第五章 契りの鈴音

 雨が降っていた。

 灰色の雲が山の稜線を覆い、木々の葉が濡れている。


 セーブルは焚き火の火を守るように、肩をすくめた。

 小さな洞窟の奥で、ヴァートが丸くなって眠っている。

 その胸の奥で、淡い翠の光が脈を打っていた。


「……まだ、落ち着いてねぇか。」


 セーブルは呟く。

 彼女の魂核が暴走した影響で、体の魔力は不安定なままだ。

 それでも呼吸は穏やかで、顔にはわずかに安堵の色がある。


 ——あのとき、もし拒絶が間に合わなければ。

 ヴァートの“魂”も、“世界”も、きっと砕けていただろう。


 セーブルは、火の揺らぎを見つめながら小さく息を吐いた。


「オレは、何を守ったんだろうな……。」


 かつての死神としての本能が囁く。

 “死を拒む”など、存在の否定だ。

 それでも彼は、刃を置くことを選んだ。


 火がはぜる音に混じって、鈴の音が微かに響く。

 ヴァートの手首につけた小さな銀の鈴——

 それは、セーブルが彼女を助けた夜、落ちた鎌の鈴を細工したものだった。


 彼は手を伸ばし、そっとその音を確かめる。


 その瞬間、ヴァートが目を開けた。

 翠の瞳が炎の光を映し、柔らかに瞬く。


『……貴方、寝ていないのですか?』


「寝たら、火が消える。」


『火ぐらい、私が……』


 そう言いかけて、ヴァートは言葉を止めた。

 視線を落とし、自分の両手を見つめる。

 指先には、まだ微かに残る焦げ跡。

 自分が“暴走”したとき、セーブルを焼いた痕だ。


『……怖かったんです。』


「何が?」


『あのとき、自分が貴方を“壊す”かもしれないって。

 ……私、結局、武器としてしか動けなかった。』


 セーブルは立ち上がり、火のそばに座るヴァートの隣に腰を下ろした。

 雨音が洞窟の外を叩いている。


「お前、勘違いしてるな。」


『え……?』


「オレは、壊されるのは怖くねぇ。

 何も残さず“斬る”のが怖いんだ。」


 ヴァートがゆっくりと顔を上げる。

 セーブルの左目が、火の光を映していた。


「オレたち死神は、“終わり”しか見てこなかった。

 けど、お前が生きようとしてくれた時——

 オレは、初めて“始まり”ってもんを見た気がした。」


 ヴァートの瞳が潤む。

 涙が頬を伝い、火の光を弾いた。


『……セーブル。

 もし、貴方がもう一度、刃を握る時が来たら——

 私はその手を導きたい。

 命を奪うためじゃなく、命を守るために。』


 セーブルは小さく笑う。


「なら、それが“契約”だな。」


 彼は懐から黒い布を取り出す。

 右目の眼帯だった。

 裂け目が入り、もう再利用できないほど傷んでいた。


「死神としての“枷”を外した証に、これをくれてやる。」


 ヴァートがそれを受け取る。

 布に残る血と灰の匂い——それは彼の過去の象徴。


『……重いです。』


「それでいい。

 オレたちの契約は、軽くねぇ方がいい。」


 外の雨が止んだ。

 雲が切れ、月が顔を出す。

 ヴァートが洞窟の外へ出ると、湿った空気が肌を撫でた。

 セーブルも後に続く。


『……綺麗ですね。』


「お前、雨が好きか?」


『はい。

 生きてるものだけが、濡れて温かいままでいられる気がします。』


「……詩人かよ。」


 ヴァートは微笑む。

 その笑顔を見て、セーブルもふと肩の力を抜いた。


 風が吹く。

 鈴が鳴った。


 ——チリリ……


 その音は、まるで二人を祝福するかのように澄んで響いた。


『セーブル。』


「なんだ。」


『もし、もう一度この世界に“死”が溢れたら——

 そのときは、私が貴方の刃になります。

 でも、戦う理由はひとつだけにしてください。』


「ひとつ?」


『“生きたい”って思うために。』


 セーブルはゆっくりと頷いた。


「……ああ、約束だ。」


 ヴァートが笑った。

 月光が二人の影を重ねる。


 夜風が抜け、鈴の音が静かに遠ざかる。


 そして、死神と武器の物語は——

 “死”ではなく“生”から始まる物語へと、形を変えていった。

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