第2話「無愛想な彼と温かいスープ」
辺境の地での暮らしが始まって一週間が過ぎた。
僕の生活は驚くほど穏やかで満ち足りたものだった。
朝は鳥のさえずりで目を覚まし日中は畑仕事に精を出す。
といっても『神の農具』のおかげで力仕事はほとんどない。
新しい野菜の種を蒔いたり育ち具合を眺めたり、あるいは森を散策して食べられそうな木の実やキノコを探したり。
喉が渇けばスキルで作った瑞々しい果物をかじる。
太陽をたっぷり浴びて育ったそれはかじると甘い果汁が口いっぱいに広がり、爽やかな酸味が体を駆け抜けていく。
空腹になれば畑から採れたての野菜を引っこ抜いてシンプルなスープやサラダにして食べる。
それだけで最高に贅沢な食事が完成するんだ。
夜は満点の星空の下で焚火を眺めながら一日の出来事をぼんやりと振り返る。
時間に追われることも誰かに急かされることもない。
ただ自分のペースで生きたいように生きる。
こんな生活がずっと欲しかったんだ。
この日も僕は新しく作った畑の様子を見て回っていた。
最初に植えたカブの隣には真っ赤に熟したトマトが鈴なりになっている。
その隣ではつやつやと紫紺に輝くナスが重たげに実をつけていた。
どれもこれも驚くほど成長が早い。
『今日の昼食は、トマトとナスのシンプルな炒め物にしようかな』
そんなことを考えながら一番大きく育ったトマトを一つもぎ取ろうとしたその時だった。
ガサッとすぐ近くの茂みが大きく揺れた。
「え?」
驚いてそちらを向くと茂みの中から一人の男が姿を現した。
歳は僕と同じくらいだろうか。
日に焼けた肌に無造作に伸びた黒い髪。
着ているのは丈夫そうだけど所々が擦り切れた革の服。
そして何より印象的だったのはその鋭い眼光だった。
まるで獲物を探す獣のような油断も隙もない光を宿した瞳がまっすぐに僕を射抜いていた。
体つきはがっしりとしていて、そこらの農夫とは明らかに違う、鍛え上げられた者のそれだ。
腰に下げた立派な剣がその印象をさらに強くしている。
『なんだか、すごく強そうな人だ…』
彼は僕と僕が作った畑、そして小さな小屋を順番に値踏みするように見つめ低い声で尋ねてきた。
「お前は、何者だ」
その声は長い間誰とも話していなかったかのように少しだけかすれていて、そして有無を言わせぬ響きがあった。
全身から放たれる警戒心と威圧感に僕は思わず後ずさりしそうになる。
「えっと…僕はミナト。旅の者というか…ここで農業をして暮らそうと思って…」
しどろもどろになりながらも正直に答える。
嘘をついてもこの人の目には見透かされてしまいそうだった。
僕の答えを聞いても男の表情は変わらない。
険しい顔のまま今度は僕の畑に視線を落とした。
そこにはありえない速度で育ち瑞々しく実った野菜たちが並んでいる。
「この畑…お前が一人で?」
「は、はい。そうですけど…」
男は信じられないといった様子で眉間に深いしわを寄せた。
まあ普通に考えたらたった一人でわずか数日のうちにこれだけの畑と作物を用意するのは不可能だろう。
僕のスキルが規格外なのだ。
しばらくの沈黙が流れる。
気まずい空気にどうしていいか分からなくなる。
男は僕を疑っているようだった。
もしかしたらこの土地の縄張りを荒らす侵入者だと思われているのかもしれない。
追い出されたりしたらどうしよう。
そんな不安が頭をよぎったその時。
ぐぅぅぅ…
静寂を破って盛大な腹の音が鳴り響いた。
音の出どころは目の前の無愛想な男のお腹からだった。
男はバツが悪そうに一瞬だけ目線をそらす。
そのわずかな変化に僕は彼の印象が少しだけ変わるのを感じた。
この人もお腹が空くんだな。
なんだか当たり前のことなのに少しだけおかしくなってしまった。
警戒されているのは分かっている。
でもお腹を空かせている人を目の前にして何もしないのは後味が悪い。
「あの…!もしよかったら何か食べませんか?ちょうどお昼にしようと思ってたところなんです」
僕は勇気を振り絞って提案してみた。
男は驚いたように僕の顔を見る。
その瞳にはまだ警戒の色が濃く浮かんでいた。
「…毒でも入っているのか」
「そんなことしませんよ!見てくださいこのトマト。さっき採ったばかりなんです」
僕はそう言って手に持っていた真っ赤なトマトを彼に見せた。
太陽の光を反射して宝石みたいにきらきらと輝いている。
男はしばらく僕とトマトを交互に見ていたがやがて諦めたように小さくため息をついた。
「…好きにしろ」
それは肯定と受け取っていいのだろうか。
僕はそれを許可だと解釈して急いで小屋に戻った。
何を作ろうか。
お腹を空かせているならやっぱり温かいものがいいだろう。
僕は畑から玉ねぎと芋に似た野菜をいくつか収穫し手早くスープを作ることにした。
『神の農具』で作り出した鍋に水を入れ火にかける。
野菜をナイフで切り鍋に放り込んでコトコトと煮込んでいく。
味付けは森で見つけた岩塩だけ。
でも野菜そのものの味が濃いからきっと美味しいはずだ。
やがて野菜の甘い香りがふわりとあたりに立ち込める。
僕がスープを木の器によそっているといつの間にか男が小屋の入り口に立っていた。
腕を組んで相変わらず険しい顔をしているけれどその視線は鍋に注がれている。
「どうぞ。熱いので気を付けてください」
器を差し出すと男は一瞬ためらった後無言でそれを受け取った。
そしてまずは匂いを嗅ぎ次にスプーンで少量すくって用心深く口に運ぶ。
その瞬間彼の切れ長の目がほんのわずかに見開かれた。
僕の作ったスープは野菜の旨味が溶け出した優しい味だ。
玉ねぎの甘みと芋のとろりとした食感が体に染み渡る。
特別なものは何も入っていない。
ただ採れたての新鮮な野菜を煮込んだだけ。
男は一口また一口と無心でスープを口に運んでいく。
その食べる姿を見ていると本当に心からお腹が空いていたんだなということが伝わってきた。
あれだけ僕を警戒していたのに今は目の前のスープに夢中になっている。
あっという間に器を空にした彼はふぅと小さく息をついた。
そして空になった器を僕に返しながらぽつりとつぶやいた。
「…カイ」
「え?」
「俺の名前だ」
カイと名乗った彼はそれだけ言うと僕に背を向けた。
そしてそのまま森の中へと歩いて行ってしまう。
「あ、あの!」
呼び止める僕を振り返ることなくカイの姿はすぐに木々の間に消えていった。
後に残されたのは空になった木の器と僕の胸に芽生えた小さな戸惑いだけ。
一体何だったんだろう。
嵐のように現れて嵐のように去っていった無愛想で強そうで、そしてとてもお腹を空かせた人。
僕はカイが消えていった森の方を見つめながらなぜだかまた会えるような気がしていた。
温かいスープが冷めてしまう前に僕も自分の分の昼食をとることにした。
自分で作ったスープはいつもと同じはずなのに今日はなんだかいつもより少しだけ美味しく感じられた。
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