第3話 第二の職場
俺の本来の持ち場はエネアの執務室だ。
侍女のスザンヌと共に、エネアの事務仕事を引き受けている。とはいえ、きちんと教育を受けたスザンヌとは違い、俺はエネアから書類の作成や管理方法を教えてもらっただけだから、スザンヌ程は仕事を任されないのだが……
「リナルド、自分が任された仕事くらい、完璧にこなしていただけませんか?
ここの文字はここまで跳ねないと美しくありませんし、ここは筆記体、そこは楷書体とお伝えしましたよね?」
……つい昨日、ここの文字は跳ねてはならないと指摘されたし、ここは楷書体、そこは筆記体と伝えられましたね……。
「申し訳ありません。
すぐに作り直します!」
「はぁ、いいえ、結構です
エネア様にご報告して、私が行いますわ
リナルド様は書類の整理でもしてらして」
「はい……申し訳ありません……」
屋敷に入ったときからエネア付きの侍女としてエレインに教育されたスザンヌは、エレイン同様に俺のことが嫌いらしい。
こういった嫌がらせはまだ軽い方で、毎日のように何かしら仕掛けられる。エネアに直接害が及ぶようなことはないから、そこだけは安心できるのだが。
「やぁ、二人とも頑張っているかい?」
「エネア様!」
執務室にエネアが帰ってくると、途端にスザンヌの顔色が明るくなる。扉まで駆け寄り、エネアを迎え入れた。
「エネア様、聞いてください
またリナルドがまともに書類を作ってくれなくて……」
「スザンヌ、リナルド様、だろ?
彼は前男爵直系のご子息だぞ?」
「っ! ですが! 今の当主はトマス様ですし、後継はエネア様ですわ!!」
「スザンヌ!」
エネアが珍しく強い口調でスザンヌを注意する。……やめてほしい……、あとでエネアがいないところで怒り狂うのが目に見えているから……
「エネア様、呼び方などどうでも良いではありませんか
スザンヌ様は仕事を教えてくださる先輩なのです
立場上、名前で呼ぶのは当然です」
「リナルド……
お前は本当に優しい子だな」
エネアが微笑みながら俺の頭を撫でるのを、こちらも微笑みながら受け入れる。でも、……本当に怖い。エネアの背後で、スザンヌがこちらをすごい
「んあ"ぁ〜〜〜ッ!!
つっかれたぁぁ!!」
ここは、屋敷の誰もが寄りつかない場所、リナルドの自室……もとい地下室だ。その隅に申し訳ない程度に置かれた古いベッドにうつ伏せに崩れ落ちる。はぁ、やっとひと心地ついた。
あの後、やはりエネアが居なくなってから、スザンヌには急務でない力仕事を頼まれたり、作成した書類を目の前で破かれ頭から振りかけられたりしたが、なんとか仕事は終わらせることができた。
この部屋は元は雑具を一時保管するのに使われていたのだが、今は中身を端へ寄せて、残りのスペースを自室として使用している。屋敷の別棟の端にある扉をくぐり、地下へと続く真っ暗で細い階段をまっすぐに降りると、この部屋へとたどり着くのだ。
寒いし、カビ臭いし、日光は一年中入ることがない。だが、一点だけ、リナルドにとって、かけがえのない利点が、この地下室にはあった。
「ひとまずは……これだな……」
端に寄せられた道具の中から、ほこりをかぶった姿見を引きずり出してくる。ごっほ、えっほと咳払いをしたあと、上着とシャツを取り去り姿見に背を向ける。
ほんのりと
Ωは発情期にαにうなじを噛まれると『
そんな一生を左右する番が、意図せぬ事故で成立しないよう、番を持たぬΩは皆首輪でうなじを守る。首輪は弱者であるΩの象徴なのだ。
極力、そんなものは視界の外へ追い出し、見なければならないものを直視する。
「うおお〜〜……今日もひでぇ……」
今朝、何度も象牙の扇で叩かれた背は、赤い線が横に走り、真っ赤なミミズ腫れになっている。肌が裂けていないのは幸いだ。元々の肌が白いものだから、こういう傷はひどく目立つ。
先日殴られた傷がやっと青くなったり緑になったり治ってきたと思ったらこれだ。
ベッドの横にあるサイドボードから、軟膏の容器を取り出す。
一部は薬を塗れてないかもしれないが、体の柔らかさを生かして、器用に背中へ軟膏を塗り拡げていく。軟膏は以前エネアが持ってきてくれたものだ。そろそろなくなる。
「……今日あたり
よし、支度するか!」
使用人用の制服を脱ぎ捨て、綿のシャツに綿のボトムといった、何の変哲もない町人の格好に着替える。近ごろはもう冷えるから、その上に茶色い薄汚れた
その格好で、地下室の石造りの壁の隅へと進む。少し出っ張っている一つの石を押し込むと、ズズ、と何かを引きずる音が聞こえながら、目の前に人一人がやっと通れるほどの隙間が、壁に現れる。
そう、これがこの地下室唯一の利点だ。
この隙間を抜けた通路は、領内の町へと続いている。夜な夜な屋敷を抜け出しては、ある場所へと通っているのだ。
「あら〜いらっしゃい
久々じゃない? ゆっくりしていってね」
「もう、お触りは別料金って言ったでしょ?」
「こっちにシャンパン一本ちょうだい〜!」
ガチャガチャと酒瓶がぶつかる音に、女たちの笑い声、流しの安っぽい音楽が溢れる酒場は、今日も活気に満ちている。
「あれ〜
リナルドあのドレス着なかったの?」
キャストのライラが俺の姿を見て話しかけてくる。ライラの首元にはイミテーションの宝石で飾られた首輪がある。彼女も俺と同じくΩだ。
「マダムが用意してくれたやつだろ
あんな背中ががっぽり開いたデザイン、俺に着こなせないよ
よかったらライラが着れば」
「駄目よぉ
リナのドレスなんて、私息ができなくなっちゃうもの」
ライラは俺の目の前で、豊満な胸元を強調してそんなことを言い出す。俺は思わず目を
「まぁ、リナはそんな地味な格好でも、客がつくから
うらやまし〜」
「そんな嫌味ばっか言ってたら、弟が覚えちまうぞ」
「あら〜! 私が女手一つで育ててる可愛いライルは、嫌味なんて言わないわよ〜」
フロアから指名されたライラは、うちの子は天使だもの! と満足そうに微笑みながら、フロアへと戻って行った。
地味、と言われた今日の俺の装いは、深い青色のロングドレスだ。首輪が隠れるハイネックのノースリーブで、スラリとした細身のドレスは俺の体のラインに沿うように、スルスルと揺れる滑らかな薄手の生地でできている。亜麻色の長めの髪は一つにまとめてシンプルなシルバーのアクセサリーで飾る。
「……まぁ、地味か」
この酒場は、酒を飲みながらキャストである女性やΩとお喋りができる健全な店だ。ただし、キャストが許可すれば金を払うことでキャストに触れる事ができるし、キャストが求める金額によってはそれ以上の行為が許される店でもある。
2階にはそのための個室も用意されている。
──俺は2階でのサービスはお断りしているが。まだ俺は未成年だ。もし万が一未成年のΩである俺に性行為を行えば、王国法に基づいて厳しい罰が下される。例え俺が誘ったとしてもだ。
キャストとして働くことは……完全なるグレーだが、マダムは去年俺がキャストとして働きたいと言ったときに成人したと思っているので、バレないように気をつけている。
「きゃああ! 何するのよ!」
「お客様でない方をお通しすることはできません
どうぞお引き取りを」
エントランスで用心棒と女性が揉めだした。
あの女性は……
「あらやだ、テレサったらまた嫌がらせに来たのね」
「テレサ?」
「町の外れにある高級娼館の店主よ
この店ができてから、客が激減したんですって
それで定期的に嫌がらせに来るの」
「だってあの店、娼婦を商品としてしか扱わないし、薬漬けにしてまで身体売らせていて、問題になってたんでしょ?」
「え、こわ〜」
「この店ができてから、若い女の子も、Ωもみんなこっちに来ちゃったから、商品になる娼婦がいなくて、もうほとんど潰れかけらしいわよ」
控室でキャスト同士の噂話に花を咲かせていると、もう、エントランスでの騒ぎは治まったようだ。テレサという女性の姿は見えなくなっている。
そのとき、フロアから声がかかる。
「リナちゃ〜ん、ご指名よ〜」
「あ、はーい!」
俺がこの店で働き始めたのは13歳のときからだ。だんだんと屋敷内での待遇が悪化し、Ωの抑制剤さえも手に入らなくなっていった。
与えられた地下室は、幼い頃兄と一緒に隠れ家としてよく遊んだ場所だ。町へと続く地下道があることも知っていた。
だから町へと内緒で繰り出し、自分で稼いで、その金で抑制剤を手に入れることにしたのだ。この店で皿洗いや雑用から始め、去年あたりからキャストとして客の相手をするようになった。
そのほうが稼げる!
この店は、キャストが嫌がることは強要しない。客から求められるサービスも、自分たちでその求めに応じるかどうかを決めることができるのだ。
ここで働けるお影で、屋敷の使用人としての給与が与えられない俺は、抑制剤を買うことも、一人で生活していくうえでの資金稼ぎもできる。客も見目のいいΩを侍らせることに魅力を感じてくれているのだろう、基本的に皆金払いが良い。
さぁ! 今日もはりきって稼ぐぞ〜!!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます