異世界でも月が綺麗だから

つくもいつき

異世界の月

「集まったな。俺が今回指揮を執る、タツミだ」



 男が焚火の前に一歩進み出る。黒い長髪が帽子の下でさらりと揺れ、月光を受けてきらめいた。

 私はその隣で両手を背で組み、黙って彼の言葉に耳を傾ける。



 夜は深い藍に沈み、結界杭の上で青白い護符がかすかに脈打っていた。

 焚火は乾いた枝をはぜさせ、火の粉が星屑のように舞い上がる。遠くの丘では、封じられた異界の門ゲートが水面のように揺らめき、薄い唸りを上げている。



「まずは決死隊への志願、感謝する。――諸君らの働きが、集落の未来を左右することになるだろう。魔王軍の勢いも、もはや風前の灯火だ。安心しろ。俺たちが耐える間に、きっと異界の勇者たちが魔王の首を取ってくれる。彼らも必死に戦っていると天の声が聞こえて来ただろう? ……だから、なんとしてでも魔物どもを異界の門ゲートの中に押しとどめるんだ。魔王が死ねば、あの門も消えると聞く。いいな?」



 タツミは淡々と、しかし一語ずつ焚火に置いていくように語った。

 火に照らされた男たちが五十人ほど、皆、息を呑んだまま彼の言葉の終わりを待っていた。鎖帷子が小さく触れ合い、金具が夜気の中で冷ややかに鳴る。



「……傾向から見るに、異界の門ゲートが開くのは明日の朝だ。――今日は宴にしよう。最後の晩餐というわけでもないが、今夜だけは腹を満たし、体を休めてくれ。解散」



 タツミが帽子のつばを二指でつまみ、簡潔に礼をした。

 大きな体がわずかに前へ傾き、黒髪がはらりと肩へ落ちる。

 月がその一房を縁取って、銀の糸のように照り返した。



 合図と同時に若者たちは揃えていた足を崩し、周囲の卓へ散っていく。

 木皿にはかまどで煮込んだ根菜のシチュー、香草を練り込んだ薄焼きのパン、川魚の燻し。酒樽の栓が抜かれる音と、安堵の笑い声が重なった。



 女衆が手際よく馳走を並べていく光景に、私はふと、かつての世界での立食パーティを思い出す。

 こちらの卓は素朴で温かい。

 湯気に混じって、野草の青いにおいとあぶらの香ばしさが夜気に溶けた。



「副官殿、どうした? 貴殿は行かぬのか?」



 帽子をかぶり直したタツミが、焚火の明滅に片目を細めながら私の顔を覗き込む。

 モスグリーンの瞳に射抜かれ、私の鼓動は早撃ちを始める。

 私はかぶりを振る。銀の髪を右手で撫でつけ、軽く頭を下げて誤魔化した。



「いえ。その……」



「困りごとか? 貴殿の頼みなら聞こう。貴殿と出会ってから一年にも満たんが、命を助けられた数は両手で数えきれん」



 困った。

 見下ろされ、距離を詰められるだけで――私は、同性の彼を、どうしようもなく意識してしまう。

 焚火の熱が顔に当たるのに、背筋のどこかは冷たい。



「……タツミ殿、大丈夫です。そういうタツミ殿こそ、奥様やお子さんとの時間を大事になさってください。私などに構っていては、奥様もお子さんも拗ねてしまいます」



「そうかもしれんな。なら、貴殿も一緒にどうだ? トモエもユイナも貴殿を気に入っている。特に娘はな。来てくれたら、俺も嬉しい」



 彼の笑い皺が焚火に柔らかく刻まれる。

 胸の奥が、少しだけ痛んだ。



「……ありがとうございます。では、後ほどお邪魔します」



「そうしてくれ。では、また」



「――タツミ殿」



「ん?」



 歩き出そうとした背を、思わず呼び止める。

 私は彼と、頭上に浮かぶ丸い月を交互に見上げ、息を整えた。



「今夜は、月が綺麗ですね」



「……? ああ、確かにな。夜空にくっきりと満月が浮かんでいる。俺の好みの月だ」


 

「私もです。――引き留めてすみません。私はもう少し、この月を楽しんでから向かいます。では」



「ああ、またな」



 立ち去るタツミの背を見送る。

 彼は黒髪を肩で揺らしながら、人の輪へ戻っていった。笑い声と器の触れ合う音の向こうで、遠くの丘の異界の門ゲートはなお唸りを続けている。



 私はもう一度、頭上の月を仰ぐ。かつての世界と変わらない、異世界の月。

 その下に広がる大地には、元の世界とは異なる文化や習慣が根づいている。

 だからこそ――言葉を選ぶ。



「月が、綺麗ですね」



 伝わらない言葉をあえて選ぶことで、私は自分の気持ちに小さな区切りをつけた。

 吐いた息が夜気に混じる。

 指先で銀の髪を整え、顔を上げる。

 視界の月が、どうにも滲んで見えた。

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異世界でも月が綺麗だから つくもいつき @tukumo_itsuki103

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