第12話

 俺とレジーニが、声の聞こえてきた方に向かって走り出したのは、ほぼ同時だった。

 自分の耳を頼りに、俺とレジーニは、飲み屋街の通りを駆け抜ける。時折、言い争っているような、荒々しい複数の声が流れてきた。その声をたどる俺たちは、暗くて細い路地の奥へと導かれた。

 街灯の光も届いていない狭い路肩に、一台のバンが停まっていた。車体は不自然に揺れており、その中から声がする。

 俺とレジーニは急いでバンの後方に回り込んだ。扉の開かれた車内の光景は、予想通り、胸糞の悪くなるものだった。

 座席が取り除かれた広い車内には、四人の男と、女が一人いた。

 一人は女の両腕を拘束し、二人は衣服を剥ぎ取ろうとしていた。残る四人目は、履いているジーンズのベルトを、今まさに外したところだった。

 女は口に布を詰め込まれ、声を封じられていた。四人の男の拘束から逃れようと、必死にもがいている。が、男三人の腕力を前に、ねじ伏せられた彼女の抵抗は、何の効果も発揮されていない。

 俺は、頭の中の一部が、急激に冷えるのを感じた。

「なんだ、てめえらは」

 暴漢たちは、お楽しみの邪魔をした俺たちを睨む。

「見世物じゃねえぞ。とっとと失せな」

 ベルトを緩めた男が凄んだ。

 俺はそいつの襟首と片腕を掴み、バンから引きずり出し、地面に投げ落とした。奴の口から「ぐあっ」と呻き声が漏れる。肩を強打したのだろうが、受ける報いとしては軽すぎだ。

「貴様ッ!」

 女の足を押さえ込んでいた一人がバンを降り、俺に拳を振り上げた。鼻に一発当てて黙らせようと考えたであろうワン・ツーを繰り出す。が、動きが丸見えだ。男の左ジャブを右手でパリー。続く右ストレートを左に回避。俺という標的が目の前から消え、焦ってガードをおろそかにした男の脇に左拳を叩き込んだ。

 効果はあったはずだが、一発だけでは相手はダウンしなかった。奴は怒りみなぎる目で俺を睨み、

「この野郎!」

 雑言を吐きながら挑みかかってきた。

 同じようなテンポで打たれるパンチは、素人より多少はましだという程度だ。俺は男の攻撃を、軽いパリーとスウェイ、ヘッドスリップでいなす。一撃も当てられない男は、感情にまかせて大きく腕を振り上げた。隙だらけだ。俺はすかさず相手の腹に一撃食らわせる。うっ、と呻いて身体をよじらせたところで、奴の頭を掴み、近くの街灯柱にぶち当てた。

 男は鼻血を垂らして地面に崩れ、昏倒した。

 最初に投げた男が立ち上がり、身構えた。こいつはさきほどの奴より、多少腕に覚えがあるらしく、構えはそれなりに様になっている。

 ジャブの連打は予想より速かった。俺がすべての打撃を避けても、そいつはあまり慌てず、片足を軸にして回し蹴りを放った。俺がバックステップでかわすと、奴はそのままミドルキックに繋げた。俺は左腕で蹴りを受け止め、右ストレートのカウンターを相手の顎にヒットさせた。ぐらりと踏鞴たたらを踏んだところにローキックを見舞い、男を地面に崩れさせた。

 俺が二人を倒した時、背後から悲痛な叫び声が上がった。女が再び襲われたのかと思い、慌てて振り返る。

 女はまだバンの中にいた。乱暴に裂かれた衣服を可能な限り整え、自分自身を抱くように両腕を胸の前で交差させている。

 悲鳴の主は、彼女ではなかった。

 ぎゃあ、と、また絶叫が上がる。発信源はバンの陰になっているところからだ。急いで駆け寄ると、顔面血まみれになった男が、白目を剥いて倒れていた。その向こうでは、暴漢の最後の一人が壁に背中を押し付けられ、一方的な攻撃を受けていた。

 男は抵抗し、「許してくれ、もうやめてくれ」と、鼻血で汚れた頬に涙を流している。が、攻撃側――レジーニは、その懇願を聞き入れず、ボディーブローを連発していた。

 二人を、いったいどれだけ殴ったのか。レジーニの拳の皮膚は裂け、痛々しい四つの丸い傷から出血しており、赤い雫がぽとりぽとりと垂れていた。

「た、頼む。もうやめてくれ……」

 腫れ上がった唇をもごもごと動かし、男は命乞いをする。だがレジーニは無情にも、赤黒く変色した男の頬を殴りつけた。男の口から、小さな白いものが飛び出す。歯だ。

 レジーニの拳が、ゆっくりと振り上げられた。男は縮こまって、哀れな泣き声を漏らす。

 俺は背後からレジーニの手首を掴んだ。ぬるりとした感触だった。

「もういい、やめろレジーニ。そこまでにしておけ」

 女に対し、大の男が複数人で乱暴するなど、同じ男として恥ずかしく、決して許されない非道だと思う。レジーニにも同じ考えがあるのだろうが、いくらなんでもやり過ぎだ。

 レジーニは男を壁から引き離し、力まかせに地面に投げ飛ばした。そしてそのままきびすを返し、俺の手を振り払った。

 レジーニの表情を見た瞬間、俺の心臓は、冷たい息吹を吹きかけられたかのように、ひやりとした。

 彼のみどりの目は枯れ果てているように、俺には見えた。瞳孔は開き、俺の方を向いてはいるが、俺を見てはいない。

 

 なんて顔をしているんだ。

 

 純粋な絶望。

 希望を一束、抱くことさえ叶わなくなった、まよい子のような。


 人は、心に傷を負った者は、これほどまでに虚ろな眼差しを湛えるのか。


「レジーニ……」

 俺は無意識に手を伸ばしていた。このまま放っておけばレジーニは、今いる場所より、もっと暗く深い闇の中に没していってしまいそうな気がしたのだ。

 しかし、俺の手は再び払いのけられた。

「触るな!」

「レジーニ」


「触るな触るな触るな触るな触るなああああああああっ!!!」


 ほとばしり出た叫びは、己と世界とを断絶させる亀裂。

 周りを取り囲むあらゆるモノを遠ざけるための鉄壁。

 そうなのか、レジーニ。


 紅潮した秀麗な顔立ちに、怒りと苦悶の表情を張りつかせ、荒い呼吸を繰り返す。

 一歩、また一歩と後退し、俺から徐々に離れる。

 やがて背を向け、おぼつかない足取りで一人去っていくレジーニを、俺は引き止めることが出来なかった。


 かすかな足音が立つ。

 振り返ると、バンから降りた女が、不安そうにこちらを見ていた。乱れた衣服を出来る限り整えている。

 俺は一旦レジーニのことを頭の片隅に置き、ジャケットを脱いで、彼女に歩み寄った。

 女は俺が近づこうとすると、一瞬逃げるような素振りを見せた。が、結局は逃げず、俺が羽織らせたジャケットを素直に受け入れた。

 何か声をかけるべきだろう。何と言えばいい。怪我はないか。無事だったか。そんな言葉でいいのだろうか。俺たちが駆けつけた時の彼女は、脱がされている最中とはいえ、一応下着はつけていた。だが、実際には手遅れだったかもしれず。

 考えの足りない一言で傷つけるようなことは、絶対にあってはならない。

「その……」

 かけるべき言葉が見つからないまま、口の中が乾いていく。内心でおろおろしていると、そんな俺の逡巡を、彼女は見抜いたようだ。

「大丈夫、まだ何もされてない。本当に」

 声は少し震えていたが、発音はしっかりとしていた。気丈な性格のようだ。 

「助けてくれて、ありがとう」

「いや……いいんだ」

 無事なら、それでいい。

 非常に不謹慎ながら、仕事上の癖で、俺は彼女の容姿を観察してしまっていた。

 ついさっき、男たちにけだもののような視線を浴びせられていた相手に失礼極まりないのだが、滲みついた癖だけはどうにもならない。

 女にしては背の高い方だろう。だが、俺とは頭一つ分ほどの身長差がある。肩にかかるほどの長さの亜麻色の艶やかな髪からは、花のような香りがほのかに漂う。豊かな睫毛に縁取られた瞳は、渋めの青――オリエントブルーだ。

 年齢は二十代半ばくらいか。きめの細かそうな白い肌に、ふっくらと厚みのある唇。凛と咲く菖蒲アイリスを思わせる、綺麗な女性だった。

 彼女の姿をじっくりと眺めた俺は、ふと既視感を覚えた。彼女を見たことがある。いや、知っている。

 記憶は急激に浮上してきた。忘れていたのではない。思い出さないように押し込めていたのだ。

 心臓が跳ね上がるのが分かった。背中にピリリと電流が走る。

 黙りこんでしまった俺を、彼女は怪訝な表情で見つめ返す。そのオリエントブルーの双眸が、少しずつ、少しずつ開かれていき、彼女の口から、あっという驚きの声が漏れ出た。

「嘘……、ひょっとして、バージル……先輩?」

 俺は小さく頷き、改めて彼女を見た。

「セリーン……」

 

 もう二度と会うことはないと思っていたのに。

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