悪役は聖女の体を奪った。追放された後、彼女は平穏な生活を望んでいる。

@MayonakaTsuki

追放と新たな始まり


ヴァルドリア城は、黄金と水晶の光に包まれていた。

壁という壁が燭台の炎を反射し、磨き上げられた大理石の床には、優雅な貴族たちの足音と囁きが溶け合う。

この夜は――王国の第一王子、エリオン・リオラの二十五歳の誕生日。

それは単なる祝いではなく、彼の“存在”そのものを讃える儀式でもあった。


エリオンは背が高く、整った顔立ちの青年だった。

陽光のような金髪を完璧に整え、青い瞳は澄みきったサファイアのように輝いている。

彼が一歩進むたび、周囲の視線が自然とその後を追った。

だが、その穏やかな笑みの奥には、微かな緊張が潜んでいた。

――今夜は、ただの宴ではない。

笑顔と祝辞の裏で、いくつもの「真実」が、静かに姿を現そうとしていた。


大理石の柱の影に、ヒルダラの姿があった。

控えめな佇まいの彼女は、ほとんどの客の目には留まらない。

短い金髪と青い瞳、小柄で目立たぬ身体。だがその瞳には、誰にも負けぬ意志の光が宿っていた。

“聖女ヒルダラ”――そう呼ばれる彼女も、元はただの農村の娘にすぎなかった。

幼い頃に両親を事故で失い、後に稀有な魔法適性を見出された彼女は、奨学生としてヴァルドリア魔術学院へと招かれたのだった。


今、彼女の周囲を取り巻くのは、名門の家々の子女や貴族たち。

その視線のひとつひとつが、羨望、好奇心、あるいは蔑みを孕んでいる。

ヒルダラは胸の奥で息を整えた。


(――今日、すべてが変わる。

もう後戻りはできない。

ここまで来たのだから。)


彼女の視線が自然と、広間の中央に立つエリオンへと向かう。

群衆に囲まれながらも、彼の青い瞳だけはまっすぐにヒルダラを捉えていた。

その眼差しには、優しさと、言葉にはできぬ不安が混ざっている。

二人の間には、誰にも知られぬ“秘密の絆”があった――

それが、この夜、試されることになるとも知らずに。


少し離れた場所では、ひときわ目を引く女性がいた。

リサンドラ・デュヴァル――純白の長髪に紅のメッシュを差し、紅玉のような瞳を持つ美貌の貴婦人。

だが、その美しさよりも先に、人々が感じるのは“恐れ”だった。

彼女の周囲の空気は冷たく、傲慢と憎悪を混ぜ合わせたような気配を漂わせている。


リサンドラはゆっくりとヒルダラの方へ歩み寄り、氷のような微笑を浮かべた。

唇がわずかに動く。


「あなた、本当にここに立つ資格があると思っているの? ヒルダラ。」


その声は囁きのように小さかったが、近くの貴族数名にははっきり届く程度の音量だった。

その場の空気が一瞬で凍りつく。


ヒルダラは小さく息を吸い込み、恐怖を押し殺して答えた。


「……私の魔法は、血でも家柄でも決まらない。努力で掴んだ力です。」


その言葉が放たれると、周囲に微かなどよめきが広がった。

称賛とも、侮蔑とも取れる反応。

勇気を讃える者もいれば、無礼だと眉をひそめる者もいた。


そのとき、エリオンが静かに二人の間に歩み寄った。

彼の顔はいつも通り穏やかだったが、瞳には鋭い決意の光が宿っていた。


「ヒルダラ……今夜は祝いの夜だが、それだけではない。

覚悟しておけ。これから――いろいろなことが動き出す。」


ヒルダラは短くうなずいた。

互いの目に、言葉にできぬ理解が交わされた。


やがて音楽が流れ、楽団の旋律が広間を満たしていく。

貴族たちは席に着き、金の器に注がれたワインの香りが漂う。

煌めく水晶のシャンデリアが光を散らし、豪華な晩餐の始まりを告げた。


だが、その眩い光の裏には――

欲望、嫉妬、策略、そして、今にも露わになろうとする“秘密”が、静かに息づいていた

饗宴(きょうえん)と高まる緊張(きんちょう)


ナイフとフォークの音が、柔らかな音楽と溶け合って城の大広間に響いていた。

長い宴のテーブルには貴族たちが並び、笑顔と形式ばった挨拶を交わしている。

だが、その洗練された礼儀の裏には、重く張りつめた空気が漂っていた。


ヒルダラは背筋を伸ばし、周囲の動きを一つ一つ観察していた。

その青い瞳は、まるで人の心の奥を読み取るかのように鋭く光っている。


テーブルの上座、王子の隣に座るリサンドラ・デュヴァルは、

人前であってもヒルダラを侮辱する機会を逃さなかった。

彼女は冷たい微笑を浮かべ、隣の貴族たちにわざと聞こえるように囁いた。


「見たかしら? あの“小さな聖女”がどれだけ必死に貴族の真似をしているか。

結局は――ただの農民の娘にすぎないのに。」


その言葉に、周囲の貴族たちは小さく笑い声を漏らした。

ヒルダラの胸の奥に、いつもの痛みが走る。

それは侮辱そのものよりも、誰もそれを止めようとしない“当然の空気”が彼女を苦しめた。


深く息を吸い、ヒルダラは静かに言葉を返す。


「……何を言われても構いません。

私の力は、血筋や地位から生まれたものではありません。

努力でここまで来たのです。そして、これからも――戦い続けます。」


その声は小さくとも、はっきりと響いた。

すぐ隣に座るエリオン・リオラ王子が、そっとヒルダラの手に触れる。

人目につかぬように、優しく包み込む仕草で。


「リサンドラ。……控えなさい。今は挑発の場ではない。」


その言葉には穏やかな響きがあったが、王子の眼差しには明確な怒りが宿っていた。

リサンドラは唇を歪め、氷のような笑みを浮かべる。


「まあ、殿下。私はただ“真実”を口にしただけですわ。

誰もが“聖女”を崇めるわけではありませんから。」


彼女の声は甘く響いたが、その中に棘があった。

ヒルダラは拳を握りしめ、胸の奥で煮え立つ怒りを抑えた。

――感情を見せれば、それこそ彼女の思うつぼ。

だが、侮辱は積み重なり、心の奥に小さな火を灯していく。


(……もし誰も私を守れないのなら。

自分で、自分を守るしかない。)


宴は進み、豪華な料理が次々と運ばれてくる。

黄金に輝く皿、きらめく水晶の杯、香ばしい肉と甘い果実の香り。

だが、ヒルダラには味がしなかった。

目の前の華やかさが、まるで別世界の幻のように遠い。


彼女が静かにグラスを持ち上げたそのとき、

リサンドラが再び体を寄せ、囁くように言った。


「本気で、ここに居続けられると思っているの?

あなたの一挙手一投足、すべてが“見られている”のよ。

その一つでも間違えれば――あなたは終わり。」


ヒルダラの背筋に冷たい震えが走った。

だが、今回はただ黙ってはいなかった。

静かに、だが確固たる声で答えた。


「……それでも構いません。

見られているなら、見せてあげます。

私は下を向かない。どれだけあなたが私を貶めようとしても、リサンドラ――私は恐れません。」


広間に、一瞬の沈黙が落ちた。

その言葉はまるで鐘の音のように響き、貴族たちの視線が一斉にヒルダラへ向かう。

困惑する者、感嘆する者――さまざまだった。

エリオンでさえ、一瞬だけ言葉を失い、そして小さく呟いた。


「……ヒルダラ、気をつけて。」


その声はほとんど聞こえないほど小さかったが、

そこに込められた心配の色をヒルダラは確かに感じ取った。


リサンドラはゆっくりと顔を傾け、赤い瞳を細めた。

その瞳には怒りと嘲りが混ざり、唇に冷たい笑みが浮かぶ。


「……ふふ、面白い。

この場で、私に逆らうというのね。

いいわ――その勇気、どこまで保てるか見せてもらおうじゃない。」


空気がさらに重く張りつめる。

ヒルダラは深く息を吸い、震える心を押し沈めた。

いま、この場に立つ彼女の姿は、かつての弱い少女ではなかった。


(――今夜がすべてを変える夜。

隠されたものが、ついに明るみに出る。

真実は……もう、止められない。)


音楽は続いていた。

だがヒルダラには、それがまるで運命の前奏曲のように聞こえていた。

世界は静かに、けれど確実に――変わろうとしていた。


暴かれる瞬間(クライマックス)


大広間は静寂に包まれた。

エリオン・リオラが立ち上がり、鋭い眼差しで会場のすべての顔を掃く。

手には巻物や文書が握られていた――リサンドラの犯罪行為を裏付ける、決定的な証拠の数々。

暗殺未遂、隠された陰謀、そしてヒルダラに対する巧妙な操作――すべてが丹念に整理されていた。


「諸君…」

その声は大広間に響き渡る。

「今日は、私の誕生日を祝うだけの日ではない。

隠されてきた真実を、ついに明らかにする日である。」


貴族たちの間にざわめきが走った。

顔をしかめる者、好奇心で前かがみになる者、しかし誰もが沈黙を守る。

この瞬間の重さを、皆が理解していた。


リサンドラは顎を上げ、冷酷な笑みを崩さずに言った。

「本当にこれで何かが変わると思っているの、エリオン?」

その声は低く、挑戦に満ちていた。


「正義は欲望に依存しない、リサンドラ…事実に基づくものだ。」

エリオンは力強く答える。

その一言一言に、揺るがぬ決意が宿っていた。


ヒルダラは、緊張の波が押し寄せるのを感じた。

大広間のすべての視線が彼女を圧し、見えないささやきが評価と期待を運ぶ。

彼女は深呼吸をし、これまで耐えてきた屈辱の日々を思い出した――リサンドラの侮辱、貴族の軽蔑、常にスケープゴートにされる恐怖。


(――もし私が無実を証明できなければ、築き上げたものはすべて壊される…だが、私は屈しない。)


エリオンは一つ一つの罪を詳述した。日付、目撃者、証拠を示しながら。

そのたびに、リサンドラの顔色は変わるが、増す憤怒を隠すために笑みを絶やさなかった。


「これは…ありえない…私は…私は…」

リサンドラはつぶやき、防御の言葉を見つけられずにいる。


大広間に再び絶対的な静寂が訪れた。

リサンドラの父である公爵は嗚咽を漏らす。

「娘よ…どうして我が家をこんな恥にさらすのか…」


絶望の中で、もはや逃げ場がないと悟ったリサンドラは目を閉じ、古く禁じられた言葉を呟いた。

運命を一度に変えるための呪文――


周囲の空気が歪み始め、黒いオーラが広がる。

大広間の光を吸い込み、ヒルダラの身体を走る寒気は、まるで筋肉の一本一本が凍りつくかのようだった。


(……これは…一体…?)


そして、瞬間が止まった。

大広間のすべての動き、すべての言葉が宙に浮いた。

その凍りついた世界の中で、自由に動けるのはヒルダラとリサンドラだけだった。

運命は、危うく未知の方向に傾いている。


リサンドラはヒルダラを見下ろし、残酷な笑みを浮かべた。

「すべては私のもの…あなたには何も残らない。」


永遠にも感じられる数秒の間に、魔力が二人を包み込む。

黒く冷たいエネルギーの閃光が大広間を貫き、光が消えると――ヒルダラは衝撃の事実に気づく。

今、彼女はリサンドラの体の中にいた。


膝をつき、呆然とするヒルダラ。

足元の世界は不安定で揺れるが、オリジナルのリサンドラは冷徹な勝ち誇りの眼差しで彼女を見下ろす。


「わかってないのね! 魔法よ! 彼女…私と体が入れ替わったの!」

ヒルダラが叫ぼうとするが、声は別の喉――リサンドラのもの――から出る。


エリオンが前に進み、険しい表情と鋼のような瞳で混乱を制する。

「黙れ。これまで犯した悪行はもう十分だ。」

その声には王子の権威と、あまりに長く不正に耐えてきた者の苛立ちが込められていた。


ヒルダラは手を伸ばし、無実を証明しようとした。

しかし、熟練の衛兵たちがすぐに押さえ、動きを封じる。


「聞いてください…たった一分でいい! お願いです! 彼女はリサンドラではありません!」

必死の叫びは大広間に響くが、誰も耳を貸さない。


その一方で、リサンドラはヒルダラの体を操り、冷酷な笑みを崩さなかった。

対照的に、謙虚な聖女は跪き、無理な証明に苦闘する。


(どうして…こんなことが…どうやって戦えばいいの?)


エリオンは衛兵に目配せする。

「連れて行け…ヒルダラを、リサンドラの体のまま、ただちに。」


こうして、全員の視線が注がれる中、聖女は大広間から連れ去られた。

叫び、説明しようとしながらも、リサンドラは勝ち誇ったようにヒルダラの場所を占める。


(これが終わりなら…新しい何かの始まりだ。

私は――どんな状況でも生き延びる。)


ヴァルドリア城の門は、彼女の後ろで轟音とともに閉ざされ、その音は石造りの廊下に反響した。

ヒルダラは、まだリサンドラの体のままで、無言の衛兵たちに連行されていた。手は固く縛られ、言い訳しようとするたびに、夜明け前の冷たい風に言葉がかき消されていく。


「お願い…聞いてください!私は彼女じゃないのです!これは魔法です!私は…」

必死で叫ぶ声は、絶望に満ちて異質に響いた。しかし、誰も耳を傾けようとはしなかった。


遠くからエリオンが見守る。青い瞳には悲しみと諦念が映る。

信じたい、信用したい――そう思う気持ちはあった。だが、宮廷の理屈と犯罪の重さは、ヒルダラの言葉を凌駕していた。


(説明できたなら…見せられたなら…でも今は無理。彼女は何とか生き延びなければ…)


追放のための馬車が王国の道を進む間、ヒルダラは窓の外を見つめ、今や遠くて敵意に満ちた世界の一つ一つを吸収しようとした。暗い平原、密集した森、そして城壁のようにそびえる山々。

厳格で知られるカルドレン王国が、彼女の新たな始まりの舞台となる。


心の中は感情の嵐だった――怒り、悲しみ、苛立ち、そして決して折れない覚悟。


(もしここで生きろと強いられるなら…この追放を力に変えてやる。

石一つ、木一つ、あらゆる試練が…私の成長への道になる。)


夜が急速に訪れ、鋭い寒気が体を貫くが、心を砕くことはできなかった。

彼女は深く息を吸い、アカデミーでの授業のこと、習得した魔法のこと、克服した試練のことを思い返す。

その知識が、彼女の鎧となり、避難所となり、奪われた運命を書き直すための道具となる。


ついに王国の辺境にある小さな村に到着したとき、ヒルダラは馬車から降り、足元の大地をこれまでとは違う感覚で踏みしめた。

すべての音が鮮明に感じられる――木々の間を吹き抜ける風、カラスの鳴き声、近くの小川のせせらぎ。

カルドレンの質素で厳しい生活は城の贅沢とは対照的だったが、この場所には純粋な誠実さがあった。


「ここで始めるなら…ここから私の物語を始めよう。」

そう自分に呟き、拳を握りしめる。


木造の家々の間を歩き、村人たちの苦労や生活の質素さを目にしたヒルダラは気づき始める。

真の力は称号や評価ではなく、努力、勇気、そして魔法から生まれるのだと。


(すべてを奪われた…だが意志だけは奪えない。

この体にいても私はヒルダラ。戦うこともできる、生きることもできる…再出発もできる。)


月が空に昇り、銀色の光で地平線を照らす。

数週間ぶりに、ヒルダラは希望の小さな火花を感じた。

前に広がる道は険しく危険に満ちているが、同時に可能性にも満ちている。

追放の地での一歩一歩が、強く、賢く、自由なヒルダラへの選択となる。


「今日は終わりではない…ただ新たな始まりに過ぎない。

今度こそ、自分で運命を書き記す。」


そして、カルドレンの冷たい夜風が吹き抜ける中、ヒルダラは深く息を吸い、過去の重みと、目の前に広がる自由を感じた。

知っていた生活は終わった。しかし、新たな生活――厳しく、不確かで、挑戦に満ちた人生――が彼女の前に広がり、征服されるのを待っていた。

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