第4話 決断
今日のエネアの執務室は、朝からエネアがいるためにとても平和だ。仕事を俺に振るのはエネアだし、仕事を始める際にすべてやり方を教えてくれる。スザンヌと違って、わざと間違えるように仕向けられることがないから、安心して仕事を進められる。
そう、リラックスしてペンを走らせていると、小気味よいノックの音が響き、執務室の扉が開いた。
「ご子息は執務室まで持って、しっかりと父上をお助けしているようだな?」
「っ! レイ殿下?!
なぜこのような場所に……!」
エネアの執務室に、突然レイ・オルベルク殿下が侍従を一人連れて現れたのだ。殿下はしばらくこの男爵家に滞在し、冬のバカンスを楽しむらしい。
エネアはすぐさま執務机から立ち上がり、扉に立つレイの元へ駆け寄る。
「レイ殿下、本日は父と遠乗りの予定だったのでは?」
「あぁ……そうだったんだが……
どうも男爵は馬が苦手らしい」
肩をすくめながらエネアに答える殿下は、余裕のある笑みを浮かべてエネアを見下ろしている。
……まぁ、あの男爵の腹では馬に登れなかったんだろうな……。
頭の中で、
「男爵に君が年齢も近いし、話が合うのではないかと勧めてもらったんだ
どうだろう、今日は私の相手をお願いできるかな?」
「はい、もちろんです
では、
男爵がもてなせないのであれば、その息子がもてなすのは妥当だな。わざわざ殿下が迎えに来てくれるなど異例だろうが……誰一人として使用人はエネアを呼びに走らなかったのだろう。
ふぅ、息をついて、手元の書類に視線を戻す。何にせよ俺には関係のない話だ。
今日の書類はエネアが記載方法や計算方法を教えてくれたから、面倒なやり直しもなく順調に終わるだろう。
……と、ペンを走らせていると、急に手元が暗くなる。
「ほぉ、なかなか綺麗な字だな
計算も早く正確だ」
「! 殿下……っ」
見上げると、手元を
「おや、すまない
仕事の邪魔をしてしまったな」
「いえ、気がつかず申し訳ありません」
頭を下げているため、殿下の表情は見えない。だが靴のつま先がこちらを向き、一歩踏み出そうとしたその時、
「殿下、貴賓室はこちらです
どうぞ」
俺と殿下の間にエネアが入り、そのまま殿下を連れて執務室を出ていった。
……一体なんだったんだ。どくどくと音を立てる胸元に、手を当てる。
机を挟んですぐ向こう。その距離で香ったあのフェロモン。アンバーのような甘く官能的なαの香り……。
あいつはやっべー奴に違いない。あの甘いマスクにあの香り、絶対に遊び人だ。危険な男だ。各地を飛び回って、おそらく各地に一夜限りの相手がいる類の奴だ!
「あなた殿下にまで色目を使うつもり?
見るだけで吐き気がするからやめて」
スザンヌは凍りつくような声音で吐き捨てると、すぐに仕事に戻った。……俺もさっさと仕事を終わらせよう。
俺も、初めはエネア達の家族として迎え入れられた。
家族を失った俺は、男爵の爵位を叔父に譲る書類にサインした。10歳の時だ。その時には俺はΩだと診断を受けていたし、Ωの子どもが爵位を継承するなど、聞いたことがない。ごく、常識的な判断だった。今でもそう思う。
そうして、トマス男爵の義理の息子として引き取られた。
それが変わったのは、俺が14歳の時だ。
「こ、こいつが俺を誘惑したんだ!!
この汚らわしいΩが!!」
突然だった。
寝室に叔父が忍び込み、俺の身体をまさぐり始めたのだ。最初は誰が自分の肌に触れているのかが分からず、必死に暴れて助けを呼んだ。
ランプを手に駆けつけたエネアや使用人たちが見たのは、下半身を露わにしたトマスだった。
わけも分からず泣きじゃくる俺を、エネアは抱きしめ守ってくれていたが、それを見て
「そんな
お前などがいるから、この家の男たちが狂うんだ!!」
エネアが抱きしめる俺の髪を引きちぎり、シャツを引きちぎり、使用人たちがなんとか引き
だが翌日、俺は貴族ではなくなった。
「お前のような淫らなΩを同じ屋敷内に飼っておくことはできん
この屋敷を出るか、別棟の地下室で暮らすか、どちらかを選べ」
トマスの執務室へエネアと共に呼び出され、応接用の長椅子に座るトマスとその隣のエレインから衝撃的な結論を聞かされる。
扉の前に立たされた俺はエネアに肩を抱かれ、なんとか立っていた。
「お父様! 未成年のΩが後ろ盾もなしにどうやって生きていくのですか!!
お兄様のお子でしょ?! たった一人の生き残りなのですよ?!」
エネアの叫びに、トマスはうるさそうに顔を背ける。
「エネア、いい加減になさい。
あなたは男爵の
早く有力な後ろ盾となってくださる両家のお嬢様と結婚するのよ。
それに未成年だろうが、Ωなら稼ぐ方法はあるでしょう?
世の男どもからいくらだって搾り取れるでしょうよ。お前は男を誘惑するのが得意だものねぇ?」
蛇のようなじとりとした視線を向けられ、背中に冷たいものが走る。
その時の俺は、屋敷の外での暮らしも、地下室での暮らしも、何一つ想像がついていなかった。
ただ、エレインが言うような、誰かを誘惑して稼ぐような仕事は、恐ろしくてできないと思った。
──夜に突然肌に触れた湿った手の平の感触や、荒い息遣いが頭をよぎる。
目の前のトマスと目が合うだけで身体が反応してしまい、エネアの支えを必要とする。
だが、エレインはそれを目にする度、眉間の皺を深めていく。
「ち……地下室でも、どこでも構いません
どうか、僕を置いてください」
「つくづく厚かましいΩだこと
この屋敷に住むのなら、ただと言うわけにはいかない
お前は今日から使用人として働きなさい」
「?! お母様?!
何を仰っているのですか?!
リナはれっきとした……っ」
「お黙り!!!」
執務室の窓が揺れるほどの怒声が響く。
「夫を誘惑され、息子を翻弄しているΩを、どうにか置いてやるというのですよ?
エネア、お前は母のこの気持ちを……少しでも理解する気はないのですか?!」
「……っ、しかし……!!」
まだエレインに言い募ろうとするエネアの腕を掴み、ふるふると首を横に振る。
これ以上、エネアが両親と衝突する必要はない。
俺が地下室で暮らし、使用人として働けばいいだけだ。
エネアは最後まで反対したし、守ろうとしてくれたが、トマスとエレインの意思は固かった。
最終的には俺が了承したということで、エネアも収めてくれたが……エネアは今後決して間違いが起こらないようにと、誕生日には毎年うなじを守るための首輪をプレゼントしてくれるようになった。
そうして俺は居場所を確保した代わりに、7年間、使用人として散々な目に合うことになる。
……沢山のことを学んだ。だが、もうすぐ俺は大人になる。
もう、自分で自分の生き方を決められるようになるのだ。
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