第一章

第一話 最適な都市

午前八時三十八分。

 第七学術都市の四番ホームには人工の風が吹いていた。


『次の電車は四番ホームに到着します。本日の乗車混雑指数は七十四パーセント。最適な乗車位置は三号車から六号車です』


 駅のアナウンスは人間の声色を模しているが、その音声に揺れはない。抑揚も、咳払いも、間違いもない。故に「人間ではない」という事がはっきりと分かる。


 海原透真うなばらとうまはポケットに両手を入れたまま、その声を聞き流した。


 ホームに漂う空気は毎朝ほとんど同じだ。温度は二十二度で固定され湿度は四十五パーセント前後。季節は春のはずなのに、空気はいつも春の平均値で管理されているから、肌に触れる風で季節を判断するのは難しい。空は薄く晴れているが、これは都市大気フィルタの影響なので本当の天気とは少し違う。


 この街では、朝から晩まであらゆるものが「最適化」されている。


 遅刻が起きない電車。並ばないカフェ。怒鳴り声の出ない駅。

 快適そのものだ。文句を言う理由はない。

 それでも、ときどき息苦しくなることがある。


 電車が滑るようにホームへ入ってくる。その車両は無人運転で揺れはほとんどない。ドアのふちに淡い灯りが走り、その光は三号車から六号車まで続いている。乗車の「最適位置」示す誘導灯だ。透真の目の前に電車が止まり扉が開いた時だった。


「透真、こっちこっち。四号車のほうが座れる可能性高いぞ」


 アナウンスの知らせを無視して二号車へと乗ろうとする透真を呼び止める声は三号車の方向から聞こえてきた。

 その声の主は永原晶ながはらあきらが手を振りながら透真を呼んでいた。あきらは高校の頃からの友人で、同じ大学に進んだ数少ない友達の一人である。

 ここで出会った事は多分偶然なので透真とうまあきらが呼んでいる四号車の所まで行く事にした。


「朝からAIを信じて動くのなんか情けなくない? しかも四号車が今日も最適とは限らないぞ?」

「そうか?俺は昨日四号車で座る事が出来た。だから俺はAIを信じる。それに講義十限目まであるんだぞ今日」

「AIの奴隷だなまるで。あと、僕たちの通う大学に十限目はないぞ」

「気持ちの問題だよ。あと、俺はAIを信じているだけで、こき使われるような事は今のところはない」


 軽口を叩き合いながら車内に入る。

 通学や通勤という事もあり車内はそれなりに混んでいたが数秒後、本当にすっと座席が空いた。晶は勝ち誇ったように透真を見ると席に座りスマートウォッチをタップし始めた。


「透真見ろこれ。昨日のデート結果なんだけど『相性指数八十九パーセント』ヤバくね?」

「朝イチでそれ見せるあきらのテンションのほうがヤバいと思う」

「ほらここ。『会話のテンポは良好。次回、手をつなぐ適切なタイミングは平均より一・三分早めで問題ありません』って。細かいよなー」


 画面にはハート型のグラフと時系列ログ。

 まるで健康診断の結果みたいに、恋愛が管理されている。


「晶はこういうの、嬉しいのか?」

「嬉しいだろ、そりゃ。外したくないし」

「外したくないって何を?」

「そりゃあタイミングだよ。手を繋いだり、かける言葉とか、さ。失敗したくないじゃん」


 『なるほど』と透真は思った。


 恋愛のことを「外す/外さない」で語れるのは、ある意味でこの都市らしい。ここでは恋愛で失敗することをみんなは恐れている。


「おまえも使えばいいのに。相談だけしてみ? 別にAIが勝手に告白するわけじゃないんだからさ」

「……いや、いい」

「透真ほんと俺達の親世代みたいなこと言うよな。昔は今みたいにAIが発達してなくてもっと勢いで生きてたって聞いたぞ」

「朝から世代論やめてくれ」

「マジでそのうち、“恋愛AI使ってません”ってプロフィールに書くのが逆にモテる時代くるぞ」

「それは結構な時代だな。僕は歓迎するよその世界」


 晶が楽しそうに笑い、会話はいったん切れ、透真は車窓の外を見る。

 都市の境界線が流れていく。

 ビルの輪郭は直線で、広告は宙に浮き、通りを歩く人たちにはほとんど足どりの迷いがなかった。


 「最適化」は、義務ではない。誰も銃を突きつけられてはいない。ただ、たいていの人が自分からそれを選んでいく。楽だから。安心だから。間違えにくいから。

 わざわざ不安定な方を選ぶなんて普通はない。


 その裏で透真は考えていた。


 『不安定そのものが消えていくのは、どうなんだろう?』と。


 心の角を削られて丸くなっていくみたいだ。転ばないかわりに、走らなくなる感じ。

 『この世界には不安定はもうないのかもしれない』と感じた透真は目を瞑った。


       ※※※※


 大学に着き講義が始まる頃には、人工空調は朝用から午前用のモードに移動していた。教室の照明は、学生のまばたきの回数にあわせて色温度を微調整してくれる。

 教授が入室し講義が始まる。

 今日のテーマは「支援AIの倫理」。


「AIは"相談"と"支援"までは許されているが、"決定の代行"は禁じられている。これはこの都市の基本規約ですね」


 教鞭を取る教授の声は生の声だ。少し掠れて、ところどころ言い淀む。その不完全さが、妙に安心する。


「ではここで質問です。『自分は告白するべきか?』とAIに聞いて、"はい"と言われて告白した場合、その決定は誰のものになると考えるか?」


 静まりかえる教室の空気に堪らず透真は手を挙げた。


「どうぞ。意見を」

「……形式上は本人のものです。でも実質的にはAIのものだと思います」

「なぜそう思うんですか」

「AIが"失敗しにくい答え"を提示してくれるのはわかります。けど、それを信じて動くってことは、『失敗しても納得できる』っていう人間側の条件を捨ててるってことだから——」


 つまり、こういうことだ。


 自分で決めたことなら失敗しても『あのときの俺の判断だから』と受け止められる。後悔はない。

 しかし失敗した時、『俺の判断じゃない。AIがああ言ったから告白したんだ』とAIを責めてもそれができない。

 どこまでもずっと引きずり続ける。たとえ"軽くても"だ。


「AIが出した選択肢は"後悔しないかどうか"ではなく"正しいかどうか"で選択肢を出してくれる。人間がそれを真にうけて実行すれば、それはAIが決定したも同じだと思います」


 教授は、ふっと口元だけで笑った。


「今の時代には珍しい感覚を持った意見ですね。つまり……、後悔まで自分で引き受けたい、ということですか?」

「はい」


 前の席の女子学生が、こっそりこちらを見た。苦笑とも、興味ともつかない顔つき。


「……不便を愛せる人はもう少数派なんですけどね」


 教授はそう言って、板書を続けた。


         ※※※


 昼休み。透真と晶は食堂にいた栞と一緒に昼食を食べていた。


「ねぇ透真」


 パンをちぎりながら話しかけてくるのは水瀬栞みなせしおり。肩までの伸びた髪をひとつ結びにしている。透真の数少ない友達の一人であり性格は冷静で、観察力が高い。


「恋愛支援AIにだけは頑なに手を出さないの、なんで?」

「興味ないだけ」

「嘘はっけーん。透真ってわざわざ興味ないことを"興味ない"って言わない人だもん。」

「……一回だけ使われたんだよ。向こうに」

「向こう?」

「『このAIで出た相性が低かったからごめん』って言ってフラれたことがある」


 栞はちぎったパンを口に運ぶ寸前で固まった。


「えっ知らなかったわ。それいつの話?」

「中学のとき。もう4年くらい経ってるけどね」

「……うわ、なんか……他人事とは言えすごいねそれ。私でももう少し柔らかく断るし」

「便利だったんだと思うよ。相手からすると、"私はそうでもない"って立派な言い訳に使えるし。断れる道具としては最適解だよ」


 話していて自分でも少し笑えてくる。

 数字一つで終わるほど薄っぺらい感情だったと考えるともう恋愛じゃなくて、サービスメニューに近い。


「それ以来、ああいうのは苦手なんだよ」

「……なるほどね」


 栞はそこで何も慰めなかった。代わりに、こう言った。


「でもさ。AIをまったく使わないっていうのも、実はある種の依存なんだよ?」

「依存?」

「"自分の勘だけでいきたい"っていうこだわりも、結局はそれにしがみついてるってことだから。どっちも同じくらい危ういよ」

「"自分の勘"って言えばさっきの講義。透真なんかかっこいい事言ってたよな。『後悔まで引き受けたい』だっけ?」

「何それ?」

「やめろ晶。今になってちょっと恥ずかしくなってきた」


 それからの昼休みは透真は晶と栞に揶揄からかわれながら昼休みは終わった。


         ※※※


 夕方。

 講義がすべて終わるころには、都市の照明は昼色から夕色に緩やかに変わっていた。夕焼けっぽいオレンジは出ているけど、本物の夕焼けじゃない。第七学術都市は海に囲まれていないから、地平線が少ない。オレンジは、街の内側から投げられた演出だ。


 キャンパスを出たところで、透真は足を止めた。

 正門脇のベンチに、スーツ姿の中年――いや、よく見るともう少し上だ。白髪が混じった男が腰かけている。どこかの研究者っぽい静けさがあるが、大学の職員バッジはつけていない。


 男は、透真を待っていたように顔を上げた。


「海原透真くん、だね」


 不思議と警戒心は薄かった。声の出し方が柔らかく、こちらを見透かす感じがないからだ。透真は立ち止まって、軽く会釈した。


「……はい」


「話は短い。君にひとつ、預かってほしいものがある」


 男は内ポケットから、黒い薄型デバイスを取り出した。いまどきのウェアラブル端末とはまったく違う。手のひらサイズの、昔ながらの“機械”の形をしている。背面にカメラレンズがひとつだけついていて、画面は真っ黒だ。


「……スマホ、ですか?」

「そう呼んでもいい。正確には、恋愛支援AIの試験モデルだよ」


 透真は笑いそうになったがこらえた。


「すみません。俺、そういうの、多分一番向いてない人間ですよ」

「知ってるよ」


 即答だった。


「君は“最適化されない選択”を好むだろう?」


 透真は言葉を失った。


 男は続けて言う。


「これは、普通の恋愛支援AIとは違ったものだが、詳しい説明はまたいずれ。無くさず、壊さず、持っていてくれればいい」

「……どうして僕なんですか?」

「君なら、すぐに"答え"を求めないからだ」


 その言い方は少し穏やかで、でもどこか祈るみたいだった。押しつけでも、勧誘でもない。


 透真は手を伸ばしてしまっていた。自覚したときには、もうその黒いデバイスは自分の手のひらの上にあった。


 冷たい。驚くほど冷たい。

 まるで、長いあいだ誰の手にも触れられていなかったみたいな温度だった。


「名前は?」と透真は聞いた。


「すまない。訳あって名乗れないんだ。——僕はただの協力者だから」


 意味はわからない。けれど、言葉の隙間は嘘っぽくなかった。


「じゃあ、このスマホの名前は?」

「 そのうち分かる」


 男はそう言って立ち上がり歩き出したが、数歩で振り返る。


「海原くん。ひとつだけ、覚えておいてくれ」

「何でしょう?」

「"悲しませない"ことがいつも正解とは限らない」


 それだけ告げて、男は背を向けて正門から出て行った。


 透真は、手の中の黒いスマホを見つめた。

 画面は沈黙したまま。起動表示も、所有者登録もない。ただ、背面のレンズの奥、ほんの一瞬だけわずかな赤い点が灯って、すぐに消えたように見えたが透真は錯覚かもしれないと気には留めなかった。


 夜。

 帰りの電車の窓に映る自分の顔は、昼より少しだけ疲れて見えた。都市は整っているのに、心だけが整っていない。


("悲しませない"ことが、いつも正解とは限らない、か)


 透真は受け取ったスマホ眺めながら『もしこれが本当に恋愛支援AIならどうして僕なんだ?』という疑問がずっと頭の中で回っていた。


 走る電車の窓から見える都市の灯りは均一な距離で並び、どのビルの窓も計算された明るさで点灯している。


 この夜を街はもう「正しい」と分類している。

 そうでないのは彼の手の中のスマホだけだった。

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I.L.I.Aは最適解を探している 青野アオイ @work

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