第1話 光の魔法
『……ザザッ…………ザッ…………』
ヘッドセット越しに、微かなノイズが耳を掠める。
風切り音が窓を叩き、回転翼の振動が硬質な座席の下から伝わってきた。
夜の街が眼下に沈み、光はほとんどない。
しかしその遠く、燃え尽きた街灯の名残がちらちらと瞬いていた。
結花は無言で拳を握る。
手袋越しでも分かるほど、手が震えていた。
指の隙間に汗が滲み、心臓が早鐘を打つ。
息を吸うたび、胸の奥が痛かった。
『本任務の討伐対象は、第一区域廃街に出現した穢れ。等級、暫定を“厄”とする。民間人は退避済み。迅速な排除を求む』
無線が繰り返す任務内容は、もう何度も聞いた言葉のはずなのに、ひどく現実感が薄い。
夜空の任務に同行したことはあった。
しかし今回は違う。戦場に立つのが自分だという実感が、どこか遠くにあった。
穢れには二種類存在する。
突発的に発生する災害型と、空間の歪みから生まれる存在だ。
後者は“発生”を確認した後、ある程度の被害の大きさを予測できる。だからこそ、先んじて対処することが可能だった。
つまりこれは、準備された戦い。
結花にとっては、“初めて”の現場だった。
『――顕現まで残り三分です』
横目で見た結花は、目に見えて限界だった。
ヘッドライトの反射が、彼女の頬に浮かぶ緊張の色を照らす。
あまりにも静かで、まるで時間ごと凍りついているように見えた。
「緊張してるの?」
「……その、少しだけ……?」
少し間があって、ようやく絞り出した声。
かすかに笑って、夜空は頷く。
「大丈夫。最高だ」
「え?」
「怖くていい。寧ろ、怖がらないといけない。自分の命が掛かってるんだ。それくらいが丁度いい」
「……確かに、世の中には戦いに楽しさ――生きがいを見出す人も居ますよね。柘榴先輩とか」
「あれは例外だよ……」
治癒の力を操る魔法少女――『ザクロ』と呼ばれるその少女は、一般にバトルジャンキーとして知られていた。
基本的には後衛で傷付いた仲間の治癒を行うのだが、その性格故に仲間から恐怖されることもあるが、個人的な関わりのある夜空や結花とは組織内でも割と打ち解けている……そんな少女である。
「……和らいだ?」
「まぁ、そうですね……まったく、先輩のせいですよ。せっかく保ってた緊張感が殆ど無くなりました」
「そうかな? もっとカジュアルに構えても良いと思うけど……例えばほら、最近やってたスマホゲームのボス戦、みたいな感じで」
「流石に緩すぎません?」
結花は思わずはにかんだ。
事実、機内を支配していた張り詰めた空気が見事なまでに霧散した。
夜空の言葉は軽やかだけれど、不思議と結花の心に残る。
夜空もまた、どこか懐かしげに目を細めていた。
――かつて、自分も同じことを言われたのかもしれない。記憶には残っていないことだが、どうにも懐かしく思える。
「僕は今回、滅多なことがない限りは出ない。正真正銘、たったひとりの任務だ。やれるね」
「やれます」
即答。
「よし」
『残り1分を切りました』
眼下、荒んだ廃墟の一部分から、膨大な魔力の高まりを感じる。
空気が震え、結花は赤子が泣き叫ぶかのような耳鳴りに苛まれた。
『――任務開始』
通信が終わると同時に、結花は立ち上がった。
扉が開く。夜気が、肌を切るように冷たい。
それでも彼女は、ためらいなく飛び出した。
「……【変身】……っ!」
落下する結花が眩い光を放つ。
その光が収束すると、彼女を包んでいた服とは異なり、煌めく装束が形を取った。
淡いピンクの髪が靡き、その瞳が薄紫の魔力に染まる。
夜空の目に、一瞬だけ光が灯った。
街の明かりでも、機械の光でもない。
それは、彼女自身が灯した“魔法”の輝きだった。
二日前。
IASA 東都第三区支部にて、静かなノックの音が、部屋に響いた。
昼夜を問わず稼働する支部の中で、この部屋だけが妙に落ち着いている。
彼女――柊支部長が夜空を呼ぶことは、公私問わず頻繁にある。
至って真面目な仕事の話から、家の卵が切れてるから買ってくるように……など、語り始めればキリがない。最近では後者の方が多いくらいだ。
故に、夜空が格式ばらずにその部屋――半ば私室と化している支部長室に入るのは、考えようによっては当たり前と言えるだろう。
「おばさん、どうしたの? もしかしてエアコン消し忘れてた?」
隙間から顔を覗かせる。
その軽い調子に、たったひとり中にいた女性――支部長は一瞬だけ目を細めた。
だが、すぐに表情を戻す。
「今回は、公的な呼び出しだ」
厳格な声色に、夜空の肩が強ばった。
ふと姿勢を正し、声色を整える。
「……了解しました。支部長」
その三十秒にも満たないやり取りで、社内の空気が一変する。
日常は非日常へ……そうして、私語の余白が消えた。
夜空は静かに扉を閉め、正面の椅子に静かに腰を落とした。
支部長は無言のまま、机上の端末に指を滑らせた。
ディスプレイが淡く点灯し、ノイズの混じった監視カメラの映像が映し出される。
「……これが、今の第一区域の監視映像だ」
夜空は身を乗り出す。
画面の奥では、夜の街が不自然に揺れていた。
電柱の光が歪み、地面の影が波打つ。
まるで、現実そのものが呼吸しているかのような光景に、不思議と目が奪われる。
「発生源はまだ特定できていないが、規模は小さい。……ただ、発生周期が異常だ」
支部長の声が、低く響く。
夜空は無意識に喉を鳴らした。
「歪み……ですか」
「ええ、その通り。突発的な穢れとは違う、“構造的”な揺らぎ。原因は不明。だが、このまま放置すれば確実に災へと至るでしょうね」
画面の奥で、建物の壁がゆっくりと融けていく。
しかしそれは炎でも腐食でもなく、異様な現象だった。
「現場に出せる魔法少女は?」
「――一名」
短い沈黙。
現在この街で活動可能な魔法少女は、夜空を抜いて他にいない。元々数が少なかったというのもあるが、先の炎災との戦闘で、その尽くが重症を負ってしまった。
夜空は、言葉の続きを待つように支部長を見つめる。
しかし、返ってきたのは予想外の名だった。
「今回の任務は、結花に任せる」
瞳が揺れる。
「……結花を……ですか」
夜空の声は、思いの他強く響いた。
支部長は僅かに眉を上げ、しかし表情は崩さない。
無言の催促――言葉を介さないその誘導に、夜空は乗った。
「彼女はまだ、訓練課程を終えたばかりですよ。実戦の経験なんて一度も――」
「わかっている」
その一言が、会話の流れを止めた。
支部長は端末を閉じ、まっすぐ夜空を見据える。
「けれど、あの子には“適性”がある。この規模の歪みなら、恐らく対処できるだろう。今回に関しては、君よりも彼女を優先したい」
言葉が喉の奥で止まる。
否定したかった。けれど、否定の言葉が出てこなかった。
夜空は支部長の瞳に浮かぶ確信を見て、それを飲み込んだ。
「……僕より、ですか」
「君は経験を重ねすぎた。若い芽を育てるのも、先輩としての仕事だ」
支部長は立ち上がり、窓の外を見つめた。
沈みかけた夕陽が、街の空を血のように染めている。
「新しい時代を繋ぐのは、新しい手だ。結花はまだ、穢れを文字の上、それから、君を透かした状態でしか知らない。……それに、経験の有無なんて重要じゃないさ。君だって、初めての戦いは無経験で挑んだだろう?」
静寂。
夜空は唇を噛み、拳を握る。
それでも、絞り出すように口を開いた。
「……僕も同行します」
支部長はふと、口角をわずかに緩めた。
「あぁ。最初から、そのつもりだよ」
『顕現します! 魔力圧に注意を!』
ぶわりと生暖かい突風が吹き荒れ、落下する結花の体を僅かながら押し返した。
空気が怯え、震えている。地上から、何かが“こちら側”へと滲み出してくる気配。
だが不思議と、結花に恐れはなかった。
訓練の時――模擬戦で相手をしてくれた先輩の方が、よほど怖かった。
だからこそ、今はまだ笑える状況だ。胸の奥が少しだけ、熱くなった。
「……行ける」
手を、空に突き刺し掲げる。掌に集った光の束が、眩い槍の形を取る。
魔力が空気を焦がし、淡い金の粒子が尾を引いて散った。
『――【
轟音と共に、世界が白に染まる。
世界は金色の線を残して裂け、轟音が大気を叩く。
歪みから半身を覗かせた穢れの上半身らしき部分を、光の槍が正確無比に貫く。
音速にすら匹敵するその槍は軽いソニックブームを引き起こし、廃墟を跡形もなく塵に変えた。
どこからともなく響き渡った破裂音とともに、砂煙が星空を覆い隠す。
「……あ、こういう必殺技って最初に使っちゃって良いんだっけ? ま、いっか」
軽く息を吐いて笑う。
だが、土煙の中で何かが蠢いた。
崩れたはずの影が、形を取り戻していく。
空気の温度が一瞬で下がり、背筋を冷たい汗が伝った。
無くなったはずだった恐れが、足元から這い上がってくる。
「……っ」
その瞬間、穢れが顔を上げた。
顔――と言っていいのか分からない。眼球は無く、また耳も存在しない。妖怪のっぺらぼうと似た風貌だが皮膚は無く、筋繊維が露出している。
人のようで、人ではない。
口の部分に当たる場所が裂け、無数の口が嗤う――。
「――――――!!」
空気が軋み、耳の奥を鋭い痛みが突き刺す。
音ではなく、脳を直接かき回されるような感覚。
思わず顔をしかめ、結花は歯を食いしばった。
……覚えがある。先輩に聞いた、あの説明だ。
――『人型の穢れについて? まぁ、いないことはないし、なんなら厄介だね』
――『それはつまり、人間にしか持ち得ない。あるいは、人間しか恐れを抱かない概念の類のものだ』
――『言うなれば、人類特攻。感情に直接触れてくるような……こう……説明が難しいな』
――『対処法? うーん……そうだな。あくまで僕の場合はだけど、敵が何か動きを見せる前に、全身、細かくバラバラにしちゃうかな』
回想が弾けるように終わる。
鼓膜が痛い。呼吸が荒い。唇が避け、血が垂れている。
穢れの笑いが、頭の奥で反響して止まらない。
「先輩……ちょっと、まずいかもです」
結花が忌々しげに呟く。しかし、穢れはそれを気にも留めず、ゆっくりと腕を広げた。
左右へ、限界まで。人間だったら有り得ないような、異様な光景だった。手の甲同士がくっつくというレベルではなく、両肘を反対の肩まで伸ばす……と言った表現が正しいだろう。
めいっぱいに広げたその瞬間、何かがひしゃげるような音が響く。
次の瞬間、結花の両肩に鋭い鈍痛が走った。
「……ぁ……かっ……!」
視界の端を、白い火花が弾ける。
幸いにも、その痛みは長続きするものではなかった。
痛みが引いた瞬間、手のひらを握る。骨が折れていないことに安心すると同時、何も理解できない恐怖が湧いた。
ふと見れば、肩口から血を垂らしながらも、穢れは笑っていた。
いや……あれは、果たして笑いと呼べるのか。
音を出してもいないのに、耳鳴りのような不協和音が頭蓋の内側を揺さぶる。
一挙手一投足、その動きを見逃してはならない。
「……っ! ――【
穢れが一歩踏み出した瞬間。
咄嗟に放った光の玉は、空気を弾くようにして消えた。
防がれた。結花がそれを理解する前に、その骨の剥き出した拳が眼前に迫る。
魔力の流れが鈍い。威力が出ない。防げない。
さっきと何が変わった、何がおかしい。
そんな自問が、吹っ飛ばされる最中も結花の思考を占める。
遠くで、穢れは自らの首に手を回した。
その瞬間、結花の喉が締めつけられる。
「っ――!」
魔力での防護が間に合わなければ、その瞬間に死んでいただろう。
しかし少しでも気を緩めれば、脊椎をへし折られて終わる。
呼吸が奪われる。意識が遠のく。
空気を大きく吸い込んだ瞬間……肺が爆発しそうな最悪のタイミングで、息を止められた。
――それと同時に、理解する。
この穢れの能力。
恐らくは“感覚の共有”。共有される感覚は“痛み”だろうか。
先ほどからの自傷行為にも、納得がいく。
視線の先、顔面の下部は耳元まで裂けていた。
その形が、まるで笑っているように見えて――どうしようもなく不快だった。
結花は歯を食いしばる。
視界の端に、チリチリとした靄が広がる。
酸欠。
そんな言葉が頭を過ぎる。
抵抗も虚しく、意識は闇に沈んだ。
時はほんの少し遡り、ヘリコプター機内。
夜空と支部とを繋ぐ無線通信は、大いに盛り上がっていた。
『……夜空』
「なんです? 支部長」
夜空は無愛想に返しつつ、その視線はしっかりと眼下での戦闘に向けている。
そこに広がるのは黒い街。崩れた石造りのビル群の隙間……ひび割れたアスファルトは融解し、赫い光が焼き付いていた。
『いや、君……あれで、彼女の投入を渋ったのかい?』
普段は凛としている支部長の声だが、この瞬間に限っては呆れと驚きが見え隠れしている。
「あれ……あぁ、【閃穿・神槍】ですか。結構張り切りましたよ。でも、殆どは結花が頑張った結果ですね」
『限度があるだろう限度が! ランキング十位以内の魔法少女でも、あそこまでの威力は出せないぞ!』
「だからこそ、です。力は手に入れた。でも、まだ制御できていない。……理屈を知らない子に、戦いを任せるんですか?」
言いながら、夜空の視線は眼下を這う。
爆心地は、結花を中心に放射状に抉れていた。
瓦礫が蒸発し、空気がまだ震えている。
“光”を司る魔法の余韻は、しかし確かな熱を持っていた。
『なるほどな。それは由々しき事態と言える。帰ったら座学か?』
「そうですね。まず結界の張り忘れ。あれ、初歩中の初歩ですよ」
『張り忘れ? 大丈夫なのか……』
「代わりに僕が張ったので、問題は無いかと。現に市街地には光、それから音ひとつ漏らしてません」
結界――魔法少女が戦闘の際に展開する、半透明のドーム状の防御陣。
その役割は三つ。
ひとつ、戦闘による周囲被害の抑制。
ひとつ、民間人の避難の誘導。
最後に、実質的な穢れの拘束。
穢れは結界の外に出られない。
しかし同時に、外からも手出しもできない。
民間人専用の、中から外への一方通行。
つまり、援護も封じられる。
それが戦闘というより、ひとつの“儀式”めいている所以だった。
『十分だろう。彼女の技……名前は忘れたが、奥義だったか? あれも大概だが、その結界術も規格外だな。戦力のインフレ著しくて私は嬉しいよ』
「ひとつの街に、僕含めふたりの化け物がいる。……西都や他区画から小言が飛びますよ」
『まぁ、なんだ。嫉妬だ嫉妬。放っておけ』
冗談めかして言いながらも、夜空の声には緊張が滲む。
風が鳴り、空を覆っていた砂埃が落ち着いた。
雲の隙間を縫って、金色の月光が街を照らす。
その中心に、結花の影が見えた。
彼女が、膝をついている。
「……!」
戦闘において、状況が一瞬で変化することは珍しくない。
追い風向かい風の条件や光源の位置、地面の荒れ具合による乱数的な戦闘条件は、勝利の女神と喩えられることすらある。
しかし、これはどうだ。夜空の目が細められる。
廃墟の中央、穢れがぐらりと立ち上がる。
そして、真っ直ぐこちらを――見た。
空の遥か上、雲を裂く高さに浮かぶ自分を、正確に。
「……認識した……?」
『何があった』
「支部長、敵の等級を引き上げます。厄から“災”へ」
『ふむ、続けて』
「見つかりました。完全に、目が合った」
一瞬、通信が途切れる。
再び入った支部長の声は、先程より硬かった。
『了解した……そして、お前も行け』
夜空はわずかに逡巡する。
何を葛藤しているのか、瞳が揺れ、心拍が上がる。
拳を握り、開き、やがて首を振った。
「……いえ、今回はまだ行きません」
『なぜ……いや、良い。分かった。好きにしろ』
「助かります」
短い沈黙。
その後、夜空は一度大きく息を吸い込んだ。
「あのバトルジャンキーめ……」
地表の焔が、ふっと揺れる。
それは光であって光ではない。今も尚、結花から溢れ出る濃密な魔力そのものだった。
彼女の周囲の空気が、自ら発光しているかのような錯覚さえ覚える。
そんな暴嵐のような魔力の奔流が、ふと収まる。
その中心にて、結花はただ静かに呼吸を整えていた。
目を閉じ、胸の奥に沈んでいた何かを、静かに呼び覚ますように。
――希望。
光は、過剰な熱を帯びていた。
彼女の魔力が、色を、姿を変え、錆び付いた廃墟を駆け巡る。
柔らかな光は凝縮され、金色から白へ――まるで太陽の核のように、灼けつく熱を孕んでいく。
穢れの意識内に、もはや夜空は存在しなかった。
そこにあるのは、雰囲気の一変した結花だけ。
狂気にも似た殺気――あるいは闘気。
そのすべてを全身で受け止め、ひりつくような熱に包まれる。
生まれて初めて感じる、高揚とも呼べるナニか。
麻薬にも似た快感が、存在しないはずの脳を駆け抜けた。
血が噴き出すのもお構いなしに、筋繊維だけの首筋を掻き毟る。
結花はそんな穢れを視界の中心に据え、恍惚とした……されど肉食獣を彷彿とさせる獰猛な笑みを浮かべた。
「……あはっ……!」
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