第12話 仮面の裏側



 館を出る直前、ヴィクトルがほんの一瞬だけ振り返った。灰色の瞳がルシアーナを捉えたかと思うと、すぐに視線を外す。その刹那、彼の瞳に何かの揺らめきが走ったように見えた。しかし、それを確かめる間もなく、彼はさっさと玄関の外へ出て行ってしまう。


 ルシアーナは複雑な思いでその背中を見送りながら、自分の胸に芽生え始めた小さな疑念を噛み締めていた。――彼は本当に、ただの冷酷で無慈悲な人間なのだろうか? 確かに人当たりは最悪だが、その奥に閉じ込められた何かがあるようにも感じる。


 (……わたしが気にすることじゃないのかもしれないけど。愛情なんて期待してないとはいえ、あの様子、普通じゃない)


 もしかすると、ヴィクトル・クロウフォードという男が抱えている闇は、思った以上に深いのかもしれない。そう思ったところで、ルシアーナにできることは限られている。この結婚は“ビジネス”なのだから、下手に首を突っ込めば逆に危険だ。

 やがて、玄関前に待機していたクロウフォード家の馬車が動き出す音が聞こえた。ルシアーナはしばしその場に立ち尽くし、去っていく車輪の音を耳にしながら、重苦しい感情を抱いたまま動けずにいた。

夜の囁き


 日が沈むと、フィオレット家の館はまた静寂に包まれる。半分以上の部屋はもう使われておらず、少数の使用人が寝所に下がれば、廊下には一人歩く音すら響かないほどだ。ルシアーナは自室に戻っても落ち着かず、廊下を行ったり来たりしていた。


 (あと5日……あっという間に、あの冷たい館へ嫁ぐことになるのね)


 想像するだけで息苦しくなる。だが、ここで逃げ出すわけにはいかないし、逃げるつもりもない。自分が選んだ道だ――そう何度も自分に言い聞かせる。

 だが、心のどこかで、確かに何かが叫んでいた。

 “こんな相手との結婚で、本当に自分の人生は報われるのか?”

 “フィオレット家を救うといっても、結果的にクロウフォード家の所有物になりかねないのではないか?”

 不安は尽きない。だが、それでも歩みを止められないのが、ルシアーナの矜持だった。


 ふと、暗い廊下の角を曲がったところで、メイドの一人と鉢合わせした。彼女は洗濯物を抱えており、ルシアーナに気づくと慌てて頭を下げる。


 「お嬢様、こんな時間まで何を……」


 「少し考え事をしていただけよ。……こんな遅くまでお勤め、本当にありがとう。無理しないでね」


 そう優しく声をかけると、メイドは恐縮した様子で微笑む。少ない人員で屋敷を回しているため、一人一人が相当の負担を抱えている。ルシアーナもそれを分かっているからこそ、彼らを労わりたいと思っていた。だからこそ、少しでも現状を改善したい――その一心で、この結婚を受け入れたのだ。

 メイドと別れると、また静寂が戻ってくる。ルシアーナは廊下の窓から外を見下ろした。夜闇が深く広がり、月が雲間に隠れたり姿を現したりを繰り返している。まるで、自分の心の揺れを映し出すかのようだった。

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