第1章5話『過去の残響と現在の決断』

 穏やかな朝とキーホルダーの誘い


 愛梨の心は、半分は穏やかなハーブの香りに、もう半分は真鍮製のキーホルダーの冷たい感触に囚われていた。裏庭の一角には、ヴァレフォールと共に整えた小さな薬草園が、午前中の優しい日差しを受けて輝いている。


「この月見草は、夜の間に主様の魔力をほんのわずかですが、安定させる効果がございます。無理にブローチに頼ろうとせず、主様ご自身の力で活力を引き出すことが、この屋敷の真の安定に繋がります」


 ヴァレフォールはそう言って、愛梨の指先の土を丁寧に拭ってくれた。言葉は少ないが、彼の存在と、彼の調合する軟膏の懐かしい香りは、愛梨の不安を和らげてくれる。愛梨は、ブローチの消耗を気にするあまり「現在」に集中できていなかったことを認め、彼との作業を通じて心を取り戻していくのを感じた。


 しかし、その日の午後。愛梨がキーホルダーを握りしめながら屋敷の二階廊下を歩いていると、最上階へと続く、使われていない階段の奥から、キーホルダーが突然強く冷たくなった。


「冷たい…何かの熱を吸い取っているみたい」


 愛梨は引き寄せられるようにして、執事たちから「老朽化のため立ち入り禁止」とされていた時計台の入り口にたどり着いた。壁の目立たない場所に、埃を被った小さな真鍮の錠前が隠されていた。キーホルダーの鍵を差し込むと、カチリと軽い音を立てて錠前が開いた。


 忘れられた後悔の記録


 鍵の先には、宝物ではなく、一冊の古い、子供の手書きの絵日記だけが置かれていた。それは、この屋敷の**前の「主」**が遺した日記だった。


 愛梨は、心臓が跳ねるのを感じながら、日記を開く。描かれていたのは、執事たちに囲まれて笑う光景ではなく、小さな文字で記された心の声だった。


「大きな力を持ったブローチを渡されたけど、どう使っていいかわからない。みんなは私の言うことに従うけれど、誰も私の本当の寂しさを知らないみたい。あの時、魔力を使いすぎて壊してしまった街の橋を、もう一度作り直したかった。でも、魔力が怖くて、結局何もできなかった。私は『主』失格だ…」


 愛梨の目頭が熱くなる。前の主も、自分と同じように重圧と「孤独」を感じていた。そして、魔力の暴走ではなく、魔力を使えなかったことを「後悔」していた。ヴァサゴの「現在を見失うな」という言葉は、愛梨に過去の主と同じ過ちを繰り返すな、という警告だったのだと、深く理解した。


 危機、そして主の決断


 愛梨が、日記を握りしめ、過去の残響に心を奪われているまさにその時、屋敷全体が激しい振動に襲われた。廊下の窓ガラスがガラガラと音を立て、愛梨は思わず壁に手をつく。


「主様!至急、ご報告を!」


 通信ブローチから、ベパルの張り詰めた声が響いた。


「市街で、過去最大の規模の魔力吸収現象が発生しました!都市の防御シールドが、急速にエネルギーを吸い取られ、あと数分で完全に崩壊します!」

「そんな…ブローチの力は温存しなきゃいけないのに…」

「ブローチの力を使わねば、都市は壊滅します!しかし、主様の消耗を考えれば…」


 ベパルの言葉は、愛梨の頭の中で、日記に書かれた「後悔」の文字と重なった。今、行動しなければ、前の主と同じように、何もできなかったことを未来永劫悔やむことになる。


 愛梨は、キーホルダーを強く握りしめた。


「ベパル!私は『現在』を守る!みんな、準備をして!ブローチの力を使うわ!全魔力でシールドを強化して!」


 愛梨がブローチに意識を集中させると、今までになく強烈な光が溢れ出した。体が風船のように膨らむほどの激痛と消耗が襲うが、彼女は歯を食いしばり、都市の上空に巨大な光の膜を広げる。


 シールドが安定したのを確認した瞬間、凄まじい疲労感が愛梨を襲い、意識は一瞬にして暗闇に沈んだ。その暗闇の中で、愛梨は強烈な**「幻影」**を見る。


 都市の魔力を貪る「影」の中心に、はっきりと捉えたのは、どこか見覚えのある一人の人間の姿だった。


 重なる影と執事たちの沈黙


 愛梨が次に目を開けたのは、自分の部屋のベッドの上だった。そばにはヴァレフォールが心配そうな顔で付き添っている。


「……ヴァレフォールさん、街は?」

「はい。主様のおかげで、完全に守られました。素晴らしいご決断でございました」


 愛梨は胸に手を当てた。ブローチは光を失い、完全に魔力を使い果たしていた。


「私…幻を見たの。魔力を吸い取っていたのは、影じゃなくて、人間だった。私たちと同じ、生きた人間がそこにいたのよ。あれは、一体誰なの?」


 愛梨の問いかけに、ヴァレフォールはいつもの穏やかな笑みを消し、静かに目を伏せた。


「主様。それは……」


 彼が言葉に詰まるのを見て、ベパルも静かに部屋に入り、愛梨の視線から目をそらした。執事たちは愛梨への深い忠誠心を見せながらも、彼女が見た「人間の姿」について、誰も何も語ろうとしない。


 敵は、屋敷の外にいる魔物ではなく、私たちと同じ人間なのか?


 愛梨の疑念は、執事たちの忠誠心の裏に隠された、この屋敷と世界の最も深い秘密を指し示し、物語の幕を閉じる。

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