第13話
セリーン・ミンディは、俺がしがない会社員だった時の “唯一の後輩”だ。
当時の彼女は十七歳。本来なら高校に通っているはずの年齢である。が、家庭の経済的事情で中退せざるを得ず、いくつかアルバイトを転々としていた。そんな中で、俺の勤め先の雑用係として採用されたのだった。
十七歳のセリーンは、ショートヘアの似合う溌剌とした美少女で、よく働く真面目な子だった。時給は高くも低くもない程度だったろうが、命じられた仕事は不平を漏らさず、懸命にこなしていた。
ただ、一見しっかりしているようで、そそっかしい面を見せることもしばしばあった。ちょっとした計算ミスや、収納場所間違いなど、大した被害のない小さなミスだ。それでもセリーンは、間違うたびに縮こまって反省する。
若さ溢れる働き者の彼女は、社内で可愛がられていた。女性社員たちには、妹のように扱われていたくらいだ。
当然のことながら、何人かの男性社員からは、下心を向けられていた。連中はなんとかしてセリーンの気を引こうと、あの手この手を駆使していたが、彼女が誘いに乗ったことはなかったらしい。
俺はといえば、そんな彼女が眩しくて、自分から近づくのをためらっていた。だというのに、セリーンを狙う男連中の妬みを、一身に受ける立場にあった。俺もまた、社内ではほぼ雑用係のような立ち位置にいたので、必然的にセリーンに一番近い存在になっていたからだ。
何故かセリーンは、俺に好意的に接してくれていた。普通なら――俺の考える“普通”の感覚で言うならば――いるのかいないのか分からない、責任ある大きな仕事も任せられない、社内のお荷物のような男と一緒に働くのは、女性にとっては気分のいいものではないのではないだろうか。
だからと思い、俺は自主的に彼女と距離を置こうとした。俺と親しくしていては、彼女にとってもよくないだろうと考えたからだ。
けれど、セリーンは俺とともにいるのを嫌がらなかった。積極的で、誰に対しても偏見を持たずに接する性格だったからかもしれないし、本心を隠すのが上手かっただけなのかもしれない。
なんにせよ、セリーンは俺を“先輩”と呼び、慕ってくれた。俺には、それが嬉しかった。
彼女に対する感情が、“頼もしい後輩”から特別なものに変化するのに、大きなきっかけはいらなかった。俺の中のセリーンの存在は、何よりも変えがたいものになっていった。
しかし俺は、その気持ちを伝えようとは考えなかった。彼女は何といってもまだ十七歳で、俺とは八・九歳も離れている。未成年に手を出すのはためらわれたし、彼女には俺なんかよりもずっとふさわしい相手がいると思ったからだ。
そもそも俺は恋愛には消極的だ。男としての自信など、皆無に等しい。
それに、彼女が俺を選ぶことなどありえない。職場で慕われているからといって、過剰な期待は虚しいだけだ。
セリーンがアルバイトとして勤めるようになってから、半年以上経った冬。北風厳しい、ある日の暮れ
営業時間は過ぎ、社員たちはとっくに退社していた。が、俺は仕事が片付いていなかったから、一人残業し、コンピュータと向き合って会議資料をまとめていた。残業代など出ない。そのあたりを考えていると仕事が手につかなくなるので、理不尽な現状には目を瞑り、早く終わらせるために黙々と進めていた。
「まだ帰らないんですか?」
ふいに声をかけられ、作業を中断し、俺は顔を上げた。
オフィスの入り口に、チャコールグレーのショートダッフルを着たセリーンが立っていた。黒いスキニージーンズを履いた彼女の脚線美が眩しい。十七歳とは思えないプロポーションだ。
「片付いてないからね。今日中に終わらせないと」
俺は彼女の美貌に見蕩れそうになったのを、咳払いでごまかした。
「でも、それって先輩の仕事じゃないですよね?」
セリーンは眉を顰めて、コンピュータを指差した。たしかに、この仕事をやるべき人間は、他にちゃんといる。だがそいつは俺に仕事を押し付け、定時にさっさと退社した。断りきれなかった俺が悪い。
肩をすくめるだけの俺に、セリーンは首を振った。
「嫌なら嫌だって言えばいいのに。先輩、人が良すぎです」
セリーンは物事をはっきりさせる性格だから、優柔不断な俺には業を煮やしていたに違いない。
「君こそ、なぜここに? もう帰ったかと思ったのに」
問うとセリーンは、困ったような顔で、もじもじと身じろぎした。
「とりあえず座らないか?」
空いた椅子を引き寄せて勧めると、セリーンは素直にそこに座った。
「何か忘れ物でも?」
「いえ、そういうわけじゃないですけど……」
着席したセリーンは、バッグを抱えて床を見つめる。いつもの彼女らしくない、曖昧な態度だった。
それからしばらくの間、俺は作業を続け、彼女は横で静かに座っていた。俺としては、セリーンが側にいてくれるのは嬉しかったが、彼女が帰宅せずにオフィスに残っている理由は気になった。
冬は夜の訪れが早い。窓の外はもう真っ暗だ。あまり遅くなると、一人で帰らせるのが不安になる。
ようやくセリーンが話を切り出した。
「あ、あの。先輩」
「ん?」
「明日から、星誕祭ですね」
「ああ……そうだったなあ」
星誕祭は、十二月の中頃にある、冬シーズン最大のイベントだ。大陸全土で盛大に行われる行事で、毎年十二月の第二週目の土・日曜日が期間となる。
この二日間、いくつものパーティーが開催されたり、プレゼントを交換したりと、華やかではあるが、何かとせわしない。家族、友人、恋人と過ごすのがお決まりとされている。が、俺には関係のない話だ。わざわざ実家に帰る気にはならないし、友人にも、恋人にも恵まれていないのだから。
「そうだったなあって、気のない返事ですね」
「俺には、星誕祭なんて、縁遠いイベントだから」
「先輩、それ、凄く寂しい
「うん、まあ、そのとおり」
「集まってパーティーとか、そういう予定はないんですか? 友達とかと」
「そんな予定はないな」
「オフィスの人たちとは?」
「俺が誘われると思うかい?」
「そ、それじゃあ……」
セリーンは少し言葉を区切り、バッグを抱えなおして、再び口を開いた。
「彼女……と、ですか?」
予想外の一言だった。セリーンは、こんな俺に恋人がいると思っていたのだろうか。
「彼女? まさか。それこそ一番縁遠い存在だよ」
自分で言っておいて情けないことだが、事実なのだから仕方がない。するとセリーンは、ぱっと顔を上げた。
「だ、だったら、土曜の夜、あたしと食事に行きませんか?」
彼女が何を言っているのか、しっかりと理解するまでに、一分は要しただろう。俺は口をぽかんと開けた阿呆面で、頬を桃色に染めたセリーンを見つめた。
「…………は?」
「あ、えーっと、つまり、その、星誕祭デートってこと……です」
「デート? って、俺と、君が?」
「はい」
「罰ゲームで?」
「違います」
「ドッキリ?」
「違います」
「現場に落とし穴が?」
「無いです」
訳が分からない。罰ゲームでもドッキリでも罠でもないなら、どうしてセリーンは俺にデートを申し込むのだろう。その時の俺には、すぐに理解出来なかった。
俺の脳内に「?マーク」が飛び交っているのが見えたのだろうか、セリーンは困惑の表情で、おずおずと尋ねた。
「あたしと一緒じゃ嫌ですか?」
彼女がとても傷ついたような顔つきになり、俺は慌てて首を振った。
「ま、まさか! 違うよ、そういう意味じゃない。ただ、君に誘ってもらえるとは思ってもみなかったから。だから、驚いたんだ」
「あたしの言葉が信じられなかったんですか?」
「正直に言うとね。だって考えられないだろ。俺はオフィスの日陰者で、誰からもまともに相手にされてない。そんな俺を、まさか君がデートに誘ってくれるなんて、考えられるはずないだろ?」
説明はこれで充分なはずだった。が、彼女には通じなかったらしい。セリーンは何故か怒ったように眉を吊り上げ、俺のデスクを掌で叩いた。
「先輩は自分を卑下しすぎです! 仕事も出来て、気配り上手で、何でもそつなくこなせるのに、自己評価低すぎなんですよ。そんな卑屈になる必要、全然ないじゃないですか! もっとしっかりして!」
「あ、はい、すいません……」
セリーンの怒りの理由が分からず、勢いに押されて謝罪の言葉が出てしまった。
オリエントブルーの瞳が、俺の視線を絡め取る。真っ直ぐで、心なしか熱っぽく見える眼差しから、俺は目を離せなかった。
「自分の仕事を平気な顔で他人に押しつけるようなエリート思考の奴らより、仕事にも他人にも、真面目に誠実に接する人の方が、ずっと素敵です」
背筋の産毛が立つ。心臓がとんとんと跳ねる。
「先輩には、いいところ、たくさんあるんですよ。他の誰にもないような、いいところ。あたしだけは、それ知ってますから」
言いながら、徐々に俯くセリーン。頬だけでなく、耳まで赤くなっている。今にも湯気が立ち昇りそうだ。
唐突に理解した。いや、理解したというより、ほのかな期待が芽生えた、と言った方が正しいだろうか。
ひょっとしたら、彼女は俺のことを――。
湧き上がった期待は、もう一方の声に押しとどめられる。
――本気にするんじゃない。からかわれているだけに決まってるだろ。
ああ、そうだな。その可能性の方が高い。
でも、もし本当だったら?
そうだとしたら。
「誘ってくれてありがとう。嬉しいよ、本当に。だけど俺でいいのか? 君こそ彼氏がい……」
「いません! フリーです!」
俯いていたセリーンは、顔を上げるや早口でそう答え、椅子を鳴らして立ち上がった。
セリーンの綺麗な顔が目の前に迫る。なんだ、と思ったその瞬間に、彼女の柔らかな唇が、俺の唇に重ねられた。
触れ合っただけの、軽いキスだった。セリーンの柔らかさと、身体に纏わりついた花の香りに当てられ、俺の脳は熱に浮かされたようにくらくらした。
唇が離れ、オリエントブルーの輝きが俺を見つめる。
「明日、夜七時に、『
呟くように言い残すと、セリーンは足早にオフィスを出て行った。
あとに残されたのは、花の香り。そして、ぼうっと呆けたままの俺だった。
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