第七章 消えゆく者、残る声

 春の風が吹いていた。

 小さな村を包んでいた雪が溶け、土の匂いが戻る季節。

 だが、その温もりとは裏腹に——

 セーブルの影は、日に日に薄くなっていた。


 ある朝、ヴァートが目を覚ますと、

 寝台の隣にいるはずのセーブルの姿が、霞のように揺らいでいた。


『……セーブル?』


「ああ、起きたか。」


 いつも通りの声。

 けれど、その声に微かな“距離”があった。


 ヴァートが手を伸ばす。

 けれど、触れた指先が彼の輪郭をすり抜けた。


『……嘘。』


「大丈夫だ。まだ完全には消えてねぇ。

 ただ……世界が、オレを忘れ始めてる。」


 穏やかな声だった。

 まるで、彼自身がそれを受け入れているかのように。


『どうして……! どうして笑っていられるんですか!』


「笑ってなきゃ、お前が泣くだろ。」


 ヴァートの胸が締め付けられた。

 どんな戦いよりも、どんな痛みよりも、

 この“すり抜ける温度”が、恐ろしかった。


 その夜、リアンが村の外から戻ってきた。

 祈祷堂の鐘が鳴り響く。


「……来るぞ。」


「誰が?」


「〈リーパーズ〉だ。残党じゃない。——“上位部隊”だ。」


 リアンの顔には焦りがあった。

 〈リーパーズ〉がこの村を突き止めた理由は一つ。

 “拒絶の魔眼”が再び活動した痕跡を感知したのだ。


『セーブル……戦うのは、もう無理ですよね。』


「ああ。

 力はもう、ほとんど世界の外だ。

 “拒絶”すれば、オレが完全に消える。」


『……なら、私が。』


「お前が?」


『今度は、私が貴方の代わりに戦います。

 貴方が世界を拒むなら、私は——“貴方を受け入れる”側になります。』


 ヴァートの瞳が静かに光った。

 翠の光は、涙ではなく決意の色を宿していた。


 夜明け前。

 村の外れで、霧が揺れた。


 黒い鎧の死神たちが整列している。

 その中央には、見覚えのある仮面の男がいた。


 イシュト=ルガン。

 かつてセーブルを追った男。

 だが、その瞳の光は以前よりも穏やかだった。


「……セーブル。」


 イシュトの声は低く、悲しみを帯びていた。


「お前の“拒絶”の余波で、多くの死神が目を覚ました。

 “死”を仕事としか思っていなかった我々が……

 “恐れ”を感じるようになった。」


「……皮肉だな。

 オレが拒絶したことで、死神が“生”を感じるとは。」


「お前はもう、この世界には長くいられない。

 だが——お前の“存在”を記録に残すことならできる。」


 イシュトが胸の奥から小さな黒い石を取り出す。

 それは“魂録石(コンダクター)”——

 死神の存在の一部を、世界に刻むための結晶。


「ヴァート。」


『……はい。』


「こいつをお前の核に組み込め。

 セーブルの記憶が、お前の中で生き続ける。」


『……そんなことをしたら、私は——!』


「壊れねぇよ。」

 セーブルが微笑む。

「お前は強い。“死”を拒む力じゃなく、“生”を選ぶ力を持ってる。」


 光が満ちた。

 魂録石が砕け、翠の光と黒の光が混ざり合う。

 ヴァートの胸の奥で、何かが脈を打った。


『——セーブル……?』


「……聞こえるか、ヴァート。」


『……はい。』


「オレはもう、形を持てねぇ。

 でも、お前が呼べば、声くらいは返せる。」


 ヴァートは泣かなかった。

 涙はもう、何も救えないと知っていたから。


『セーブル。

 もし“死神”が魂を刈る役目を持つなら……

 私は、“命を繋ぐ刃”になります。』


「それでいい。

 オレたちは、そうやって“死”と“生”を並べて歩けばいい。」


 朝の光が、霧を溶かす。

 村の鐘が再び鳴る。


 セーブルの姿は、完全に消えていた。

 だが、その声が風に混じる。


——「行け、ヴァート。オレの代わりに、“命”を選べ。」


 ヴァートは静かに頷く。

 手首の鈴が鳴った。


 ——チリリ……


 その音が、彼女の胸の奥に残る“セーブルの声”と重なった。


 リアンが傍に歩み寄る。


「……彼はもう、いないのか。」


『いいえ。

 どこかで、風の中にいます。

 この世界が“生”を拒む限り、

 彼は“拒絶”してくれるはずです。』


 リアンは静かに頷いた。

 そして、彼女の肩に手を置く。


「ならば行け。

 人も、悪魔も、死神も……

 誰かが“生きたい”と願う限り、お前の刃は必要だ。」


 ヴァートは空を見上げた。

 雲の切れ間から、朝の光が降り注ぐ。


『セーブル……見ていますか。

 これが、貴方が拒んで残してくれた“世界”です。』


 翠の瞳に、光が反射した。

 その瞳にはもう、“迷い”はなかった。


 風が吹いた。

 鈴の音が、かつての死神の声を運ぶ。


「……ヴァート。

 生きるってのは、拒まれた世界に、それでも立つことだ。」


 彼女は静かに頷き、歩き出した。


 黒と翠の物語は、

 今度は——“彼女の物語”として続いていく。

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