二話 断罪の舞踏

 ——アガルタの下層区。

 聖都の繁栄を支える土台であり、同時にその腐敗の根源でもある場所。

 光があれば、必ず陰が生まれる。ここは、繁栄の影が積もり重なった街だった。


 瓦礫と煤に覆われた建物が並び、路地裏には水ではなく、腐った何かが流れている。

 立ち込める悪臭は、祈りの残滓さえも蝕むようだった。


 かつて孤児院だったという建物の残骸には、崩れかけた十字架がまだ残っている。

 風が吹くたび、ぎい、と軋む音を立て、まるで泣いているように見えた。


 リリエスは足を止めた。

 霧の向こうから、幼い笑い声が聞こえた気がして振り返る。

 ——だが、そこには誰もいなかった。


 白銀の髪が風に揺れ、淡く鈍い光を返す。

 その姿を見た乞食の男が小さく頭を垂れ、薄汚れた女が息を呑むように呟いた。


「白銀の聖女だ……神はまだ、我らを見捨てておらぬ……」


 その言葉に、リリエスは目を伏せた。

 胸の奥で、鈍い痛みがひとつ脈打つ。


 ——見捨てていない、か。

 本当に、そうだろうか。


 ここは“スラム”と呼ばれる街。

 別の名を、神に棄てられた地。

 あるいは——神を見限った者たちが集う場所。


 この腐敗は、神に見放されたから生まれたのか。

 それとも、人が神を見限ったからなのか。

 ……いや、そんなことを考えること自体が、もはや罪だ。


 街の奥へ進むほど、人の気配は薄れ、空気は淀んでいく。

 腐った果実と鉄錆の匂いが混じり合い、壁にはかつての聖句が刻まれていた。

 だがその上からは黒い塗料で、異端の標が塗りつぶされている。


〈神は欺く。祈りは血で応えられる〉


 リリエスはその言葉を指でなぞり、小さく呟いた。


「……ずいぶんと熱心な教義だね」


 その時、金属の擦れる音が響いた。

 反射的に、彼女は身を翻す。

 光の届かぬ細い路地の奥、影の中に、一人の男が立っていた。


 痩せた体躯に黒衣をまとい、長い袖が地を引きずっている。

 手には血に染まった布を握りしめ、何かを包むように抱えていた。


 すでに息の気配はない。

 生者の匂いは、この場所からとうに失われていた。


 リリエスが一歩踏み出すと、男が顔を上げた。

 尖った耳、細長い胴、剣のように鋭い爪牙。

 その瞳は血に濡れたように赤く、まるで御伽噺に出てくる吸血鬼のようだった。


「……聖女か。いや、今は“異端審問官 第二位天使”と呼ぶべきか」


 その声音は、懺悔の祈りにも似ていた。


 リリエスは目を細める。

 秘匿された身分を言い当てられたことに、わずかに息を呑む。

 教団の情報網は、思っていた以上に深く根を張っているらしい。


「あなたが……レオン・エルバス?」


 かつて孤児院を率いた司祭。

 子らを愛し、神の慈悲を説いた恩師。

 ——その名は、今や粛清対象として告げられていた。


 レオンは微かに笑んだ。

 その笑みには怨嗟も恐怖もなく、ただ静かな諦念だけがあった。


「来たのだろう? 私を裁くために」


 肯定も否定もせず、リリエスはただ銀の剣を抜いた。

 刃が朝の光を受け、金色の反射を散らす。


「その剣は、神のものか?」


「違うよ。——ボク自身の罪を断つためのもの」


 風が吹いた。灰が舞い、遠くの鐘が鈍く鳴る。

 その音はまるで、誰かの鼓動のようだった。


「あなたを拘束する。“背神者”レオン・エルバス」


 声は淡々としていたが、内奥に疼く痛みを隠しきれない。

 レオンは短く息を吐いた。その目には恐れがなかった。

 むしろ、救いを得た者のように穏やかだった。


「拘束、か……。君たちはいつもそうだ。

 神のために裁き、罪のために祈る。

 だが——君自身の罪は、誰が裁く?」


 リリエスの指先が震えた。


「ボクの罪は……ボクが斬る」


「その剣で、何人の魂を救えた?」


「……それは——」


 その問いは、心の奥深くを抉った。

 胸の底へ沈むように、彼女の言葉は消えていく。


「答えられない、か。ならば見せてやろう。これが“救い”の新しい形だ」


 レオンは崩れた扉を押し開けた。

 中は薄暗く、血と乳香が入り混じった匂いが満ちている。

 壁には幼い筆致の絵が貼られていた。

 “神様の顔”、“パンを持つ男”、“笑っている子ども”——。

 かつての孤児院の面影が、かろうじてそこに残っていた。


 だがその中央、円形の祭壇には異様な光景が広がっていた。


 十数人の人々が横たわっている。

 その表情は苦悶もなく、まるで安らかな眠りに落ちているかのようだった。


「これは……」


「救済の儀だ」


 淡々と、レオンは言った。

 その瞳には確信があった。


「苦しみを終わらせる。神が沈黙しているなら、我らがその代わりとなる。

 死こそが、我々に許された“安寧”なのだ」


「——あなたは、それを救いと呼ぶの?」


「違うか? 君たちは“罪”を洗うために血を流す。

 我らは“苦痛”を癒すために血を止める。

 どちらが正しい? どちらが神に近い?」


 司祭長の言葉が脳裏に蘇る。

 ——『貧しき者に施すことは罪だ。神の試練を奪う行為だ』。

 ——『救いとは、生き永らえることではなく、苦痛から解き放たれることだ』。

 ——『恩師は、自らの理念に迷い、その信仰は静かに歪んでいったのです』。


 ……もし、もしもだ。

 生きることこそが神の愛を享受することだと信じてきた彼が、

 皮肉にも愛する教え子たちに裏切られたのだと言うのなら——

 行き場を失ったその信仰は、いったいどこへ向かえばよかったのだろう。


 ——『神は我らの内に在す。愛とは、生きることそのものだ』 

 だが、もし生が苦しみであるならば——

 『死こそが、神の愛なのではないか』と。


 その瞬間から、彼の教義は反転してしまったのかもしれない。


「狂ってる……こんなのが救いであってたまるものか!」


 リリエスの声は怒りよりも、悲しみに満ちていた。

 孤児たちに希望を語ったはずの男が、今は死者に救いを説く——その現実が胸を刺した。


 レオンの瞳がわずかに揺れ、かつての“師”の影が一瞬だけそこに戻った。


「……リリエス。君は、まだ神を信じているのか?」


「信じてる。

 たとえ神が何も言わなくても、ボクが裁き続ける限り——

 沈黙の中にも、意味はあると信じてる」


「愚かだ! 沈黙は答えではない、拒絶だ!」


 レオンの咆哮が響いた。

 黒い靄が地を這い、瓦礫を呑み込む。

 空気が裂ける音。祈りが崩れる気配。


「神は我らを見捨てた! それでも私は祈った!

 何も返らなかった! ならば、我らが神を作るしかない!」


「それが……“背神”の理由?」


 レオンは両手を広げた。

 掌には焼け焦げた聖印が刻まれている。


「さぁ、“白銀の聖女”。

 君の神は、今も君の背を見ているのか?」


 リリエスは答えず、静かに剣を構える。

 風が止まり、世界が息を潜めた。


 ——沈黙の中、二つの信仰が交錯する。


 リリエスの沈黙を、レオンは答えとして受け取った。


「そうか。では見せてあげよう、リリエス。

 神を棄て、闇に赦された者の“真の姿”を!」


 その胸の奥から黒い靄が立ち上り、肉体が歪む。

 骨が軋み、肉が裂け、血が沸騰する。

 皮膚の下から黒い血管が浮かび、裂け目から紅光が漏れる。

 黒衣が破れ、背中から赤黒い翼が広がった。

 それは堕天使のようであり、神の赦しを拒んだ吸血鬼の姿だった。


「……やはり、教団の“禁忌の力”に呑まれたか」


「力ではない、“赦し”だ!

 神は私を見放した。だが、闇は私を受け入れた。

 ならば私は、闇の中で光を探す者となろう!」


 赤い眼が狂気の奥に慈愛を宿す。

 それは祈りだった——歪んでいても、なお祈りであった。


「——それこそが、真の信仰だと思わないか?」


「違う。それは救いの形をした絶望だよ」


 リリエスが踏み出す。

 刹那、光が閃いた。

 銀の剣が風を裂き、首元を狙って振り下ろされた。


「——断空・枯羅足利からたり!」


 一閃。

 黒血が弾け、肉が断たれた。

 頭部は宙を舞い、瓦礫の上に転がる。

 その瞳は開いたまま、薄く笑っていた。


 次の瞬間——首が崩れ、泥のように溶けていった。

 黒い液体が地を這い、断面から伸びる蔦のようなものがそれを吸い上げる。


 教団の“赦し”は、死を拒む。

 人であることを捨て、不死を与える冒涜の奇跡。


 リリエスの目の前に、再び立ち上がるレオン。

 首を失ったはずのその男が、穏やかに微笑んでいた。


「まぁ、首を斬ったくらいじゃ死なないか」


 リリエスは小さく息を吐いた。

 その声は冷たくも、どこか哀しい。


「死なぬことは冒涜ではない。贖いの機会を得たということだ。

 神が黙すならば、我々は己の血で罪を清算する」


「仮初の力でよくも信仰を語れるね。

 人であることを捨ててまで、あなたは誰に祈っているの?」


「……黙れ。私はこの力を以て、祈る者に等しく死を与える。

 神の代わりに、私が人を愛すのだ」


「……神を模倣しても、救いは生まれない。

 ——それはただの、暴力の体現だよ」


「ならば見せてみろ。沈黙を信じるお前の“救い”を!」


「……もう、何を言っても無駄か」


 リリエスは静かに構え直す。

 その瞳に、再び暗澹の影を宿して。

 静かな殺意を帯びた冷気が場を包んだ。


「いいでしょう。

 あなたの歪んだ信仰、異端審問官たるこのボクの剣で——正しき道へと導いて差し上げます」


 二つの信仰が、ついに剣と爪となって激突する。

 火花が飛び、崩れた十字架が倒れた。

 祈りの場は、いまや断罪の舞台と化していた。

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