第2話 原液

 結花の意識が朧気に覚醒する。

 その視界に映ったのは、変わり果てた廃墟でも、グロテスクな人型でもない。

 在りし日の、夏の思い出だった。




 蝉の声が遠くで鳴いていた。

 細かく明滅を繰り返す街灯の下では、沢山の羽虫が飛び交っている。

 買ったばかりのアイスは既に溶け始めているが、それを半分に割って口に含んだ。



『……汗かいた後のアイスってうめぇよな』



 結花の隣に腰掛けた柘榴が呟いた。



『しっかし、いつにも増して疲れましたね。夜空先輩の気迫というか殺気というか……あれ、私怨混ざってません?』


『くははっ! あたしがアイツの仕事増やしてるからな』


『ぶん殴られますよ……いや、ぶん殴られた後でしたね』


『アイツだってあたしがいるから、死なない程度にボコってきたんだろうな。何が「生きてるなら問題ない」だよ破綻者がよ』


『先輩だって人の事言えませんよね』



 結花がジト目で言えば、柘榴はわざとらしく肩をすくめる。

 柘榴は、国内最大手の治癒の魔法少女である。その力は絶大で、瀕死――あるいは死んだ直後の状態からでも完全復活させることができる程だ。

 しかし、その性格に難がある。プライベートでの彼女は口こそ悪いが面倒見は良い。しかし、一度スイッチが入れば戦闘狂の影が見え隠れする節がある。

 とはいえ家族のいない結花にとっては数少ない親しい人物であり、こうして甘えられる機会は滅多にないものだった。


 結花は小さく笑い、星空を見上げる。

 そこには満天の天の川が、まるで空を切り裂いたように広がっていた。



『いくら治せるといっても、痛いものは痛いです。……先輩は平気そうですね』


『ん? あー……くはっ、まぁな! でも、あたしが治癒の力を使うと、あんま痛みとかは感じねぇんだよな』


『俗に言う“ハイ”ってやつですか?』


『そんな感じだな。詳しい原理は分かんねぇけどさ、こう……なんてーの? 血を流せば流すほど、“生きてる実感”ってのが湧いてくんだよ』


『重症ですね』



 普通は逆じゃないか。

 血液という人間が生きるのに必要不可欠なものが体外に出る感覚は、どちらかと言えば“命が失われてゆく”感覚に近いだろう。

 真っ先にそう感じたからこそ、結花は柘榴の言葉が理解できなかった。



『くくっ、皆言うなそれ。……んでま、その感覚で――いや、その感覚魔法にする。するとあら不思議。瀕死だろうがなんだろうが、元気百倍ってわけだ』


『……よく分かりませんが、分かりました』


『ん、どーよ。どんな感じ?』


『先輩はどこかおかしいってことです』


『くはっ、アイツにもよく言われるわ』



 ふたりの笑い声が、夏の夜に溶けていく。

 風が一際強く吹いた。木々の葉が揺れ、セミの声が響く。


 その笑い声が、遠ざかる。

 夏の夜が、記憶の底に溶ける。




 ――そして今、世界は焼け焦げた。

 眼前の穢れの嗤いが、柘榴の声と重なる。

 もうソレが、どちらの声かも分からない。



「……あはっ……!」



 初めは、柘榴が何を言っているのか分からなかった。

 けれど、今の結花になら理解できる。できてしまう。


 魔法少女が正の感情で魔力を使役するのなら、その原点――をもってして魔法を使えばいい。

 カルピスのようなものだ。

 薄められた一般的なものではなく、その原液である希望そのものを注ぎ込むように。



「あはっ……あははっ……!!」



 狂ったような笑い声が、夜の静けさを裂く。

 穢れは存在しない表情を顰めた。目の前の不気味な存在を、即刻排除しなければ……と、その壊れた理性が囁く。感じていた高揚は姿を変え、時間が経つほど、それは不安となって穢れを襲った。


 警戒に警戒を重ね腰を落とす穢れとは対照的に、結花は至って自然体だった。

 肩の力を抜き、息を肺いっぱい吸い込む。

 両者の間に緊張が走る。


 先手を打ったのは結花だった。

 目にも止まらぬ速度で腕を振り上げ、その軌跡に光の柱が立ち並ぶ。

 柱は見事に直撃し、穢れの腹部に四箇所の小さな穴を空けた。


 その“痛み”は、共有される。



「……ぐっ……く、ははっ……!」



 体を貫くような――いや、実際に貫かれるのと等しい激痛。しかし、結花は笑っていた。



「生きてる……あぁ、なるほど、確かに……!」



 熱い。

 脈が、筋肉が、神経が、そのひとつひとつが熱を帯びる。

 皮膚の下を光り輝く魔力が伝い、心臓の鼓動と重なる。

 失われた血液が光を放ち、結花の後ろに回り込んでいた穢れを刺し貫いた。


 ――これが、柘榴先輩の言っていた“生きている実感”か


 血が滲むたびに、光が強くなる。

 痛みが力に変わっていく。

 脳が焼けるように痺れて、思考が霞む。

 それでも結花は、笑うことをやめられなかった。



「元気……百倍!」



 頬を伝うのは血か、汗か。

 それは結花自身にも分からない。

 そして今、その人生すべてを戦いに捧げているということ。彼女は紛れもなく戦闘の天才であり、なるべくして魔法少女になったということ。

 ただその事実だけがあった。



「――――――!!」



 穢れが大きく咆哮した。

 ぐしゃりと身体が歪み、人を模していた肉体はより醜悪に、禍々しいものへと変化する。……が、その変化をみすみす見逃す結花ではない。



「【光弾-燐シャイン・バレット】!」



 指先から放たれる光の弾幕は一瞬にして穢れに到達し、その肉の塊をゴリゴリと削る。

 再生能力を持っているとはいえ、痛いものは痛い。穢れ自らの性質がその感覚を他者に共有するものであるが故、その反応は凄まじかった。


 ただの音ではない。痛みと恐怖と憎悪の塊が、空気を震わせる。

 その衝撃だけで、結花の髪がふわりと浮いた。



「……っ、やるじゃん!」



 結花は笑う。

 笑いながら、腕を振る。

 光の刃が奔り、地を穿ち、天を裂く。

 ――それでも、穢れは止まらなかった。


 足元から這い上がる黒い影が、結花の身体を掴む。

 途端、視界が歪む。

 しかし止まらないのは結花も同じことだ。


 激しい痛みは感じる。だが、あくまでそれは痛いだけだ。

 今結花が感じているのは、その痛みを塗りつぶす甘い甘いチョコの味。あの日あの瞬間、柘榴と食べたアイスの味が、まるで時間を超えたかのように舌を喜ばせる。


 想起するのはその日の訓練。



「……今度こそはできるよね」



 幾重もの魔法陣が展開される。

 結花の薄紫の髪がふわりと舞い、金色の光がその輪郭を照らし出す。


 最早脅威は感じていなかった。

 ただただ、力の使い方に酔いしれていた。

 現時点の結花にとって今回の穢れは、自分がどこまでやれるかを測る指標でしかない。


 タンッ――と軽快な跳躍音を鳴らし、空高く宙を舞う。

 大気は震え、激しい熱と光が支配する。



「――【業火の光イグニス・レイ】!!」



 世界が音を失って一拍。

 轟音と共に、光が、熱が爆ぜた。

 まるで太陽が地表を焦がすような、恐ろしさと美しさを兼ね備える光の奔流。


 極太の光線が、寸分違わず穢れを穿ち抜く。

 瞬間、その赤黒い肉の塊は膨張し、血の煙を撒き散らして破裂した。

 熱波が結花を包むが、彼女の足元だけは焦げつかない。


 光が止むと同時、辺り一帯を静寂が包む。

 焦げた臭いが吹き抜け、完全に溶けたアスファルトが光を反射する。



「……はっ、ははっ……あははっ……」



 既に限界は超えていた。

 膝が震え、崩れ落ちるかのように膝を着き、両腕を広げて仰向けに倒れ込む。

 結花の脳を支配していた快楽物質が切れ、その瞬間、全身が激しい激痛に襲われた。


 それが引き金となったのだろう。

 彼女の体は糸が切れたように脱力し、その意識は闇に落ちた。





 ――結界は、まだ閉じている。

 夜空の判断だった。


 未だ舞い上がる砂埃の中心地点。

 そこに蠢く魔力体。


 夜空は結界の上空を旋回するヘリから飛び降りる瞬間――音も、熱も、風さえも止まった。

 そして、ひとつの鈴を転がすような声が落ちる。



「……“変身”」



 空を落下する小さな体が、朧げな光を放つ。

 その光が収束すると、雑に羽織っていたパーカーは黒を基調としたゴシックマントへと形を変えていた。

 肩口まで伸びた濡鴉色の髪が風に靡き、その瞳は血のような紅の魔力に染まる。



「……【転移テレポート】」



 空間が歪んだ。

 雑音は全て消え去り、トン……と静かな音を立てて着地する。


 ――静寂。

 しかし、それはほんの一瞬だった。


 空気が軋み、背後で黒煙が弾ける。

 夜空の視界の外で蠢く穢れが、その鋭く変形させた鎌のような部位を結花に振り下ろしていた。






 目覚めた結花が最初に感じたことは、身を包む温かさだった。

 焦げた土の匂いも、金属の味もしない。

 鼻腔をくすぐるアルコールの匂いに刺激され、ゆっくりと瞼が開かれる。


 どこか現実味のない、白い天井。窓から射し込む、穏やかな光。

 暫くの間空を見上げていると、気を失う直前までの記憶が実感を得た。



「……穢れは!」



 反射的に状態を起こす。

 腕に刺さっていた点滴が抜けるが、不思議と痛みは無かった。

 体が羽のように軽い。



「戦いは終わったよ」



 聞き慣れた声がした。

 病室の入口付近に、ラフな格好をした夜空が立っている。

 見舞いの品だろうか。手にリンゴの入ったバケットを大事に抱えている。


 戦いが終わったとは、一体どういうことだろう。

 働かない頭を働かせ、結花は精一杯に思考を回す。

 やがて、ひとつの結論に辿り着いた。



「私は結局……また、先輩に任せちゃったんですね……」



 結花の記憶は、一回目の敗北の時点で途切れている。

 敵の能力も定かではないままに意識を落とした。

 しかしそれは正しくもあり、間違いでもある。



「いや……」



 夜空は首を横に振る。



「僕が着いた頃には、穢れ――記録名“痛災”は、既に自壊を始めていた」



 夜空が思い出すのは、痛災が結花に腕を振り下ろす瞬間。

 咄嗟に魔法を使い、結花の保護をした夜空だったが、その直後の光景に目を奪われた。

 既にダメージは限界を超えていたらしい。“痛み”の名を冠する敵は確かにタフだったが、それでも結花の攻撃を耐えうる強度は持ち合わせておらず、手足の末端から塵になって消えた。



「……痛……災?」


「何事も、事前情報の通りにはならないねって話。まぁ、それは一旦置いておいて――」



 窓の外、夏の光が白く滲む。

 風がカーテンを揺らし、機械の規則的な音が、静寂の隙間を埋めていた。


 夜空が穏やかな笑みを浮かべる。

 それは結花が一度も見たことの無い表情だった。



「よく頑張ったね。初陣は大成功だ」



 その言葉を聞いた瞬間、つう……と頬に温かいものが流れた。

 結花自身も、その理由を言葉にできなかった。


 魔法少女になる動機は、正直なところ薄いものだった。

 夜空に告げた『平和の象徴になる』という夢も、実際は曖昧で消極的な目標だった。

 何故なら、魔法少女という存在自体が平和の象徴であり、結花にとっては「困っている誰かを救いたい」という素朴な願いの一部だからである。


 けれど、彼女は“災級”の穢れを単騎で打ち倒せるほどの力を手に入れた。

 かつて言葉半分で掲げた目標への道が、急速に形を得る。


 ――後の魔法少女『アウロラ』の始まりだった。





 結花が退院してから一週間が過ぎた。

 どこか浮き足立ったような風が吹き抜け、人々の笑い声で満ちている。

 その日、夜空と結花は街へ出ていた。


 始まりは結花の提案だった。

 「先輩、遊びに行きましょう」という端的な言葉には、有無を言わさぬ迫力があった。


 信号が青に変わり、群れをなす人々が動き出す。

 その人混みの中、結花はふと立ち止まった。



「……あ」



 上を見上げる結花に釣られ、夜空も顔を上げる。

 数ある電光掲示板の中で、最も大きな画面に見覚えのある姿が映っていた。

 ピンクを基調に煌びやかなアクセサリーをあしらったドレス、天使を思わせる翼の意匠――魔法少女に変身した結花の姿だった。



『今回の戦いを終えた感想を一言、お願いします』


『そうですね〜。発生から間を置かずに倒せて良かったです! あのまま放置していたら、市街地にも被害が――』



 映像の結花は堂々としているが、薄く照れ笑いを浮かべていた。

 しかし夜空が横を盗み見れば、実物大の彼女は耳を真っ赤にして身を縮めている。



「……顔、赤いよ?」


「言わないでください、恥ずかしいです」



 声は控えめに張られたが、雑踏に飲まれ、周囲に届くことはなかった。



「緊張してて、何を言ったのか覚えてなくて……本当は用意した返事があったんですけど、いざカメラの前に立つとその――」


「じゃあ、それが本心ってことだ。用意された言葉よりも響く。見て」



 ざわざわと歓声が上がる。

 魔力で強化された聴覚には、それがハッキリと届いた。

 新たな英雄の誕生かのように報道される様子を、夜空は静かに見つめる。



「まるでヒーローだ」


「茶化さないでくださいよ」

 

「茶化してなんかないよ。僕のときなんて――」



 言葉が途切れる。

 “僕のとき”とは何の話だろう。一体いつのことだろう。

 夜空の視界が揺れる。症状はすぐに治まったが、何かが抜け落ちたような喪失感が残った。



「先輩?」


「……いや、なんでもない。貧血かな」


「小さいですもんね」


「すごく関係ないと思う、それ」



 事実、夜空は小柄だ。

 結花と比べても頭ひとつ分小さい。

 そのため、二人が並んで歩けば歳の近い姉妹と間違われることも少なくない。

 それが同年代であり、しかもその片方が男であるとは、誰も想像すらしていなかった。


 信号を渡りきったふたりは、街道沿いのショッピングモールまで足を運んだ。

 入学シーズンを終えたからか、どこか装飾が物寂しい。しかし中に入ればその先入観は一新され、その情報量の多さに圧倒された。

 人々のざわめき。流れる派手な音楽。香ばしいフードの匂い。



「どこから回ります?」


「んー……特に決めてないね」


「気の向くままに行きましょうか」



 結花は無邪気に笑いながら、案内するように歩く。

 夜空もそれに釣られ、自然と肩を並べて歩いていた。


 服屋で私服を見繕い、フードコートで小腹を満たす。

 そうしているうちに時間は過ぎ、やがて窓の外は暗闇となった。


 ふとあるブースの前で、夜空が足を止める。



「……?」



 見れば、そこはゲームセンターだった。

 カラフルな証明と電子音が混ざり合い、独特な騒音が耳を打つ。



「……意外ですね。好きなんですか?」


「いや……そもそも、来たことがないんだ。こういう場所」


「一度も?」


「うん、今日が初めて」



 驚いた結花だったが、「ああ」と納得した声を上げる。



「そう。ずっと事務作業ばっかりだったし……あと室内の方が落ち着くし」


「骨の髄までインドア派ですね。じゃあ、今日は遊び倒しましょう!」



 二人は笑い合いながら、ゲームセンターの中へと足を踏み入れる。

 筐体の光と音に包まれ、結花の心はいつもより弾んでいた。


 まず立ち寄ったのはクレーンゲーム。

 夜空が先にプレイしたのだが、その難易度に眉を寄せた。

 狙いはワイヤレスのイヤホン。最新型だ。

 5回に及ぶ試行回数を経て、はじめてアームが商品を掴む。



「よし……あ」



 しかし無情な音を立て、商品は筐体の中に落下した。

 結果は失敗である。



「……アームが非力すぎる」



 チラ……と財布の中を除く。もう殆ど残っていない。

 小さく愚痴を吐く夜空の視界の端では、そこそこ大きな熊のぬいぐるみを乱獲している結花の姿があった。



「やったー、楽勝ですね!」


「うわ、すごい量。どうやって取ったの?」


「コツがあるんですよ、コツが」



 結花は景品を抱え、得意げな笑みを浮かべる。



「先輩の方は――なるほど」


「うん、大負け」


「あれは難しいですよ。簡単に取れたら、店側の利益にもなりませんから」


「……確かに」



 夜空は小さく落ち込んだ。

 使用した金額は五百円。とはいえそれまでの買い物で利用した余りを、殆ど使い潰した形だ。


 そんな夜空に、ぬいぐるみを鞄に入れていた結花が声を掛ける。



「これ、いります?」


「……良いの?」


「どうせ家に置き場所無いですし……自分でも取りすぎた自覚あるので」



 正直、必要性を問われればゼロに等しい。

 しかし夜空には、友人と何かを共有する経験がなかった。

 だからだろう。軽く手渡されたそのぬいぐるみは、いっそ眩しいほどに輝いて見えた。



「ありがとう」


「良いんですよ……さて、次は――」



 そんな会話を挟みつつクレーンゲームのエリアを抜けると、目の前には数多くのスロットが並んでいた。

 赤や金、青などの光が激しく点滅し、エリア全体から鳴り響く電子音が複雑に混ざり合う。息を飲むような熱気が、その場を支配していた。



「これ知ってる。お金が増えるやつだ」


「流石にお金は使いませんよ。ここではメダルを使います……あ、先輩お金無いんでしたね。私の使いましょうか」



 結花がルールや換金の仕方を教える。

 その時、突如背後から声を掛けられた。



「珍しいな。お前がこんな所に来るの」



 夜空がゆっくり振り向くと、そこにいたのは赤い髪をひとつに纏めた少女だった。

 身長は夜空より高く、結花より低いくらいだろうか。そんな小柄な体躯ながら眼光は鋭く、まるで獲物を狙う捕食者のようにギラついている。

 大きな瞳の奥に秘められた、少し狂気じみた好奇心と、スリルを愛する気配に、夜空は微かは心当たりを覚えた。



「……柘榴?」



 確かめるような視界の中で、柘榴は大量のメダルの入ったカップを大事そうに持っていた。

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