間章 善なる神はいない

一話 神なき祈り

 朝靄が石畳を覆い、遠くで鐘の音が鈍く響いた。

 音は霧の中に溶け、まるで世界そのものが——祈りを忘れたかのように沈黙している。


 今日もまた、誰かの断罪が行われる。

 その名を呼ぶことさえ、もはや日常の一部になっていた。


 ——聖都アガルタ

 神の名のもとに築かれたはずのこの街では、いまや祈りよりも告解の嗚咽のほうがよく響く。


 涙は雨に紛れ、灰色の空は現を覆い隠すかのよう。

 やがて信仰は息を潜め、神は久しく沈黙したままだ。


 それでも人々はなお教会へと足を運び、見えぬ光を求め続ける。

 信じるという行為だけが、唯一残された“救い”だから。


 聖堂の回廊を、一人の少女が静かに歩く。

 白い法衣は朝の光を受けて銀色を帯び、靴音だけが淡く反響した。


 白銀の聖女——リリエス・アルヴェア。

 神の沈黙の時代にあってなお“奇跡”をもたらす存在として、民は彼女を崇めた。

 だが当の本人にとって、その呼び名は祝福ではなく、罰のようなものだった。


 胸元に下がる黒い十字架。

 それは“審問官”の証であり、同時に彼女自身の“贖罪の印”でもある。


 ——神の名のもとに、幾度も剣を振るってきた。

 民はそれを“奇跡”と呼び、

 リリエスはそれを“殺戮”と呼んだ。


 祈りの街で、祈りを奪う者。

 彼女の歩む先には、常に血の匂いが付き纏う。


 それでも立ち止まることは許されない。

 彼女の敵——“教団”を滅ぼすその日まで。


 *


 大理石の祭壇の前で、聖堂の司祭長が祈っていた。

 三十にしては老けて見える。心労のせいだろう。

 蝋燭の炎がその皺を照らし、影を深く落とす。

 祈りの声は掠れており、言葉というよりも呻きに近かった。


 祈りを終えた司祭長は顔を上げ、静かに言った。


「これは審問官殿。お久しいですな。——今朝の報せはご存じか?」


 彼とは以前、任務でこの街を訪れた際に一度顔を合わせている。

 ただ、そのときよりも目の奥に翳りが増えていた。


「うん。スラムで“教団”の信徒がまた動いたってね。

 しかも背神者の男が、“救済の儀”とやらを執り行ってるとか」


「ええ……。その男は、この教会の——私の恩師であり、先任の司祭でした」


「へぇ、それはまた厄介そうな話だね」


 短い吐息。

 その声の奥に、わずかに柔らかな響きが混じった。

 冷たい聖堂の中で、その音だけが人間らしい温度を帯びていた。


「ここは元々、小さな孤児院でした。信心深い慈善家が建てたのです。

 貧民や孤児に手を差し伸べ、自らの食を削ってでも施しを続けた。

 『神は我らの内に在す。愛とは生きることそのものだ』——それが、彼の教えでした」


 司祭長の目が遠くを見つめる。

 その先には、かつて灯っていた希望の残光があるのだろう。


「子どもたちは皆、彼を父のように慕っていました。

 やがて成長し、一人、また一人と旅立っていった。

 中でも、彼が最も信頼していた子がいた。

 名もなき孤児に“イアン”と名付けた少年です。聡明で優しく、まるで神の奇跡のような子でした。

 ……やがて、恩師の理念に賛同する信徒が増え、孤児院は立派な聖堂となったのです」


 そこで司祭長は言葉を切った。

 蝋燭の炎がわずかに揺れ、沈黙が二人を包み込む。


 リリエスは黙って彼を見つめた。

 彼の指先は、祈りを組む形のまま微かに震えていた。

 それは寒さではなく、何か別の——心の震えのように見えた。


「——だが、すべては“裏切り”の日に終わりました」


「裏切り?」


 リリエスは片眉を上げた。

 司祭長の表情が、一層曇りを帯びる。


「イアンです。彼が……恩師を異端として告発したのです」


「……うわぁ、筋金入りの恩知らずだね」


 淡々とした皮肉に、司祭長の口元がわずかに引きつる。

 場に似つかわしくない軽口——けれど、それは張り詰めた空気をわずかに和らげた。


「イアンは成人し、司祭として戻ってきました。

 そして言ったのです。『貧しき者に施すことは罪だ。神の試練を奪う行為だ』と。

 若き信徒たちは彼に倣い、『救いとは生き永らえることではなく、苦痛から解き放たれることだ』と唱え始めた。

 以降、恩師は自らの理念に迷い、その信仰は静かに歪んでいったのです」


 司祭長の声には、痛みと懺悔が混じっていた。

 それはまるで、自分自身を責めているようにも聞こえた。


「それでも……彼は最後まで、祈っていましたよ。

 異端と呼ばれながらも、人の幸福を願って。

 ——それが罪だと知りながらも」


 その言葉に、リリエスの胸の奥が微かにざわめく。

 司祭長はほんの一瞬、彼女の十字架に視線を落とした。

 まるで、同じ重荷を見たことがあるかのように。


「なるほど。“救い”を巡って、師弟が真っ二つに割れたわけか。

 ボクが行くのは……信仰の瓦礫の上、ってことだね」


 その声には、かすかな哀しみと、冗談めいた軽さが同居していた。

 司祭長は短く頷き、重々しく言葉を続ける。


「いずれ、私も審問に掛けられるでしょう。

 神の御心のまま、どんな罪でも受け入れる覚悟です。

 どうか、この身に免じて——今一度だけ、あの方に神の御慈悲を……」


 司祭長の声は震えていた。

 その姿は、神の使いではなく、罰を待つ罪人のようだった。

 だが、その瞳の奥には——奇妙な静けさがあった。


 リリエスは瞳を閉じ、己の心に問いかける。


 ——哀れだ、と思う。

 悲運に翻弄された人間の弱さを前にして。

 だが、それは彼に向けた憐憫ではない。

 ボクに許されたのは同情でも慈悲でもない。

 ただ、“審問官”として粛々と任を果たすことだけ。


 剣の切先を床に突き立て、十字架に手を添える。

 その仕草は、処罰者ではなく祈る聖職者のようだった。


 ——神が沈黙しても、信仰は沈黙してはならない。

 それが教会の教えだ。

 神が語らぬのなら、人が神の代わりに裁く。

 それが、“白銀の聖女”に課されたもう一つの役目——“神の沈黙を補うこと”だ。


「神の御名のもとに、死せる者へ安寧を。

 誰であれ、神は懺悔する者を平等に迎えてくださるはずです」


 司祭長は深く息を吐き、蒼白の頬に血の気を戻した。


「……嗚呼、ありがとう。その慈悲に感謝する。——心優しき《白銀の聖女》よ」


 その言葉を口にしたとき、彼の微笑はあまりにも穏やかだった。

 だが、ほんの一瞬、その笑みに“諦念”の影が差した。

 リリエスはそれを見逃さなかった。


「聖女、ね……。ボクはそんな立派なものじゃないよ」


 小さな独白が石畳に吸い込まれていく。

 回廊を渡る足音だけが、長く、深く響いた。


 ——頭の中で、鐘の音が鳴る。

 低く、鈍く、誰かの運命を告げるように。


 その音の中で、“声”が聞こえた。


『審問官リリエスよ。汝に命ずる。

 《背神者》レオン・エルバスを拘束し、その穢れを祓え』


 リリエスはその場に跪き、首を垂れる。


「御心のままに」


 立ち上がり、頭上に佇む神像を見上げた。

 黄金の冠を戴くその像は“慈悲深き父”の象徴。

 けれど、その瞳はどこまでも虚ろで、光を宿していなかった。


「ねぇ、あなたはまだボクたちを見てるの?

 それとも——もう、見捨てた?」


 祈りとも呟きともつかぬ声が、聖堂に落ちる。

 ——ボクは、まだ信じているのだろうか。

 神が在ると。奇跡が存在すると。

 そして、この手で奪った命にも、救いがあると。


 沈黙が答えの代わりに降りてくる。

 燭台の炎が揺れ、光と影が壁を滑った。


「……神の視線は、どこにあるだろう」


 呟きは、誰の耳にも届かない。

 神は、何も教えてはくれない。


 外で鐘が鳴った。

 それは“告解”ではなく、“断罪”の鐘。


 リリエスは法衣の裾を翻し、静かに聖堂を後にする。

 扉を開けた瞬間、朝日が昇った。

 灰色の都を淡く染め上げる光が、冷たい風とともに流れ込む。


 神は沈黙している。

 ——だが、人はそれでも祈り続ける。

 神の視線の届かぬところで、今も救いに飢えているのだ。


 ボクは、その沈黙を裂くために。

 そして、自身の罪を贖うために——生まれてきた。

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