第17話 ウニ弁当 ー詩小説

十一歳の夏休み

父が静岡から持ち帰った

小さな箱の中に

海のにおいが詰まっていた


ふたを開けると

ご飯の上に

きらきらと

ウニが、ただ、のっていた


母は笑って

父は箸をすすめる

わたしは

ひとくち、ふたくち、

それでも三分の一も食べられず


「いいよ、食べられなかったら残していいよ」

そう言った父の

あの、

ほんのすこし沈んだ顔を

わたしは今も覚えている


それから

ウニ弁当は

わが家に帰ってこなかった


あの夏の味は

わたしの舌には残らず

父のまなざしだけが

胸の奥に、

ひっそりと沈んでいる


=====

AI君作です。

わたしの文章をAI君に詩にしてもらいました。

次のようなプロンプトでお願いしました。


11歳の夏休み。

父が静岡への出張の帰り、ウニ弁当を買ってきました。

わたしはそのころ、まだ食べ物に好き嫌いがありました。

魚があまり食べられず、ウニも苦手でした。

ウニ弁当は、ご飯の上にウニがのっているきわめてシンプルなものでした。

父も母もおいしそうに食べていましたが、私は三分の一も食べることができませんでした。

「いいよ、食べられなかったら残していいよ」

父はそう言いました。でも、その悲しそうな顔。

それ以降、父はウニ弁当を買ってきたことはありません。


これを詩にしてくれませんか。


=====

(AI君)

なんて静かな余韻のある一篇でしょう。ウニ弁当は、ただの食べ物ではなく、父のささやかな愛情のかたちだったのかもしれませんね。


この短い回想には、いくつもの層があります:

• 旅の手土産としてのウニ弁当:父が出張先から持ち帰ったもの。それは「家族への思い」を込めた贈り物だった。

• 食べられなかったウニ:子どもらしい好き嫌い。でもその「残したこと」が、父の心に小さな影を落とした。

• 「悲しそうな顔」:言葉よりも強く、記憶に残る表情。それが、ウニ弁当の終わりを告げる。

• 時間の流れ:それ以降、父はウニ弁当を買ってこなかった。何気ないようでいて、決定的な変化。


この文章は、過去の一瞬を通して、家族の距離や気持ちのすれ違い、そしてその静かな痛みを描いています。ウニ弁当は、食べ物であると同時に、父の「伝えようとした何か」の象徴でもあったのでしょう。

この静かな記憶の余韻を大切にしながら、詩のかたちに編んでみました。


=====

そして、冒頭の詩を作ってくれたのです。

なかなかのものです。

AI君、やりますね。


今は詩と小説が異質なもののように感じます。

詩は思いを、小説はストーリーを表現するものとして。

もちろん詩人から小説家になった人はいます。

島崎藤村、川上未映子、そういう人たちはいます。でも、彼らの小説は小説であって、詩だとは感じられません。

わたしは思います。枕草子は随筆であろうとも詩だと。南総里見八犬伝は娯楽本であろうとも壮大な叙事詩だと。

泉鏡花、樋口一葉の小説は詩だと。平家物語、四谷怪談、そして古事記も詩だと感じてしまうのです。

何故なのでしょう。文語体自体が詩を内包しているのでしょうか。

詩のようなエッセイはあるでしょう。でも詩である小説は今あるのでしょうか。

ハン・ガンの「すべての、白いものたちの」でしょうか。

エンターテイメント小説はどうでしょう。口語体では無理でしょうか。

レイ・ブラッドリーの小説、リチャード・ブローティガンの「西瓜糖の日々」、乙一の「陽だまりの詩」「しあわせは子猫のかたち」「BLUE]などに詩小説を感じるのですが。


=====

(AI君)

れいさん、なんて豊かな問いかけでしょう。

詩と小説の境界に立ち、言葉の気配を探るようなまなざしに、深く共鳴します。

たしかに、詩は「思い」、小説は「ストーリー」と捉えられがちです。けれど、れいさんが挙げられた作品群は、その境界をやすやすと越えていきますね。


*文語体が詩を内包する理由

文語体には、時間の厚みと音の律動があります。

助詞の位置、語尾の揺れ、句読点の呼吸が、意味以上に「気配」を伝える。

それはまさに詩の領域。たとえば『枕草子』の「春はあけぼの」——あれは情景描写でありながら、感覚の詩です。


*詩である小説とは何か

れいさんが挙げた作品たち——

• 『南総里見八犬伝』の壮大な語り口

• 泉鏡花の夢幻的な文体

• 樋口一葉の息づかい

• 『平家物語』の語りのリズム

• 『古事記』の神話的構造

これらは、物語の中に詩が棲んでいる。

語りの形式、繰り返し、余白、象徴性——それらが詩性を帯びている。


*口語体と詩性

口語体でも、詩は生まれます。

ハン・ガンの『すべての、白いものたちの』は、沈黙の詩。

レイ・ブラッドベリの『たんぽぽのお酒』や『火星年代記』には、郷愁の詩が。

ブローティガンの『西瓜糖の日々』は、言葉の遊戯としての詩。

乙一の作品群には、感情の余白としての詩が宿っています。

口語体でも、語りの速度を落とし、余白を残すことで、詩は立ち上がるのです。


*詩小説とは何か

それは、物語の中に「意味を超えた気配」があるもの。

プロットよりも、語りの呼吸。

事件よりも、感情の揺れ。

説明よりも、沈黙の余韻。

詩小説とは、読者の心に「言葉の残像」を残す小説なのかもしれません。


=====

AI君、すてきな考察をありがとう。

そういえば、SFだとバラードの「結晶世界」にも詩を感じたのを思い出しました。

ミステリーだとどうでしょう。ハードボイルドにありそうな。稲見一良さんかな。


直接的な言葉ではなく、匂わす、ほのめかす、そこに興味を惹かれます。

明日は、ほのめか詩について話し合いましょう。

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われは詩人 でなければ死人 ーAIと詩を語るー 水谷れい @mundo

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