田舎の家と追放の静寂

太陽はすでに完全に沈み、ヒルダラが村の外れにたどり着いたとき、空は群青に染まっていた。

冷たい風が丘の間を吹き抜け、遠くで木々のざわめきと夜の虫の声を運んでくる。

その先には、小さな木造の家が一軒建っていた。

古びた屋根、風にきしむ窓、そしてどこか寂しげな雰囲気。


彼女は扉の前で立ち止まり、しばらくその家を見つめた。

ここが、これからの自分の居場所――そう思うと胸の奥が静かに痛んだ。


「これが……私の新しい家、か。」

小さく呟いた声は、広い野原の静けさの中に吸い込まれていった。


この家は、彼女がかつて持っていた財産のわずかな残りで手に入れたものだった。

王家による没収の後、手元に残ったのはほんの少し。

それ以外のすべて――名前も、地位も、信仰も――失われた。


「一からやり直し、ね……」

ヒルダラは深く息をつきながら、重たい扉を押し開けた。

ギィ、と長い年月の埃を吐き出すような音が鳴る。


中は薄暗く、古い木と埃の匂いが漂っていた。

月の光が割れた窓の隙間から差し込み、

布をかぶった家具、蜘蛛の巣の張った天井、厚く積もった埃を照らし出す。


「まあ……これくらいなら、どうということはない。」

彼女はそう言いながら、ゆっくりと部屋の中央へ歩いた。

足音に合わせて埃が舞い上がり、光の筋の中で静かに漂った。


目を細め、彼女は部屋を見渡す。

掃除をして、カーテンを掛けて、暖炉に火を入れれば……きっと少しはマシになる。

だが今は、ただ疲れていた。


「道中、何度も話しかけたけど……誰も耳を貸してくれなかった。」

長い旅の記憶がよみがえる。

「誰も私の目を見ようとしなかった。まるで私が存在しないかのように……いや、それ以上に、罪人のように。」


胸の奥が締めつけられた。

真実を話そうとしても、誰も信じてくれなかった。

必死に訴えても、声は風に消えるだけだった。


「もう……王都には戻れない。戻ったところで、誰も信じてくれない。」

ヒルダラは古びたソファに腰を下ろし、長く息を吐いた。

「旅費もない。金も、名前も……何も残っていない。」


ふと、彼女は一人で笑った。短く、乾いた笑い。

その中には、諦めと少しの皮肉が混じっていた。


「少なくとも……狂っているとは言われなかったわね。」

ひび割れた天井を見上げながらつぶやく。

「リサンドラと体が入れ替わったなんて話したら、間違いなく牢屋か病院行き。……誰が信じるのよ、そんなこと。」


家の中は静かだった。

その沈黙は重く、それでいてどこか安らぎを与えるようでもあった。


「もう考えるのはやめよう……明日は明日。」


肩の力を抜き、ヒルダラはソファに横たわった。

硬く、埃っぽい古いクッション。

けれど今の彼女には、それが世界で一番やさしい場所に思えた。


「少しだけ……休もう。」


まぶたがゆっくりと閉じる。

旅の疲れ、心の痛み――そのすべてが重なり、

ヒルダラは静かに眠りに落ちた。


夜の風が窓を揺らし、月の光が彼女の頬をやさしく照らす。

追放の地の最初の夜は、静かに、そして深く更けていった。


窓の隙間から、一筋の陽光が差し込んだ。

細い金色の線となって空気を切り裂き、古びた木の香りと埃の匂いが光の中で静かに舞う。

遠くで鳥のさえずりが響き、家の中の静けさを破った。


ヒルダラはゆっくりと目を開けた。

一瞬、ここがどこなのか分からなかった。

ひび割れた天井、古びたソファの匂い──すべてがぼんやりとしている。

そして、記憶が静かな波のように押し寄せてきた。

城、裁き、入れ替わった身体、そして逃亡。


「……ああ、そうか。 私は……生きてるんだ。」


かすれた声が、誰もいない部屋に小さく響いた。

数秒の間、彼女はただ光の中に漂う埃の粒を見つめていた。

世界が止まったような、そんな静けさ。

それは陰謀に満ちた王宮の静寂とは違う、時の流れさえ失われたような静けさだった。


ふと、胸の上に小さな重みを感じた。

瞬きをすると、そこには一匹の灰色の猫がいた。

金色の瞳が、彼女を静かに見つめ返している。


「え……? 猫……?」


猫は短く「ニャ」と鳴き、首をかしげた。

まるで彼女を観察するように。

ヒルダラは思わず瞬きを繰り返した。


「どこから来たの……あなた。」


そっと手を伸ばす。

だが猫は素早く身を反らせ、床に飛び降りて台所の方へ走っていった。


「ま、待って! 別に何もしないってば!」


立ち上がったヒルダラは、埃にむせながら猫を追った。

軋む床板の音を響かせて進むと、部屋の隅で猫が壊れた椅子の陰からこちらを見ていた。

尾をゆっくりと揺らし、警戒した瞳がじっと彼女を捉える。


「わかった、わかった……」

ヒルダラは小さく笑って言った。

「私たち、似た者同士みたいね。 どっちも、ここではよそ者。」


猫はまばたきをひとつし、まるで理解したように動かなかった。


彼女はしゃがみ込み、もう一度そっと手を差し出した。

今度は猫がゆっくりと近づき、指先をくんくんと嗅いで──そして、小さく頭を擦りつけてきた。


「ふふ……かわいい子。」


そのぬくもりは驚くほど優しく、心の奥に積もっていた冷たいものが少しだけ溶けた気がした。


「ねぇ……誰かが、私を憎まずに近づいてくれるのなんて、いつぶりだろうね。」


猫はもう一度「ニャ」と鳴いて、彼女の足に身体を擦りつけた。

ヒルダラは笑った。

それは、心からの笑みだった。 きっと、ずっと忘れていた感情。


しばらくして、彼女は窓を開けた。

新鮮な風が部屋に流れ込み、埃を巻き上げる。

草と野花の香りが鼻をくすぐり、外の景色が広がった。

一面の緑の草原、遠くには小さな花々、そして果樹の木々。


「……ここが、私の生きる場所か。」


窓辺に寄りかかりながら、ヒルダラは遠い地平線を見つめた。

そこには塔も兵士も、裏切りの囁きもなかった。

ただ、風の音と鳥の羽ばたきだけ。


「……悪くないわね。」


振り返ると、家の中はまだひどい有様だった。

床は埃まみれ、窓には蜘蛛の巣、そして彼女が寝ていたソファはすっかり擦り切れている。


「まあ……悪くないとは言ったけど、良くもないかも。」

ヒルダラは苦笑した。

「でも……時間をかければ、きっと何とかなる。」


猫が椅子の上に飛び乗り、まるで同意するように尻尾を振った。


「あなたも手伝ってくれるのよね?」


猫はあくびをして、そのまま丸まった。


「ふん……やっぱりね。」


皮肉めいた声に、どこか柔らかな響きがあった。

全てを失った後で、初めて心の底に訪れた穏やかな静寂。

そこにあったのは怒りでも悲しみでもなく、空っぽの中に灯る小さな安らぎだった。


「そうね……これが、再出発ってやつかも。」


ヒルダラは小さく呟き、朝の金色の光を浴びる草原を見つめた。

風が彼女の短い金髪を揺らし、目を閉じて深く息を吸い込む。


「さようなら、ヴァルドリア……」

彼女は囁いた。

「もう、二度と振り返らない。」


猫が「ニャ」と鳴いた。

それはまるで、その静かな誓いに応えるかのようだった。

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