わたしは月の皮膚
たーたん
わたしは月の皮膚
夕方の保育室は、絵の具とクレヨンの匂いが混じっていた。窓の外には沈みかけた陽が残り、園庭のすべり台が長い影を伸ばしている。
子どもたちは描き終えた画用紙を抱えて、迎えの父母のもとへ走っていった。
私は静かになった室内の後片付けをしている。机の上に持ち帰られなかった一枚の絵を見つけた。真っ黒に塗り潰された画用紙だった。その中央に、黄色のクレヨンでぐるぐる描いた丸がひとつある。
私はこれを見たとき、あの子にこう言った。
「月が綺麗ですね」
暗闇の中のまん丸お月様。夜空を見るのが好きなのだろう。
その子は、目を伏せたまま小さく頷いた。
その夜の散歩。
私は、夜空の月を見上げるとあの子の絵を思い出した。
この子はいつも黒で塗り潰して、最後に黄色い丸を描く。
最初の頃は夜空を描いているだけだと思った。でも家庭環境が心配になり、この子のお父さんに伝え、何度か相談した。園内でも話題になったが、この頃の歳の子は感性が豊かで、下手に刺激をしない方がいいと判断された。
でも違う気がする。この黒の奥に、ちゃんと何かがあるように思えた。
もしかしたら何かを描いて、黒で塗り潰して消しているのだと。
今日も私はその黄色い丸を指差して微笑んだ。
「今夜は晴れだから、星空も月も綺麗かもしれないですね」
「……」
子どもは顔を上げず手に持った黒いクレヨンを握り直した。
次の日も、その次の日も。黒い絵が増えていった。
「お星さまも描いてみたらどうですか? きっと綺麗ですよ」
お手本ですと黄色い点々を黒の中に落としてあげた日もあった。
すぐにその上から見えなくなるまで黒く塗りつぶされて消されてしまったけれど、一緒になって絵を描いているようで楽しかった。
「月が綺麗ですね」は、私の口癖のようにあの子への誉め言葉になっていた。だから一緒になって絵を黒く塗ることも手伝った。
それ以外の言葉が出てこない自分に少しだけ情けなさを感じながらも、そう言い続けた。一緒に遊んで構ってあげることが、様子を見ることでもあったし、平穏に過ごすための方法だと私は考えていた。
ある日の午後、その子の絵の丸がいつもより大きかった。私は無意識にその前で立ち止まっていた。彼はめずらしく顔を上げ、まっすぐ私を見た。黒い瞳の奥に黄色が滲んでいた。
「月が綺麗ですね」
私がそう微笑むと、彼は口を開いてはっきりとこう告げた。
「月じゃないよ」
「え?」
「これは先生の顔だよ」
言葉を失っている間に彼はまた黒を塗り始めた。
ぐりぐり、ぐりぐり。
黄色の輪郭が、ゆっくりと闇の中に沈んでいく。
私は何も言えずにその場を離れた。
この子は何を言っているのだろう。
そう考えると、胸の動悸が収まらなかった。
門を出るころには、もう暗くなっていた。冬が近づき、陽が傾くのが早くなってきた。空に浮かんで見える月は、やけに赤く低く見えた。まるで私を照らすように。
その夜。
私は日課になっている散歩の準備を終え外に出る。
熱くなっていく体を覚ます夜風は気持ちがいい。
ぴか、ぴか、ぴか。
来て、来て、来て。
胸の奥で、あの子の声が蘇る。
――これは先生の顔だよ。
その言葉がだんだんと嬉しくなってきた。何度も何度も、むせ返りそうになる狭い箱の中、二つの湿った息を絡めながら、朝日が昇るまで徘徊を繰り返した。
光が不規則に突き抜けて皮膚が焼けるようだった。その痛みにも似た感覚は、認められたような気がして、胸の奥までじんじんと太陽に焼かれるように燃え広がった。
その事実を包み隠さず相談すると、夜の散歩は危ないからやめようと言われた。
心配してくれた温かさを感じて、本当に認めてくれたんだと体が震えた。
私は生まれて初めて嬉し涙を流した。
つまりはそういうことだ。
朝も、昼も、夜も、関係なくなったということ。
実ったんだ。
翌日。
あの子に近づく。変わらず黒く塗り潰している絵の中の黄色い丸。私が近づくと、その丸はどんどん大きくなっていった。
「先生の顔、なんだか大きいですね」
私の存在がこの子の中で大きく、確かなものになっているということだ。
冷静な笑顔を保っているが、零れそうになる声を懸命に我慢している。
「だって先生。いつも夜に僕の家の前でライトつけて立ってるでしょ」
「はい、そうです」
「毎日近づいてきてる」
「はい、そうです」
ああ。だめ。
言葉が嬉しさで震えてきている。
「パパがママに怒られてた。もう散歩しないってパパはごめんなさいしたよ」
「それはパパが偉いですね。でも、先生はまだ謝れていないんです。どうしたらいいと思いますか?」
私の手が震えた。
闇の中で、月だけが白くて綺麗だった。
「悪いことしたなら、ごめんなさいするんだよ」
はい、その通りです。
純真で、疑わず、正直。だから子供は愛おしい。
「はい。今夜、ごめんなさいしに行きますね」
暗い影に怯えているのなら、私が月になって照らしてあげます。
今はまだ、この口元は三日月のまま。
今夜はきっと、満月のように光り輝く。
わたしは月の皮膚 たーたん @taatan_v
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