第28話 冷たき主の書斎へ
そんなある日のこと、夕刻が近づく頃に執事のアイザックがルシアーナの部屋を訪れた。
「失礼いたします。奥様、旦那様(ヴィクトル)が“執務室に来るように”と申しております」
ルシアーナは少しだけ身構えた。ヴィクトルは必要最低限しか彼女と顔を合わせない主義のようで、ここ数日はまったく接触がなかったのだ。何の前触れもなく呼びつけるなんて、また面倒な制限を言い渡されるのではないか――そう思うと胸がざわつく。
「わかりました。すぐに参ります」
鏡の前で身支度を整え、ドレスの裾を軽く直す。色味は落ち着いたラベンダーグレイを選んだ。かつてフィオレット家の象徴であった“薄紫”を意識しながらも、クロウフォード家の雰囲気に合わせた控えめな装いだ。
廊下を歩き、屋敷の奥にある執務室へ。豪華なカーペットの上を進むと、使用人たちが一瞬こちらを見るが、すぐに視線をそらす。ルシアーナは気にしないふりをして扉の前に立ち、控えめにノックした。
「……入れ」
低く響く声が扉の向こうから聞こえる。
執務室の中は、以前と変わらず書類が山積みになっていた。重たい調度品に囲まれた部屋の奥に、ヴィクトルが椅子に腰掛けている。机の上には大きな地図と、何やら工業製品らしき図面、それに契約書の類と思しき書類が広げられていた。ルシアーナが静かに頭を下げて挨拶しても、ヴィクトルは目線を上げない。
「呼び出しとのことですが、何かご用件でしょうか?」
ルシアーナがそう問いかけると、ヴィクトルは書類をパラリとめくり、ようやく口を開く。
「今度、クロウフォード家が関わる“商談”がある。取引相手は地方の有力貴族だが、あいにく日程が急になった。俺は明日から数日、外泊になるかもしれん」
「外泊……ということは、この屋敷には戻られない?」
「そういうことだ。お前はここにいればいい。勝手に屋敷の外へ出ないように。ただし、最低限の社交辞令くらいは知っているだろうから、もし俺の仕事相手が訪ねてきたら、それなりの応対をしておけ。呼んでもいない客なら追い返しても構わん」
突き放すような言葉に、ルシアーナは微妙な心境になる。彼は自分の妻としての役割を求めているわけではなく、あくまでビジネス上の“飾り”として見ているのだろう。
「かしこまりました。……ほかに、わたしが心がけることはありますか?」
念のため確認すると、ヴィクトルは「うんざりだ」と言わんばかりに眉をひそめる。
「余計なことをするな。屋敷の外に出るな。俺やクロウフォード家の名誉を損なう真似はするな。それだけだ」
およそ夫婦間の会話とは思えない、冷えきった指示に、ルシアーナは苦い笑みを噛み殺す。
(やはり……。形式的な『妻』として、最低限の振る舞いだけしていろ、というわけね)
しかし、ルシアーナにとって、それはむしろ好都合とも言えた。ヴィクトルが留守にするなら、彼の目を気にせず、屋敷内を調べられるかもしれない。黒狼との因縁の手がかりを探す絶好の機会だろう。
「承知しました。……お気をつけて行ってらっしゃいませ」
ルシアーナがそう言うと、ヴィクトルは一瞬だけ目を上げて、冷ややかな瞳で彼女を見た。何か言いかけたようにも見えたが、結局は黙ったまま書類に向き直る。
その横顔には疲労の色が宿り、どこか脆さを感じさせる。ルシアーナは思わず声をかけそうになるが、今はすべてが無駄に終わるだろうと悟ってそのまま執務室を後にした。
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