そう言われたら、

 私、もう泣くことしかできません。』


 彼女の頬を、透明な雫が伝った。

 その涙が膝の上に落ち、鈴の音が鳴る。


 ——チリリ。


 その音が、誓いのように響いた。


『ねぇ、セーブル。

 貴方がいなくなる前に、私も“生きる理由”を探していいですか?』


「探せ。

 オレが消えたとしても、お前の“生”は続く。」


『違います。

 貴方がいない世界なんて、意味がない。

 でも……それでも、生きていたいと思う私でいたい。』


 セーブルは彼女の頭に手を置く。

 その手は温かく、確かだった。


「いいさ。

 じゃあ、オレも一緒に探してやる。

 お前が“生きる理由”を見つけるその日まで——。」


 炎が静かに燃える。

 夜が明ける。


 窓の外、朝の光が差し込んだ。

 その光の中で、鈴がもう一度鳴る。


 ——チリリ……


 それはまるで、

 二人が“生きる世界”を肯定する音だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る